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2015年8月の6件の記事

2015年8月30日 (日)

No.253 今の時代ゆえに、いっそうの感動──ミュージカル「レ・ミゼラブル」

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 8月28日夕方、梅田芸術劇場メインホールで公演中の東宝ミュージカル「レ・ミゼラブル」を妻と一緒に観てきた。
 ヴィクトル・ユーゴーの小説を原作としたこのミュージカルは、1985年以降世界各地で公演され、日本でも1987年以降断続的に公演が行われている。
 今回の大阪公演は、8月8日~29日。私は千秋楽の1日前に行ったことになる。直前に申し込んだためS席しか残っていなかったが、奮発することにした。

 実は、このミュージカルは以前にも観たことがあった。2000年前後だったと思うが、この時はファンティーヌ(娘のコゼットをジャン・バルジャンに預けて死んでしまう母親)の役を、岩崎宏美さんが演じていたのを覚えている。
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 今回、改めて観てみたいと思ったのは、2012年の冬に上演された同名の映画(ジャン・バルジャン役をヒューマン・ジャックマン、ファンティーヌ役をアン・ハサウェイが好演)を観て、とても良かったことから、映画とミュージカルを観比べてみたいという気持ちがあった。

 それと、この数か月間、安保法案(戦争法案)をめぐる国会での採決強行の動きの中で、SEALD's(シールズ)などが中心となって、デモや集会などの街頭活動が空前の盛り上がりを見せている。これら若者の姿とこのミュージカルのクライマックスの場面が、私の中では重なり合うイメージがあったからである。
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 最終日の前日ということもあってか、会場はほぼ満席だった。
 内容は、期待どおり最高だった。人や舞台装置の生の動きの迫力はすごい。また、歌がうまいし、声量がハンパじゃない。
 また、ジャン・バルジャンがマリウスを背負って下水道の中を逃走する場面では背後に写る映像を上手く使っていたり、ジャベールが橋から川に身を投げる場面では橋の欄干をつり上げていくことによって落下を表現するなど、手法にすごく工夫をしていると感じた。

 映画での、最初の船の甲板での強制労働の場面や、ジャベールの投身の場面などのCGも使った壮大な映像もすごかったが、それらを観ているだけに、舞台のすごさがよくわかった。
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 そして、やっぱりバリケードに若者たちが立て籠もり、銃撃戦で倒れていく場面は壮絶だった。
 会場で購入したパンフレットに、若者たちが歌う挿入歌「民衆の歌」の歌詞が掲載されている。
 


 戦う者の歌が聴こえるか?
 鼓動があのドラムと響き合えば
 新たに熱い生命が始まる
 明日が来た時 そうさ明日が!

 列に入れよ 我らの味方に
 砦の向こうに世界がある
 戦え それが自由への道
 (以下、略)


 この市街戦のモデルとなったのは、1930年の「七月革命」で誕生した王政を打倒しようとする1932年のパリでの「6月暴動(別名パリ蜂起)」とのことである。群衆は「自由を、さもなければ死を」と叫び、バリケードを築いて抗争したが、死者93名、負傷者291名を出して鎮圧されたという(ウィキペディアより)。

 多感な若者たちが武装蜂起して銃弾に倒れていくこの場面は、やはり涙を抑えられなかった。わずか200年近く前、20歳前後の若者たちが自由を叫びながら、政府軍に包囲され、銃弾に倒れていったのである。

 今は、日本国憲法のおかげで、デモをしても銃撃されることはない。しかし、逆に、そのような自由を制限し、戦争に若者たちを送り出す動きが強まっている。そのような反動的な動きに対する若者たちの叫びが世の人々を励まし、世の中を動かすというのは、いつの時代も同じだと思う。

 折しも明日8月30日、国会前10万人、全国で100万人規模で、安保法案反対の集会・デモが計画されている。私は若者どころか、「ミドルズ」の最年長付近に位置するロートルだが、明日は、自らの意志で扇町公園での集会に参加したいと思う。

