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2011年6月の9件の記事

2011年6月27日 (月)

No.35 JR西日本の「ダイヤの乱れ」に思う

 私が利用しているJR西日本の阪和線は、ダイヤの遅延や乱れが本当に多い。
 一番多いのは「人身事故」。転落事故のほか、最近は恐らく自殺が多いのだろう。これについてはこのご時世なので、やむを得ない面がある。
 自殺者が私鉄よりもJRが多いのは、路線の総キロ数が多い、市街地の平地を走っていることが多い、踏切が多い、などが原因だと聞いたことがある。

 しかし、阪和線の場合、それだけではない。「電線に飛来物がからまった」とか(「ヒライブツ」って何やねん!)、「踏切の遮断棒が折れた」とか(折るな!)、「線路に人が立ち入ったため」とか(立ち入るな!)、いったい何やといういうような理由で、年がら年中「遅延」しまくっている。私が利用する範囲だけでも月に4回~6回くらいあるように思う。
 腹立たしいのは、「遅延」について、「お客様には、お急ぎのところ、大変ご迷惑をおかけ致しておりますことを深くお詫びいたします」みたいなことを言うが、いかにも「通り一遍」で、心がこもっていないのである。

 110626jr_3 実は、つい2日前の6月25日(土)もあった。阪和線の最終電車(天王寺発、0時35分発)に乗ろうとしたら、何と23時台の電車がまだ天王寺駅に着いていないのである。ホームは人で溢れている。
 しかも、肝心の遅れの理由について、何も説明がない。「本日は阪和線のダイヤが乱れ、皆様には大変ご迷惑を‥‥」というだけなのである。
 到着は0時55分ころになると言っていたが、実際に出発したのは午前1時を回っていた。
 乗客は、みんな疲れとあきらめでムスッとして、何も言わない。しかし、土曜日の最終電車の時刻が30分以上遅れるというのは、本当に辛い。駅まで家族に迎えに来てもらう人もいるだろうし、明日の予定もあるだろう。予定外に、タクシーに乗らなければならない人もいるかもしれない。

 そもそも、時間どおり運行して、時刻表の時刻どおりに目的地に乗客を運ぶのは、運送契約の本質的な内容である。それを果たさないのは、契約の不履行であって、損害賠償がなされてしかるべきである。

 JRに限らず、今問題になっている東電や関電も、JALも、NTTも、元国策会社で今も独占企業であるところは、同じような問題があるのではないか。

 つまり、経営陣は会社の利益をあげるのが第一で、利用者の利便は二の次、三の次である。
 そして、現場の担当者が利用者からの要望や不満を吸い上げ、日々の会社運営に反映させるシステムがないのではないかと思われるのである。

 それにしても、日本人は、私も含めて、本当に我慢強いというか、人がいいというか。
 しかし、そういう「まあそうカッカしないで」みたいな日本人の特質が、利用者を大切にしない企業体質を温存してきた原因ではないだろうか。

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2011年6月24日 (金)

No.34 「気持ちが若い」のは普通? ~「自然年齢」と「感覚年齢」の乖離~

 皆さんは、自分の「自然年齢」(実際の年齢、暦上の年齢)と、「感覚年齢」(自分の感じる年齢、実感年齢)との差を感じたことはないだろうか。

110623yama009_3  たとえば、20歳の時、30歳といえばものすごい分別のある大人のように思っていたが、実際に30歳になったら、自分が思っていたほどには大人になっていなかった。同じように、30歳のとき、50歳といったら人生をほとんど達観していると思っていたが、実際に50歳になっても、昔からの延長線上でいろんな煩悩や感情の起伏に悩まされているのである。

 それと関係があるのかどうかわからないが、何かの申込書の年齢の欄を記入する際、「え?僕ってもう54歳なの?」と、一瞬、何かキツネにつままれたような不思議な感じがすることがある。
 でも、どう考えても、やっぱり54歳以外にあり得ないので、自分で無理やり納得して「54歳」と書かざるを得ないのである。

 それでは、私の場合、「感覚年齢」はどのくらいだろうか。
 「厚かましい」と言われそうだが、感覚的には、40歳過ぎくらいである。

 このような、自然年齢と感覚年齢のズレを感じ始めたのは、30歳を過ぎたころからのように思う。
 これを、あえて対応関係で表せば、次のような感じである。
  自然年齢  感覚年齢
   30歳     27歳
   35歳     30歳
   40歳     33歳
   45歳     36歳
   50歳     39歳
   55歳     42歳
という感じだろうか。
 このように、だんだん2つの年齢の差は、開いていくのである。

