No.124 ボウリングにはまっていた日々
ボウリングが最初にブームになったのは、私が中学生だった1970年(昭和45年)頃のようである。高度経済成長の中で、私のいた和歌山の田舎まで、ボウリング場が広がってきた。
当時、女子プロ第1号の中山律子さんという人が、「さーわーやーかー律子さん♪」のメロディの花王のシャンプーのCMに出て、大ヒットしたのを覚えている人も多いのではないか。
私も、隣町(岩出町)にできたボウリング場に、友人たちと何度か出かけた記憶がある。当時はスコアは、自分で鉛筆で記入していた。
当時は今のようにゲームセンターもカラオケもなく、田舎の中・高生が友だちと行けるのは、ボウリングとバッティングセンターとスケートリンク(冬のみ)くらいだった。
学生時代や司法試験受験時代も時々は行ったが、弁護士になると、事務所内のレクリエーションや会派の懇親などで、結構ボウリングをやることが多くなった。
しかし、私の中で一番ボウリングにはまったのは、2人の子どもたちが小学校高学年から中学生くらいのころであった。特に、負けず嫌いの長男とは、よく2人で「勝負」に出かけた。お互いに意地になって、1日に15~20ゲームくらいやることも多かった。親指に豆ができてつぶれ、血まみれになりながら(笑)やったこともあった。
そんな中で長男は235という驚異的なスコアを出し、私は210台が限度で、これを超えられなかった。
下記は、あべの総合法律事務所のニュース「いずみ」11号(2000年9月発行)の「所員随想」に掲載された、私の一文である。
また、写真は、当時「ラウンドワン大仙店」で撮ってくれた写真である。当時ラウンドワンでは「ムーンライト・ストライク・ゲーム」というイベントがあった。突然館内の照明が消えて暗くなり、その時2投目の人が投げ終えた後、全レーンで一斉に投げ、ストライクが出ると記念品と写真撮影のプレゼントがあるのである。このボウリングのピンの「かぶりもの」の写真は、大変ウケた。
今となっては、懐かしい思い出である。
ただいま、ボウリングにはまってます。弁護士 岩城 穣
今年の6月ころから、日曜日は2人の息子たち(中3と小6)を連れて、近くのボウリング場によく行くようになった。
ボウリングはもともと嫌いではなかったが、結構な運動量になるし(あの重い球を1ゲームで約20球投げることになり、5ゲームで約100球になる)、かなりのストレス解消になる。特にスポットに入って一瞬で全部のピンが吹っ飛んだり、難しいスプリットを狙ってスペアが取れたりすると、何ともいえない爽快感がある。
上手な人のようにフックボール(ピンの直前で曲がるボール)が投げられないので、あまり点数は伸びないが、それでもアベレージで150台になり、まれにスコアが200を超えることもある。8月初めにあった弁護士会の所属会派のボウリング大会には長男と2人で参加し、私は珍しく3位に滑り込んだ。
最初のころは5ゲームもすると親指に豆ができてつぶれるし、翌日は体じゅうが痛かったりしたが、最近はずいぶん体も慣れてきた。
子どもたちは私に追いつこうと一生懸命で、長男には時々負けるようになってきた。先日は長男は235という驚異的な(?)スコアを出した。次男も最近は時々ストライクが出るようになってきた。
弁護士には休日はゴルフをする人が多い。ゴルフをやらない私はちょっと寂しい気もするが、体を動かし、ストレスを解消し、平日はできない家族サービスができ、自分も結構楽しい、そんなボウリングに、今のところもう少し「はまって」いようと思う。
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