 ※画像は上から
 ①メイン会場1階に張り出されていた横断幕
 ②2012年の映画のポスター
 ③この日の公演時間とキャストの紹介
 ④バリケードの場面(インターネットより)


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2015年8月17日 (月)

No.252 忘れられない「アイドル」たち──③太田裕美

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 私の「忘れられないアイドル」の3人目は、太田裕美さんである。
 彼女は1955年1月生まれとのことなので、私よりも学年で2歳上(南沙織と同学年)ということになる。

 デビュー曲は「雨だれ」(1974年11月)だが、大ヒットしたのは、ご存じの「木綿のハンカチーフ」(1975年12月)である。
 このころ、私は大学受験浪人中で、京都で1年間浪人生活を送っていた。それまでのエスカレーターから外れ、置いてきぼりになったような寂しさと孤独感、後がないという不安と焦りに苛まれながら、ひたすら勉強した(せざるを得なかった)1年間であった。その浪人時代の最終盤、大学入試を目前にした冬に、あの、ちょっと舌足らずの爽やかな声で歌うこの歌が、飛び込んできたのである。
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 高校時代までを和歌山で過ごし、切ない浪人時代を京都で過ごして、受験の結果次第でさらに旅立っていくというこの時期(私は京大に合格する前に中央大学法学部にも合格していたので、もし京大に合格していなければ中央大学に行く予定だった。)、太田裕美のこの歌は心に染み、すぐにファンになった。
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 あこがれの京大法学部に入学し、世界が輝いて見えたころ、何とゴールデンウィークに太田裕美が京大の時計台ホールに来てコンサートをするという。大学ってすごい、こんな人も来るんだと感動し、飛びつくようにチケットを買った。ところが、私の母方の祖母が病気でもうあまり長くないという知らせが入り、涙をのんで秋田にいた祖母に会いに行ったため、このコンサートには行けなかった。病床にいたおばあちゃんはとても喜んでくれ、その年の8月に亡くなったので、行っておいてよかったのだが、コンサートに行けなかった痛恨の思いもまた、忘れられない。
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 その後、大学時代から司法試験受験時代にかけて、何枚もLPを買ったり借りたり(昔はレンタルレコード店がたくさんあった)、CDを買ったり借りたりして現在に至っている。
 2002年ころにはたしか大阪のIMPホールでのコンサートに行き、2012年9月には大阪城ホールでのコンサート「君と歩いた青春」(他に伊勢正三、南こうせつやイルカさんなど)にも行った。

 太田裕美さんは今でも現役で活躍していて、あのちょっと舌足らずの甘ったるい声は健在である。2004年から伊勢正三(元かぐや姫)、大野真澄(元ガロ)との3人でユニット「なごみーず」を組んでコンサートを開催しているという。ぜひ、これからも歌い続けてほしい。

 最後に、私の好きな太田裕美さんの曲のベスト10(ほぼ時系列順)を挙げると、以下のとおりである。
 ①木綿のハンカチーフ
 ②赤いハイヒール
 ③九月の雨
 ④あなたに夢中(「まごころ」所収)
 ⑥オレンジの口紅(「手作りの画集」所収)
 ⑦茶いろの鞄(「手作りの画集」所収)
 ⑤恋の予感(「12ページの詩集」所収。なお、同名の安全地帯の曲があるが別である。)
 ⑨あさき夢みし(「12ページの詩集」所収)
 ⑧さらばシベリア鉄道(「十二月の旅人」所収)
 ⑩メロディ・スモーキン(「十二月の旅人」所収)


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2015年8月16日 (日)

No.251 和歌山の介護老人施設職員過労死事件で勝訴判決!