 これを演繹すると、あまり考えたくない結論にぶつかることに気づく。
   60歳     45歳
   65歳     48歳
   70歳     51歳
   75歳     54歳
   ‥‥     ‥‥
 つまり、自然年齢は平均寿命に達しても、感覚年齢はそれよりはるか下のまま、人生が終わるということである。やりたいことはやった、思い残すことはないと言って死ぬのではなく、まだまだやり残したことがある、後悔だらけだ、オレはまだ死にたくなーい、などと言いながら、道半ばの感覚で、人生を終えていくことになるのである。

 これは、すでに笑い話ではなくなっている。
 実際、私と同じような年齢の人で、病気などで亡くなる人も、もうかなり出始めている。

 とすると、人生まだまだ長いと思うのではなく、いつ死んでもいいくらいの「濃さ」で送らないと、不完全燃焼のまま死なないといけなくなるということなのである。

 でも、あまりそんな人生は送れていない。どうしたらいいのだろうか。
 ということで、煩悩は続くのである。

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2011年6月20日 (月)

No.33 「父の日」と「過労死110番」

 「母の日」が5月の第2日曜日であることはよく知られているが、「父の日」が6月の第3日曜日であることは、母の日ほどには知られていないし、素通りされることも多いのではないか。

110620_2  そのうえ、陽光うららかでゴールデンウィークとくっつくことも多い、華やかな「母の日」に比べて、じめじめした梅雨の真っ只中の6月に、ポツンとある「父の日」は地味な感じで、ちょっとかわいそうな感じがする。

 数少ない「父の日」の関連行事(?)として、前日である6月の第3土曜日、全国一斉の「過労死110番」が年1回行われる。第1回の「110番」が行われた1988年は私が弁護士登録をした年であった。

 24回目となる今年は、6月18日、「震災後の過労死・過労自殺110番」の名前で全国30の都道府県で行われたが、今回はネーミングのせいか、震災関連の相談が対象と思われたようで、相談件数は全国で69件にとどまった。しかし、うち29件が労災補償の相談で、うち12件が自殺・精神疾患の相談だったから、深刻な状況は変わっていない。

 ちなみに、私は大阪での「110番」に参加しながら、昨日が「父の日」であることを忘れていた。
 すると、夜、サプライズで妻と二男が、日本酒とワインでお祝いをしてくれて、家族で久しぶりに楽しく酔った。
 やっぱり、この時期の「父の日」も悪くない。

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2011年6月19日 (日)

No.32 なぜ、人間だけが「泣く」のか

  40代になったころからだろうか。とても涙もろくなった。そして、その「涙もろさ」は、年齢を重ねるほど「進行」していっているように思う。

 110618_3 つやつや、ぷるぷるの赤ちゃん。無心におもちゃで遊ぶ幼稚園児。運動会で懸命に走っている小学生。入試で合格して飛び上がって喜んでいる受験生。疲れ切ってぐったりと電車の中で居眠 りをしているサラリーマン。年配の奥さんらしき女性の車イスを押している男性。
 人間だけに限らない。飼い主を一生懸命待っている犬や、子ザルのノミを取ってやっている母親ザルにも、感情移入して泣けてくる。
 テレビドラマや映画を観ても、小説を読んでいても、コンサートで心に染みる歌や音楽を聴いても、すぐに涙が出そうになる。
 関西の人気番組「探偵!ナイトスクープ」で、西田敏行局長が、ちょっとしたことですぐに涙で顔がグショグショになっているが、同じ感じである。
 これは、どうしたことだろうか。

 そもそも、なぜ人間は泣くのだろうか。
 感情が高ぶって(情動で)泣く(「鳴く」ではない)動物は、人間だけのようである。人間にもっとも近いと言われるオランウータンやチンパンジーでさえ、涙を流して泣くことはないようだ。

