No.107 ユニークな学生寮で、自由な学生生活を謳歌──「第二進修学舎」での4年間
京都駿台予備校に「上賀茂寮」から通うという、苦しかった浪人生活を抜け出し、晴れて京大法学部に合格した私は、どこに住もうかと考える中で、偶然に「第二進修学舎」のことを知った。
「第二進修学舎」は、左京区一乗寺里ノ西町にあった、定員わずか16人の小さな学生寮である。私は4年間(1976~1979年)を、この寮で過ごした。
ここは、実にユニークであった。
① 和歌山県出身であれば、どの大学に通っていても入寮の資格があった。
② 住み込みの寮母さん(当時は、山口らいさんというおばさんがいた)が、食事の世話などをしてくれていた。
③ 運営は寮生自身による完全な自治で行っていた。「寮委員会」が執行機関、寮生全員による月1回の「舎生会議」が最高議決機関であった。
私の年は、2人の募集に対して、26人もの応募があり、課題作文と、寮生自身による面接が行われた。緊張して合格する気がしなかったが、なぜか奇跡的に合格した。
入ってから知ったが、ここはすごい歴史のある寮であった。文明開化が叫ばれた明治の終わりの明治44年、旧紀州藩主の徳川頼倫公が「南葵育英会」を設立し、みずから数十万円(当時の時価にして約7億円という)を拠出して賛助者を募り、学資不足で進学を断念しようとした旧紀州藩出身の子弟の育英に尽くそうと、自分の江戸屋敷の一角に進修学舎(第一進修学舎)、京都に第二進修学舎、北海道に第三進修学舎を作ったとのことである(平成元年2月和歌山県議会で質疑がなされている)。
つまり、紀州藩の末裔が、紀州出身の学生を支援して立身出世できるよう図ったのである。その後、東京の「第一」、札幌の「第三」はなくなり、京都のこの「第二」だけが残っていたという。
そんな難しい話とは関係なく、進修学舎での生活は本当に楽しかった。
京大のほか、同志社、立命、京都工繊大、京都府立大、京産大、龍谷大など所属大学も学部も多彩で、同郷という親近感と、16人という少人数で、寮生は本当に仲がよかった。寮内では、和歌山弁が「共通語」であった。
毎年春には女子大との「合ハイ」(合同ハイキング)があり、秋には「寮祭」があった。
寮祭には、たった16人の寮に200人くらいの女子学生が来てくれ、木造建物の床が抜けなかったのが不思議なくらいであった。あちこちの部屋で、いろんな出し物や出店が行われた。女子学生をたくさん迎えて、嬉し恥ずかしの高揚した一日であった。
また、日常的にも、それぞれ自分の勉強もする一方で、毎晩必ずあちこちの部屋で、酒を酌み交わしながら議論したり、麻雀をしたりしていた。本当に、楽しい日々であった。
ただ、この寮は4年間を超えて在籍することは認められず、これから本格的に司法試験の勉強を始めようという私は。4回生の終わりにここを出ざるを得なかった。
その後、毎年、卒寮生と在寮生が一緒になった同窓会総会が行われていたが、超低金利時代が続き、財団法人による財政的な維持が困難になったとのことで、80余年の歴史を閉じ、2004年(平成16年)3月27日、同窓会の解散総会が行われた(私が参加したのはこの解散総会が最初で最後だった)。
子どもから大人へ、親の庇護のもとから一人立ちした社会人へ──そのちょうど真ん中の学生時代。楽しさ、不安、友情、連帯、仲間。そんな「青い」学生時代を、この寮で過ごせたことは、本当に幸せだった。
ワンルームマンションに住み高い家賃を払い、帰ったら一人ぼっち、また、入学してもアルバイトとすぐさま就職活動に突入する、今の学生たちのことを思うと、本当に恵まれていたと思う。
そんなすばらしいものを、若い世代に残してあげられなかったことに、一抹の責任も感じてしまう(もっとも私がどうかできるようなものではなかったが)。
寮でのイベントがあれば必ず歌った「進修学舎小唄」。この歌を口ずさめば、いつもこころはあの頃にワープする。みんな今、どうしているだろうか。
※写真の説明(上から順)
① 入寮した年の同窓会(私は後列右から4番目)
② 入寮してすぐにあった保津川での「合ハイ」(私は左から2番目)
③ 2回生の時の寮祭(私はちょうど真ん中)
④ 4回生の時の寮祭(コーヒー豆を挽いている模様。今の長男に実に似ている)
⑤ 4回生の終わりの「追い出し旅行」(私は前列右から2番目)
⑥ 進修学舎小唄
①と⑥は、第二進修学舎のブログから借用させていただきました。
↓ ↓ ↓
♪ここまで読んで下さった方は・・・ワンクリックしていただけたら嬉しいです。
にほんブログ村
最近のコメント