1 勝訴判決

 和歌山県の広川町の介護老人福祉施設で勤務していた男性職員(当時49歳)のK・Sさんがクモ膜下出血を発症して死亡した事件の民事訴訟で、2015年8月10日、次の新聞記事のとおり、和歌山地裁で勝訴判決を得ることができた(弁護団は林裕悟、舟木一弘弁護士と私)。

◆職員死亡「過労が原因」施設側に7千万賠償命令

読売新聞 8月11日付
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 和歌山県広川町の介護老人福祉施設の男性職員(当時49歳)がくも膜下出血で死亡したのは過労が原因として、遺族が、施設を運営する社会福祉法人などに約8300万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が10日、和歌山地裁であった。

 山下隼人裁判官は、男性が死亡直前の4か月間に月約90~150時間の長時間労働をしていたと指摘し、施設側に約7000万円の支払いを命じた。

 判決によると、男性は2003年から、「和歌山ひまわり会」が運営する施設「広川苑」に経理担当者として勤務。同僚職員の退職に伴って09年9月頃から業務量が増加し、10年10月に死亡した。遺族は12年3月に提訴していた。

 判決で山下裁判官は、厚生労働省の基準に照らして「著しい疲労の蓄積をもたらす過重な業務に就いていた」と言及し、「施設側は、男性の業務内容や業務量を適切に調整する措置を採らなかった」と述べた。

 また、男性が働き続けていた場合、時間外労働が継続した可能性が高いとして、月45時間分の時間外手当(月額約9万5000円)も逸失利益として賠償額を算定した。遺族側代理人の弁護士によると、こうした判断は異例という。

◆4カ月の平均時間外労働116時間 介護施設勤務の男性「過労死」認定、7千万円賠償命令 和歌山地裁
産経新聞8月11日付
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 和歌山県広川町の介護老人福祉施設で勤務していた男性=当時(49)=がくも膜下出血で死亡したのは過労が原因として、遺族が施設を運営する社会福祉法人「和歌山ひまわり会」などに約8390万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が10日、和歌山地裁であった。

 山下隼人裁判官は「くも膜下出血と業務との間には因果関係がある」と過労死を認定した上で、男性の心身の健康への注意義務を怠ったとして約6980万円の支払いを命じた。

 判決によると、男性は平成15年から施設の事務管理室長として勤務。同僚2人が退職してからは業務が増加し、22年10月にくも膜下出血で死亡した。発症前4カ月の月平均の時間外労働は約116時間で、御坊労働基準監督署は23年6月、男性の死亡が業務に起因すると判断し遺族補償年金の支給を決定していた。

 判決を受け男性の妻(53)は「全面的に認められて感謝しているが、夫は2度と帰ってこない」と涙をぬぐった。同施設は「判決文を精査し対応を決める」とコメントした。

 過労死問題をめぐっては、過労死防止基本法の制定を国に求める意見書を遺族らが提出し、25年12月に同県有田川町議会で採択された。その後、26年11月に「過労死等防止対策推進法」が施行され、今年7月には同法に基づく対策大綱が閣議決定された。

 遺族は「過労死ゼロを目指して、雇用者に過労死について関心を持ってもらいたい」と力を込めた。

2 本判決の画期的な点
 この判決は、法的な点では、以下の2点で画期的と考えている。
(1)過失相殺を認めなかったこと
 過労死事件でも過労自殺事件でも、民事訴訟になると、何かと理由をつけて過失相殺や素因減額がなされることが多い。本件でも被告側は、①被災者は健康診断で脂質異常を指摘されていたこと、②相当程度の飲酒と喫煙を続けていたことなどを挙げて、相当程度の過失相殺を主張したが、裁判所はこれを排斥し、過失相殺を認めなかった。
(2)逸失利益の計算に当たって月45時間分の時間外手当を基礎収入に含めたこと
 判決の該当部分を引用する。
 「別紙労働時間一覧表〔裁判所認定〕のとおり、Sは、くも膜下出血を発症して死亡する前、1月当たり90時間を超える時間外労働をしていたものであるところ、被告ひまわり会から時間外手当の至急を受けていなかったものの、上記のとおり労働基準法41条2号所定の管理監督者に該当しない以上、時間外手当を請求することができたものであり、また、Sの死亡前の稼働状況に照らすと、Sが将来的にも時間外労働を継続した蓋然性が高いというべきであるから、Sの逸失利益を算定する際の基礎収入については、時間外手当分も考慮するのが相当である。
 もっとも、Sが就労可能年数にわたって1か月当たり90時間以上の時間外労働を続けることができたとは考えがたいところ、脳・心臓疾患認定基準において、脳・心臓疾患の業務起因性に関して、1か月あたりおおむね45時間を超える時間外労働が認められない場合には業務と発症との関連性が弱いとされていることを考慮すると、Sが継続することができた時間外労働は1か月当たり45時間程度であったと考えるのが合理的であるから、1か月当たり45時間分の限度で時間外手当を基礎収入に含めるのが相当である。」