 あらゆる生体反応には必然性、根拠があるはずだから、人間だけが泣くのは理由があるはずである。私が思うに、これは、脳が高度に発達した人間の「社会性」と強く関係しているのではないか。
 すなわち、人間が泣くのは、社会と自分とのあつれき(悲しみ・悔しさ・喜び)による感情の高ぶり(自己情動)を融解し、また、他人や動物、自然の姿に自分の経験や想像を投影すること(投影情動)によって、社会と自分とのつながりを確認しようとしているのではないだろうか。

 だとすると、涙は社会生活上の潤滑油といえる。だから、私たちは、その時々の自分の気持ちに正直に、時には思い切り泣いた方がいいのである。
 実際、思い切り泣いたあと、なぜか気持ちがすっきりした、という経験は誰にでもあるのではないだろうか。

110618_2 私たち男性(特に中高年の年代)は、「男は涙を見せてはいけない」と小さいころから言われてきたし、今でも、「男が泣くのは恥ずかしいことだ」というプレッシャーを感じている。これに対して、女性が泣くことに強い批判はなく、時には同情の対象となることもある(逆に、泣かないと「冷たい女性だ」「可愛げがない」と言われることもあるのではないか)。
 私は、社会でぶつかる困難に対して、女性の方が「しなやか」であり、男性の方が「折れやすい」ように思うが、それは、女性の方が泣くことで自分を立ち直らせる方法を知っているからではないだろうか。

 それでは、冒頭の話に戻るが、年をとるとなぜ涙もろくなるのだろうか。
 私が経験的に感じるのは、次のようなことである。
 すなわち、人生の半ばを過ぎてくると、先行きが短い寂しさと、自分のこれまでの生き方はこれでよかったのかという自問自答の思いをいつも持っている。それだけに、この世のあらゆる生というものをいとおしく感じ、また、子どもや少年、若者を見ると、昔の自分や、自分の子どものことを思い出し、またその時々の苦労を思い出して、つい感傷的になるのである。

 いずれにせよ、涙もろくなっているということは、まだまだ社会や現世とのつながりを自分の中で強く求めているということである。これが無頓着になったり、感動がなくなったときは、本当に人生が終わりに近づいているということだろう。
 だから、涙を流せる自分を大切にし、無理して我慢しないようにしよう。

※ 写真(下)は、韓国ドラマ「冬のソナタ」の最終話の場面である。ユジン役を演じるのは「涙の女王」と呼ばれるチェ・ジウ。この涙にやられてしまいました。

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2011年6月14日 (火)

No.31 「悪友」と過ごした35年間 ~タバコとの出会いから禁煙まで~(その5・完)

 昨年3月1日の夜から禁煙して、1年3か月以上が経過した。もう、自分から積極的に喫煙を再開しない限り、禁断症状に耐えかねて吸い始めるということはないだろう。
 そこで、最後に、禁煙に一応成功した今の感想を、少しだけ書いておきたい。

◆個人差の大きい、タバコへの依存度
 タバコに限らず、薬物(覚せい剤などの違法薬物も含めて)には、①身体的依存と、②精神的依存があるといわれる。
110613_2  身体的依存は、薬物の効果が切れてくると、身体的に禁断症状が出ることである。タバコであれば、口の中に唾液が出る、落ち着かない、などである。
 精神的依存は、生活習慣になってしまって、それがないと精神的に安定した生活ができないことである。タバコであれば、起床直後、仕事前、仕事後、食後、コーヒーを飲む時、お酒を飲む時、考え事をする時、原稿を書く時など、生活の節目節目でタバコを吸うことが習慣になってしまっているため、吸えないと落ち着かない、イライラする、原稿を書く気がしない、といったマイナス作用が生じる。
 そして、この2つは別々のことだが、相互に絡み合って、中毒者をがんじがらめにしているのである。

 とはいえ、その程度については、意外に個人差が大きいと思う。喫煙者でも、一日のうちでも何時間でも吸わなくても気にならない人、2、3日とか1週間くらい全く吸わなくても大丈夫な人、数か月単位で喫煙と禁煙を繰り返している人など、様々なタイプの人がいる。
 しかし、少なくとも私の場合は、身体的依存も精神的依存も、本当に強かった。放っておけばチェーンスモーカーで、吸わないで我慢できるのはせいぜい数時間まで。たった一日でも完全な禁煙はできなかったのである。

