No.135 宮崎駿監督が「風立ちぬ」に込めたもの
8月16日、ご多分に漏れず、この夏最大の人気アニメ映画、「風立ちぬ」を観てきた。
日本海軍の象徴ともいえる戦闘機「零戦」を設計した堀越二郎の半生を描いた作品である。
まず何よりも、映像が余りに美しく、優しく、細やかである。山々や草木、大空や雲などはもちろん、真鍮やジュラルミンなどのキズや錆び、木造の建物の汚れや生活感、「風」や「水」の柔らかさやふくよかさなどに驚かされる。ある意味で現実のものより現実らしく、自然よりも自然で、それでいて、手描きの水彩画のような優しさがある。アニメでこれほどの描写をしたものがあっただろうか。
また、映像の動きもすごい。特に関東大震災の場面や、紙飛行機や試作機の飛行感、傘が風に飛ばされたり、奈穂子がベランダから落ちそうになるときの浮揚感などである。
しかし、宮崎駿監督がこの作品に込めたかったものは何か、ということになると、かなり「謎解き」の世界である。インターネットで論評や解説を見ると、論点も賛否も実に様々で興味深く、考えさせられる。
よく言われているのは、次のような疑問である。
①自分の夢を追って実現した零戦が破壊・殺戮に使われ、残骸と焦土だけが残ったのに、残虐な場面は描かず、批判や反省の表現も見られないのは、戦争や兵器を肯定的にとらえているのではないか。
②物語の中で主人公は何度も夢と現実を行き来し、現実感がないのではないか。
③公共の場所での喫煙シーンが頻繁に出てくるうえ、肺結核で病床にある妻の菜穂子の前でも吸っているのは問題ではないか(日本禁煙学会が配慮を求める要望書を出したそうである。)。
しかし私は、宮崎監督がこれらのことを理解していないはずはなく、批判も含めてすべて予想したうえで、それも含めてメッセージを込めて制作していると思う。
このうち②・③については私には荷が重いが(これもいろいろな理解が可能なようである)、①については、私は監督はこの作品をもって、現代社会への問題提起をしているのではないかと思いたい。
まず、(a)自分は夢を追い、「いい飛行機を作りたい」だけで頑張っていても、それは多くの人々から収奪と、家族たちの犠牲の上に立つものであり、またその結果が日本を「破裂」させるかもしれないことを自覚しなければならない。
しかし、(b)そうはいっても、その時代時代には、逃れられない大きな流れ(運命)というものがあり、それに従って生きることは否定されるべきではない。生きること自体が大変であり、尊いものである。
(a)と(b)は矛盾を孕んでおり、「(a)だが(b)である」、「(b)だが(a)である」の両方の悩み、葛藤を常に生み続けている。
この矛盾は、現代社会でもそのままあるのではないか。例えば、「いい商品を安く作りたい」「会社の業績を上げたい」と願い、自己犠牲的に働いている多くのサラリーマンは、結果として取引先に犠牲を強い、家族と過ごす時間も持てず、自らを「破裂」に追い込んでいるうえ、大量生産・大量廃棄で地球環境を破壊するのに加担しているのではないか。それは矛盾であるし、現代社会もそのような「運命」から逃れられていないのではないか。しかし、だからこそ、そのことを皆が認識し、議論をすべきではないか。
もう一つは、そのような大きな流れの中で先の戦争が起き悲惨な結果に終わったが、今またそのような戦争への大きな動きが出始めていないか。そんな動きに疑問を持つべきではないか。二郎の時代は、それだけで特高警察に目を付けられたが、大きな動きは「運命」だけはないのではないか。
そして、宮崎監督は、このような問題提起を皆で議論してほしいが、過去の戦争の悲惨さをありきたりな映像にしてしまうと、「今」と切り離された「過去」の問題として扱われてしまうと考えたのではないだろうか。
いずれにせよ、このような議論自体を、宮崎監督は望んでいると思う。日本人が終戦とその意味を考えるこの時期にこの作品を公開したのも、スタジオジブリの発行する冊子で宮崎監督が憲法改正反対を表明したのも、映画の入館者に感想を知らせてほしいとのお願い文を配布しているのも、そこに宮崎監督の思いが込められていると思うのである。
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