 被災者が過労死直前まで長時間のサービス残業を余儀なくされていたケースは多いが、本来支払われるべきであった残業手当相当額を逸失利益計算の基礎収入に加えるべきか、加える場合どの程度の時間数分を加えるべきかについて、これまで取り上げた裁判例は見当たらなかった。本件で弁護団がこの点を強く主張したところ、裁判所が認めてくれたものである。

3 過労死をなくす取り組みでも頑張ってきたKさん
 Sさんが亡くなった2010年10月13日は、くしくも、過労死を防止する法律の制定を求めて、全国過労死を考える家族の会が初めて衆議院議員会館で「院内集会」を開催した日であった。

 Sさんの妻のKさんは、2010年11月に御坊労基署に労災申請後、「大阪過労死家族の会」に入会し、過労死問題は社会問題であることを知った。2011年11月から本格的に始まった「過労死防止基本法」制定の取り組みでも頑張り、2013年12月には、Kさんの働きかけを受けて、有田川町議会(12月10日)、和歌山県議会・和歌山市議会(いずれも12月19日)で「過労死防止基本法の制定を求める意見書」が全会一致で採択されたのである(「No.159 「過労死防止基本法の制定を求める意見書」を和歌山県と和歌山市が同時採択!」参照)。
 そして、その後Kさんは、過労死防止全国センターと大阪センターの幹事に就任され、さらに今年4月には大阪過労死家族の会の代表に就任されたのである。
 そんな頑張り屋のKさんがこのような勝訴判決を勝ち取ったということで、私にとって嬉しさも格別なのである。

4 控訴され、舞台は大阪高裁へ
 もっとも、この判決に対して被告らは控訴し、舞台は大阪高裁に移ることになった。
 気を引き締めて、さらに頑張っていきたい。


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2015年8月14日 (金)

No.250 忘れられない「アイドル」たち──②南沙織

 私がファンになった2人目の「アイドル」は、南沙織さんである。
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 デビュー曲「17歳」の発売は1971年6月なので、天地真理とほぼ同時期だが、天地真理は1951年11月生まれで私よりも5歳年上なのに対して、南沙織は1954年7月生まれで、私よりも2つだけ年上である。今となってはあまり変わらないが(笑)、当時のこの差は大きい。南沙織は2歳上の直近のお姉さんという感じだった。

 最初の2年間(1971年~72年)は「17歳」「潮風のメロディ」「ともだち」「哀愁のページ」「早春の港」などがヒットした。私は中3から高1で、「南の島の明るくて素直な女の子」のイメージに惹かれた(もっとも、南沙織は沖縄出身であったにもかかわらず、デビュー時は本土復帰前だったこともあり、当初は奄美大島の出身とされていた)。
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 次の2年間(1973年~74年)は、「色づく街」「ひとかけらの純情」「バラのかげり」「夏の感情」「女性」など、「しっとりと静かに大人になっていく女性」の歌が多かったように思う。私は高2・高3で、自分も同じように思春期後半の変化を感じながら過ごしていたので、1曲1曲に思い入れがある。

 天地真理の歌は浪人時代(1975年)以降大学に入ってからはほとんど聴かなくなったが、南沙織の歌は「人恋しくて」「気が向けば電話して」「青春に恥じないように」「哀しい妖精」「街角のラブソング」、そして最後のヒット曲「春の予感─I've been mellow─」(1978年1月)など、浪人・大学時代にも聴き続けた。この頃の南沙織は「知的な都会の学生」のイメージだった(実際、彼女は当時、上智大学の学生であった)。
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 1978年10月、南沙織は突然引退し、翌年には写真家の篠山紀信と結婚してしまった。この頃にはアイドルというより歌手の南沙織が好きだったので、引退されるのが本当に寂しかった。