◆莫大な本数、莫大なタバコ代
 35年間に吸った本数とタバコ代を、試算してみた。
 本数では、1日60本で35年間吸い続けた私は、実に
  60本×365日×35年=766,500本
を吸ったことになるが、これではイメージがわかない。むしろ、箱数で計算し、
  3箱×365日×35年=38,325箱
と計算する方がわかりやすいかもしれない。

 タバコ代では、長年の間にタバコの値段が何度も変わっているが、貨幣価値も変わっているので、仮に3箱で1日1000円とすると、
  1000円×365日×35年=12,775,000円
 なんと、1277万円が、文字どおり「灰になった」のである。

 他方、これからはどうか。
 今54歳。あと20年生きるとすると、引き続き1日60本吸い続ける場合、
  60本×365日×20年=438,000本

 タバコ代では、1箱440円のタバコを1日3箱、20年間吸い続けるとすると、
  440円×3箱×365日×20年=9,636,000円
 つまり、現時点でタバコをやめたことによって、1000万円近くを使わなくて済むことになるのである。
 さて、1000万円で、何を買うことにしようか・・・。

◆喫煙者の110613_4方々へのメッセージ
 私はこれまで、タバコをやめた人から「私がやめられたのだから、君もやめられるはずだ。やめた方がいい」ということを何度も言われた。また、タバコをやめた人の方が、タバコの煙を嫌がることが多いようである。

 しかし、私の場合、自分の精神力のみで乗り越えたのではなく、ハプニングも含めてたまたまやめられただけで、偉そうに言える資格はないと思っている。
 また、隣でタバコを吸われても、拒絶感はあまりなくて、「この煙の感じ、懐かしいなあ」と思うくらいである。
 今でも、一日のうちに何回かは、今、タバコが吸いたいなあ、と思う。そんな時は、ニコレットの一粒の3分の1くらいを少しだけかじって嚙むと落ち着く(これも本当はよくないのであろうが)。

 だから、タバコを吸っておられる方に、「やめたほうがいいですよ」などと押しつけがましく言うつもりはない。
 むしろ、世の中がどんどん喫煙者を締め出したり追い込んだりしていく中で、私はできなかったが、タバコと上手に付き合って、豊かな人生を送って下さい、と言いたい気持ちである。

 そして、私自身は、「悪友」と過ごしてきた35年を、時々は懐かしく振り返りたいと思っている。

 (5回にわたる長文を読んで下さった方、ありがとうございました。)

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2011年6月13日 (月)

No.30 「悪友」と過ごした35年間 ~タバコとの出会いから禁煙まで~(その4)

◆「一過性脳虚血発作」を起こし、不整脈治療の手術を受けることに
 2008年1月31日、半徹夜のような状態で少しだけ仮眠し、ベッドで起き上がったら、右手が動きにくく、ろれつが回らなかった。幸い40分ほどで直ったが、急きょ入院。心臓の中に小さな「血栓」ができ、それが血管の中を流れて脳の細い血管に詰まる「一過性脳虚血発作」(脳梗塞の一種)と診断された。

110612  私には以前から「不整脈」があったが、これがあると心臓内で血栓ができやすいということで、心臓にカテーテルを挿入して、不整脈の原因となっている部分を電気で焼く(アブレーション=焼灼〔しょうしゃく〕)という手術を、大阪市大正区にある泉尾病院で受けることになった(この手術のことは、改めて書きたいと思う)。

 同年4月上旬に「右心房」、9月上旬に「左心房」の手術をして、不整脈は8割方直った。
 しかし、まだ左心房に不整脈がわずかに残っているので、念のためにもう一度手術をしましょうということになり、1年半後の2010年3月1日から、3度目の入院をしたのである。

◆ハプニングで始まってしまった禁煙
 1回目、2回目の入院の際は、タバコをやめるなど、考えもしなかった。病院の1階に喫煙ルームがあり、喫煙者の患者さんたちがそこでタバコを吸っていた(2回目の入院の時は、個室の部屋で内緒で吸っているのがばれて、看護師長さんに大目玉を食らった)。3回目の入院も、当然喫煙ルームを利用するつもりであった。

 3月1日午前10時過ぎに入院したが、その日は病院の外に出て何度かタバコを吸った。
 午後9時半過ぎになり、今日の最後のタバコを吸いに1階の喫煙ルームに行こうと思ったのだが、ちょうどそのころ冬季オリンピック(バンクーバー)の最中で、テレビでその日のダイジェストをやっていたので、しばらくそれを観てから、午後10時ころ1階に降りて行ったのである。

