No.27 「悪友」と過ごした35年間 ~タバコとの出会いから禁煙まで~(その1)
◆「悪友」との出会い タバコとの出会いは、確か高校3年生の冬(1975年1月ころ)だった。
大学入試が目前に迫り、焦りながら自宅2階の自分の部屋で勉強していた私は、ふと思いついて1階の父親の机のところまで行き、父親が愛煙していた「チェリー」を1本くすねて自分の部屋に戻った。ちょっとした冒険心、もう大人に近いんだからいいだろうというような誇らしさ、未成年なのに隠れて吸う後ろめたさ。これらがないまぜになりながら、電気ストーブの電熱線で火を点け、深々と吸い込んだ。ニコチンが血液に乗って体中に広がっていく。ちょっとクラクラする。
これが、その後35年間も続くことになる「悪友」=タバコとの出会いの瞬間であった。
◆浪人時代──気持ちがすさんで増えるタバコ
大学受験は失敗し、悲しい浪人生活に突入。駿台予備校の京都校に入学し、同予備校の上賀茂寮で1年間を過ごしたが、4人部屋の仲間は全員喫煙。浪人時代特有の、ちょっとすさんだ心情もあり、タバコの本数は一気に増えた。銘柄はいろいろ試したが、後半は「ハイライト」に落ちついていった。 浪人時代の冬に、タバコが値上げされ、ハイライトが80円から120円に値上げになるということで、パチンコで勝って大量のハイライトに交換したことを覚えている。
◆大学時代──時代のトレンドだったタバコ
ようやく第1志望の大学に入学することができた私に、叔母(母の姉)がくれた入学祝いは、電子ライターだった。ピカピカの金色のスリムなボディに、薄べったい丸いボタンが付いていて、それを下にずらすと、「カチッ」という音がして「ポッ」と火が点いた。とてもカッコよかったが、早くも入学して2週間くらいで紛失した。
私は4回生までの4年間、「第二進修学舎」という小さな寮(これは「南葵育英会」という団体が運営し、和歌山県出身の大学生であれば入寮資格があるというめずらしい寮だった。)で生活したが、ここでも、寮生16人中、タバコを吸わない人は2、3人だったと思う。
当時の学生の喫煙率は、8~9割くらいあったのではないか。70年代後半は、全国的には学生運動はもう衰退していたが、京都、とりわけ京大ではまだまだその雰囲気が残っており、政治や人生について議論する学生たちの手には常にタバコがあった。タバコは当時の若者にとって、大人になった証であるとともに、社会に対する反骨を示すツールでもあったのである。
そんな中で、私もタバコの本数は一気に増えた。1日2~3箱、多い時は1日4箱くらい吸っていた。マージャンをするときも、パチンコをするときも、いつもタバコが一緒であった。一度、吸い過ぎて体調がおかしくなり寝込んだこともあった。
銘柄は、2回生くらいまでは「ハイライト」だったが、当時あたりからニコチン・タールが少ないものに人気が出始めたこともあり、3回生から4回生にかけて、「セブンスター」→「マイルドセブン」→「マイルドセブンライト」→「マイルドセブンスーパーライト」と、少しずつ軽いものに移って行った。しかし、量は相変わらず3箱くらいは吸っていた。
(以下、「その2」に続く)
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岩城先生、ご無沙汰致しております。
私も女だてらに(これを言われることがジェンダーなのですが)、今でも、1箱半くらい煙草を嗜んでいると思います。
当職の場合、精神的ストレスが凄いので、まあ合法的薬物??の煙草やアルコールで我慢していることが健全?で、大麻や覚醒剤といった、またMDMAの薬物などとも一切縁はなく(当然であるが)、お酒も煙草も一切辞める気はありません。
当職の母も急性骨髄性白血病に罹患した際に、当職も、もう死ぬからと思いお酒も煙草も思う存分に供給してあげました。しかしながら、母は助かりました。骨髄移植をしても助からない急性骨髄性白血病で、助かったのですから凄いですよ(笑)。
当職は人として、ストレスこそが最大の病の原因であって、煙草やお酒はリスクは高くなっても、それが直接の死の原因にはならないと思っているのです。
母は、平成16年に急性骨髄性白血病に罹患し、その後大腸ガンの手術もし、またC型肝炎のキャリアでもあり、それでもお酒も飲んで煙草も吸って、現在78歳でもまだ生きています(笑)。
さすが、久保利子の母親と思っていますが。
生に対する執着心と言いますか、人間としての免疫力と言いますか、当職ら親子はどんなに病や事柄で叩かれても、負けないくらいのしぶとさがあるのでしょう(笑)。
岩城先生は禁煙をされましたが、当職は全くそのつもりはなく、
それで死ぬのなら本望であると思っています。
投稿: 久保利子 | 2011年6月 6日 (月) 01時15分
◆久保利子 様
コメントありがとうございました。
私は、現在まだ喫煙されている方に、「私を見習って、タバコはやめた方がいいですよ」などと申し上げるつもりはまったくございません(笑)。
私自身、いつかやめれたらいいなあとは思っていましたが、恐らくそんなことは不可能で、死ぬまで吸い続けるだろうと思っていました。
こんなつまらないタバコの思い出話を書くのも、タバコにまだまだ未練があるからだと思います。
喫煙者の皆さん、これからもタバコと上手に付き合ってあげて下さいね。
投稿: 岩城 穣 | 2011年6月 6日 (月) 22時31分
初めまして。
僕も駿台上賀茂寮に入居していました。
1982~83です。
いまだに2年に一度くらいの頻度でふらりと京都を訪れ、
寮の前まで足を伸ばします。
10年ほど前からマンションになっております。
第一志望の大学には結局合格できなかったので
何とも切ない想いで鴨川辺りを歩いて帰ります。
投稿: | 2013年5月27日 (月) 01時14分