 ところで、私には学年で2つ下の弟がいるが、弟も南沙織のファンで(弟はこれ以外に松田聖子も好きだった(笑))、当時東京にいたので調布市で行われた引退コンサートを聴きに行けたのがうらやましかった。

 私はこのころから本格的に司法試験の勉強を始めたが、弟もその後同じように司法試験を目指し始め、私が1982年に結婚して和歌山市内で生活し始めて以降、弟も和歌山に戻り、一緒に勉強していた時期があった。そのころ、「2人で一緒に合格して、南沙織にあいさつに行こう」と約束し合ったことがあったが、2人の合格が1年ずれたので(私が1985年、弟が1986年)、この約束は叶わなかった(弟はこんなことは忘れているかもしれないが)。
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 南沙織は、なぜか1991年末のNHKの紅白歌合戦に突然出場し、「色づく街」を歌った。これをきっかけに、1992年から97年ころまで歌手活動を再開した時期があったが、このころは「憂いの漂う大人の女性」になっていた。が、決していやらしさはなく、清純なままで、何か昔の彼女に会ったような(笑)まぶしさを感じた。

 というわけで、南沙織さんとは私が思春期から大人になるまで、ずっと一緒に歩いてきた感じがする。
 だから、1994年に限定販売された「Cynthia Memories」(6枚組)も、2000年の「CYNTHIA ANTHOLOGY」(4枚組)も、2006年の「Cynthia Premium」(21枚のLPをジャケットもそのままに21枚のCDにしたもの+紅白出場のDVD)も、全部買った(笑)。
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 今は、あまり公の場に顔を見せないが、2011年1月13日付けの新聞(共同通信配信、画像は南日本新聞)に登場した記事を読むと、元気そうで嬉しく思う。
 私も来年還暦を迎えるが、先に還暦を迎えた南沙織さんに会って、ずっとファンだったこと、司法試験に合格したら兄弟で会いに行こうと弟と話していたこと、沖縄の今をどう思うか、などについて話してみたいと思う今日このごろである。でも、今でも会ったら緊張するだろうな。

 なお、南沙織の公式ページ「Art of Loving」があり、その中に「bbs」という掲示板がある。また、これとは別にコアなファンが「Cynthia Street」というサイトを作っており、その中の「Cynthia Street 伝言板」では、1997年から実に17年以上にわたって、コアなファンの交流が続いている。

 ちなみに、私が特に好きな曲を、ほぼ時系列に並べると、以下のとおりである。
 ①17歳
 ②潮風のメロディ
 ③哀愁のページ
 ④早春の港
 ⑤20才まえ
 ⑥色づく街
 ⑦青春に恥じないように
 ⑧哀しい妖精
 ⑨さよならは貴方から
 ⑩春の予感─I've been mellow─
 ⑪私の出発(たびだち)
 ⑫Ms.(ミズ)

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2015年8月13日 (木)

No.249 日航機墜落事故30年に思う

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 1985年8月12日、東京・羽田発のJAL123便が伊豆半島手前付近で垂直尾翼が吹き飛んで制御不能に陥り、迷走の末、群馬県御巣鷹山の山中に墜落し、乗客・乗員524人中520人が亡くなった。この事故から昨日で丸30年が過ぎた。

 この年は、私がようやく司法試験に合格した年であり、5月の択一試験、7月の論文試験を終え、次は9月下旬に論文試験の合格発表があり、合格していれば10月中旬に口述試験を受けに行く、それまでの狭間の時期だった。
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 事故のあった時間帯は、和歌山県の私の実家(那賀郡打田町、現在の紀の川市)で、家業のアルバイト(学習塾の夏期講習)を終えた直後だった。テレビで「羽田を出た‥‥便が消息を絶ちました」のようなニュースが流れ、茜がかった夕空を見上げた記憶がある。