 すると、何と、前回の入院の時にはあったはずの喫煙ルームが、なくなっているではないか。
 仕方がないので、病院の外に出て吸おうと考えて、夜間出口に行くと、守衛さんが「午後10時になったので、施錠しました」と言うのである。「そんな殺生な。タバコが吸いたいので、ちょっとだけ外に出させてもらえませんか」とお願いしたが、「それはできません。明日の朝6時半の開錠まで我慢して下さい」と言うのである。

 なんて融通のきかない守衛さんだと腹の中で毒づいたが、仕方がないので部屋に戻ったが、そこでふと考えたのである。
 「今から8時間半は、絶対にタバコを吸えない。3月3日は手術当日で、3月4日もベッドから出られない。とすると、明日3月2日だけ辛抱すれば、丸3日間はタバコを吸わない、または吸えないことになる。前回の禁煙の経験からも、最初の3日間をクリアできれば禁煙できる。こんな機会は、もう一生ないのではないか。千載一遇の、そして最後のチャンスではないか。」
 そして私は、翌日一日だけ、タバコを我慢したのである(これは、入院中でもあり、何とかやれた)。

110612_2  手術は予定どおり行われた。そして、3月5日に退院する時点で、私は結果的に4日間タバコを吸わずに過ごしたのである。私にとって、この4日間を乗り越えられたことは、本当に大きかった。
 そのうえ、タバコをしばらく控えるつもりだと、家族や事務所の人たちに話したところ、絶賛の嵐となった。そのため、タバコを再開できる雰囲気ではなくなってしまったのである。

 そして、それから現在まで、1年3か月以上が過ぎた。
 あの時、テレビを観ずに、あと5分早く1階に降りていれば、外に出てタバコを吸っていたはずであり、私は今も間違いなくヘビースモーカーを続けていたはずなのである。
 今は、融通のきかないあの守衛さんに感謝したい気持ちである。
      (以下、「その5」に続く)

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2011年6月10日 (金)

No.29 「悪友」と過ごした35年間 ~タバコとの出会いから禁煙まで~(その3)

◆30年以上に及んだニコチン漬け生活
 130日目で禁煙に挫折した私は、その後30年以上にわたってヘビースモーカー生活を続けることになる。
 その間、司法試験の受験勉強、結婚、合格、司法修習、弁護士活動の開始と、長い年月が流れた。銘柄はジャスト、キャスター、フロンティア、ルーシア、ピアニッシモワンなどニコチン・タールの少ないものが多かったが、本数は1日3箱が平均的であった。110609_6
 もっとも、タバコ漬けの生活を100%自分で肯定していたわけではない。いつも、「タバコがやめられたらいいのになあ」「よし、そのうち禁煙するぞ」と、いわば毎日禁煙を決意し続けてきたのである。しかし、決意した次の瞬間、気づくと口にタバコをくわえているのだ。
 また、「130日も続いた禁煙に失敗した」という挫折感は大きかった。最初の初々しい決意があって初めて、禁煙という壁を乗り越えられる面があるように思われる。その点では、結婚と同じ(?)かもしれない。

◆ことごとく失敗した「禁煙グッズ」
 世間には、様々な「禁煙グッズ」がある。私もご多分にもれず、いろんな禁煙グッズにチャレンジしてみた。
 禁煙ガムの「ニコレット」。禁断症状を和らげるが、計画的に本数を減らす決意をしない限り、ニコレットをかみながらタバコを吸うことになって、よけい体に悪い。また、私の場合、ニコレットをかむと、なぜかいつも喉が痒くなった。
 ニコチンパッチ。これも禁断症状を和らげるが、これも私の場合、貼ったところがかぶれて赤くなり、また痒くなった。毎日違う場所に貼るようにしたが、「体中が日の丸状態」であった。
 タバコを差し込んで、フィルターを通して吸うパイプで、そのフィルターが、最初は目が荒いものから、だんだん目の細かいものにしていくというものも購入した。しかし、パイプの穴が標準的な太さのタバコ(セブンスターなど)しか合わず、当時私が吸っていたピアニッシモワンは差し込んでもスカスカで用をなさなかった。
 水蒸気を吸うタバコまがいのものもあるが、よけいにストレスが溜まりそうだし、水蒸気まで吸っている自分が馬鹿に思えてくるような気がして、買うのをやめた。

◆愛煙家を追い詰めつつある世間の風潮の変化
 しかし、ここ10年くらいで、喫煙や喫煙者に対する世間の風当たりは、それまでと全く変わってきたのではないか。
①まず、とにかく徹底的に嫌われる。以前は、自分はタバコを吸わなくても、喫煙者に対してはあまり厳しく言わない人も多かったが(言いたくても言えなかったのかもしれないが)、最近は、明示的かつ徹底的に嫌われ、また軽蔑の目で見られる。特に飲み会のような場で親しい人から言われるのは、言う方も辛いだろうが、言われる方は本当に肩身が狭い。
②喫煙仲間が激減した。弁護士の中では、かつては喫煙者は半分以上いたが、最近では10人に1人もいない感じがする。
③吸える場所も激減した。かつては、タバコは原則としてどこで吸ってもよかったが、現在では原則と例外が完全に逆転した。
 裁判所の例でいえば、かつては廊下には灰皿が並んでいたが、その後空気清浄機を置いた「喫煙コーナー」以外は許されなくなり、さらには喫煙コーナーが屋外に移され、最後は、完全隔離の「喫煙ルーム」を除いて敷地内全面禁煙となった。
110609_5  同じように、飛行機はもちろん、電車でも新幹線(現在は喫煙ルームのみ)、特急電車(関西のJRの特急は喫煙ルームさえなく、全面禁煙となっている)、駅(JRでは閑散とした駅も含めて、24時間全面禁煙となっている)がすべて禁煙となった。御堂筋・淀屋橋一帯をはじめ、一般の路上も喫煙禁止エリアが設けられ、拡大されつつある。
 レストランや喫茶店は、喫煙者にとってはもっともタバコが吸いたい場所であるが、禁煙の店が増えてきた。
④そして極めつけは、ものすごい値上げである。少し前まで1箱200円前後だったのが、今は400円以上になった。しかも、世間の風潮は、もっともっと値上げしろ、という雰囲気である。
 このように、世はまさに「愛煙家受難の時代」なのである。
 そんな中、私は年齢も50歳を超えたこともあり、このままいつまで喫煙を続けるのかなあ、という気持ちが強くなってきていた。
 そこに、あることがきっかけとなって、ついに悪友と別れることになってしまったのである。
    (以下、「その4」につづく)

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2011年6月 6日 (月)

No.28 「悪友」と過ごした35年間 ~タバコとの出会いから禁煙まで~(その2)

◆ついに禁煙に成功!?
110606_4  本格的に司法試験の勉強を始める直前の大学4年の秋、なぜか禁煙する一大決心をして、1979年9月1日から突入した。「おしゃぶり昆布」や「都こんぶ」、ガムを一日中噛み続け、「禁煙パイポ」をくわえて耐えた。禁煙は、最初の3、4日が一番辛い。体内のニコチンが体外に排出されるまでの5日間くらいの間、身体レベルでの禁断症状(「ニコチンをくれ~」)に苦しむのである。
(余談だが、この「禁煙パイポ」のCM、「私はこれ(禁煙パイポ)でタバコをやめました」「私はこれ(小指を立てて)で会社をやめました」は、今でも笑えるヒット作である。)

 しかし、1週間くらい経って鏡を見ると、白目の部分が、それまでの濁ったグレーから、鮮やかな真っ白になっていた。それに、食べるものが本当においしい。うま味が口一杯にしみわたるような感じで、目茶苦茶においしい。当然食べる量も増え、体重は5キロも増えた。

 最初の「魔の5日間」を乗り切っても、身体的な禁断症状は完全になくなるわけではないが、最初は数日に一度、その後1週間、2週間、1か月に一度と、だんだん間隔が開いていき、禁断症状が気にならない日も少しずつ増えてくる。

◆130日目の破綻と、「元の木阿弥」
 2か月、3か月、4か月が過ぎ、もう禁煙は成功したかに見えたころ、悪魔の手はやってきた。1980年のお正月明け、私は失恋し、そのうえ風邪を引いて寝込んでしまったのである。3、4日くらい寝込んだだろうか。

 ようやく高熱は下がったが、心も体も弱っている私の部屋に、親友のT君(大学の同クラスで、今は京都で弁護士をしている)が見舞いに来てくれたのである。
 「おい、岩城よ、大丈夫か。いろいろ大変だったなあ。」親友の言葉が胸にしみ込む。‥‥「まあ、1本やれや。」 ふと見ると、目の前にT君の「セブンスター」が差し出されているではないか。一瞬たじろぐ。が、「1本くらいなら、戻ることはないだろう」──私は手に取り、火を点け、深々と煙を吸い込んだ。「うまい・・・」。「五臓六腑にしみわたる」というのは、こういうのを言うのだろう。

110606_3  禁煙開始後、130日目の破綻であった。
 その後、再びタバコは2本、5本、10本と増えていき、みるみるうちに元の3箱にまで戻ってしまったのである。ちなみにT君は今でも親友であり、今でもヘビースモーカーなので、全く恨んでいない(笑)。失恋の悲しみと一緒になったこの日のことは、今でも鮮明に覚えているのである。
       (以下、「その3」に続く)

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2011年6月 5日 (日)

No.27 「悪友」と過ごした35年間 ~タバコとの出会いから禁煙まで~(その1)

◆「悪友」との出会い
110604  タバコとの出会いは、確か高校3年生の冬(1975年1月ころ)だった。
 大学入試が目前に迫り、焦りながら自宅2階の自分の部屋で勉強していた私は、ふと思いついて1階の父親の机のところまで行き、父親が愛煙していた「チェリー」を1本くすねて自分の部屋に戻った。ちょっとした冒険心、もう大人に近いんだからいいだろうというような誇らしさ、未成年なのに隠れて吸う後ろめたさ。これらがないまぜになりながら、電気ストーブの電熱線で火を点け、深々と吸い込んだ。ニコチンが血液に乗って体中に広がっていく。ちょっとクラクラする。
 これが、その後35年間も続くことになる「悪友」=タバコとの出会いの瞬間であった。

◆浪人時代──気持ちがすさんで増えるタバコ
 大学受験は失敗し、悲しい浪人生活に突入。駿台予備校の京都校に入学し、同予備校の上賀茂寮で1年間を過ごしたが、4人部屋の仲間は全員喫煙。浪人時代特有の、ちょっとすさんだ心情もあり、タバコの本数は一気に増えた。銘柄はいろいろ試したが、後半は「ハイライト」に落ちついていった。
110604_2  浪人時代の冬に、タバコが値上げされ、ハイライトが80円から120円に値上げになるということで、パチンコで勝って大量のハイライトに交換したことを覚えている。

◆大学時代──時代のトレンドだったタバコ
 ようやく第1志望の大学に入学することができた私に、叔母(母の姉)がくれた入学祝いは、電子ライターだった。ピカピカの金色のスリムなボディに、薄べったい丸いボタンが付いていて、それを下にずらすと、「カチッ」という音がして「ポッ」と火が点いた。とてもカッコよかったが、早くも入学して2週間くらいで紛失した。

 私は4回生までの4年間、「第二進修学舎」という小さな寮(これは「南葵育英会」という団体が運営し、和歌山県出身の大学生であれば入寮資格があるというめずらしい寮だった。)で生活したが、ここでも、寮生16人中、タバコを吸わない人は2、3人だったと思う。

 当時の学生の喫煙率は、8~9割くらいあったのではないか。70年代後半は、全国的には学生運動はもう衰退していたが、京都、とりわけ京大ではまだまだその雰囲気が残っており、政治や人生について議論する学生たちの手には常にタバコがあった。タバコは当時の若者にとって、大人になった証であるとともに、社会に対する反骨を示すツールでもあったのである。

 そんな中で、私もタバコの本数は一気に増えた。1日2~3箱、多い時は1日4箱くらい吸っていた。マージャンをするときも、パチンコをするときも、いつもタバコが一緒であった。一度、吸い過ぎて体調がおかしくなり寝込んだこともあった。110604_5

 銘柄は、2回生くらいまでは「ハイライト」だったが、当時あたりからニコチン・タールが少ないものに人気が出始めたこともあり、3回生から4回生にかけて、「セブンスター」→「マイルドセブン」→「マイルドセブンライト」→「マイルドセブンスーパーライト」と、少しずつ軽いものに移って行った。しかし、量は相変わらず3箱くらいは吸っていた。
    (以下、「その2」に続く)

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