 事故の生々しい詳細は、山崎豊子の小説「沈まぬ太陽」の第3巻「御巣鷹山篇」に、綿密な取材に基づいて書かれている。
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ボイス・レコーダーもほぼ完全に再現され(123~128ページ)、読んでいると苦しくなる。山腹に激突した時の速度は時速600キロ、新幹線の2倍の速度である。幼い子どもの遺体の背中には、衝撃で吹き飛んだ母親のものと思われる母親の下顎の歯が食い込んでいたという(140ページ)。

 30年の節目の昨日と今日、テレビや新聞では事故に至る状況や、乗務員を含む犠牲者や遺族の声が紹介されている。犠牲者の無念さや遺族の辛さに触れるにつけ、涙を禁じ得ない。

 しかし、改めて考えると、この事故は天災ではなく明らかな「人災」である。その原因を究明し、再発防止に万全を期してこそ、真に犠牲者や遺族たちに報いることになるはずである。しかし、そのような検証が十分になされてきたといえるだろうか。
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 国家公務員の労働組合「国交労連」の機関紙である国交労新聞1034号(2000年1月1日号)に、山崎豊子さんのインタビュー記事が載っている。そこで、山崎さんはこの小説を書くための苦労や、その中で感じた憤りについて述べている。
 隔壁の修理ミスで事故を起こしながら、全く反省も贖罪の念も示さないボーイング社。取材への協力を拒否しながら、小説の出版後に「組合側に立った一方的なでっち上げの小説だ」という怪文書を流した会社。このような体質が改善されていないとしたら、再び事故が起こらない保証はない。

 むしろ、懸念は広がっている。熟練した機長や客室乗務員に対する大規模なリストラ、安全性の確立と労働条件の改善を求める労働組合の敵視、格安航空会社(LCC)の参入をはじめとする「規制緩和」、そのような中でのパイロットや整備士の不足と過重労働、客室乗務員への契約社員の導入などなど‥‥。
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 「沈まぬ太陽」は、2009年に渡辺謙主演で映画化され、映画館まで足を運んで観た。涙が止まらなかった。

 今この時期、改めて、この小説と映画が多くの人々に読まれ、観られてほしいと思う。


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2015年8月12日 (水)

No.248 忘れられない「アイドル」たち──①天地真理

 私は「アイドル」という言葉はあまり好きではない。しかし、小学校高学年から20歳前後までの多感で、異性に限りない魅力を感じるあの時代に、好きでたまらなくなった「アイドル」たちが、私にもいた。
 こんなことは、同世代同士の昔話のネタになる以外は、あまり関心はないと思うが、私自身の思い出として、少しだけ書き留めてみたい。

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 まず筆頭は、天地真理さんである(以後は、親しみを込めて「呼び捨て」にしたい)。
 1971年(昭和46年)10月に「水色の恋」でデビューした「ソニーの白雪姫」こと天地真理は、その後約3年間にわたって、「ちいさな恋」「ひとりじゃないの」「虹をわたって」「ふたりの日曜日」「若葉のささやき」「恋する夏の日」「空いっぱいの幸せ」「恋人たちの港」「恋と海とTシャツと」「想い出のセレナーデ」などのヒット曲を連発した。
 また、ほぼこれに並行して、テレビでも『真理ちゃんとデイト』(1972年10月~1973年3月)、『となりの真理ちゃん』(1973年4月~9月)などの『真理ちゃんシリーズ』5作が大ヒットし、国民的アイドルとなった。
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 私は「真理ちゃんシリーズ」はあまり観なかったが、テレビの歌謡番組や深夜放送で彼女の歌を聴いて、愛くるしい顔、真っ白な歯、人形のようなスタイル、完璧ではないが透明感のある歌声に、思いっきりファンになってしまった。大きな顔写真入りの下敷きまで買って、見とれてドキドキしていた(笑)。

 深夜放送「ABCヤングリクエスト」(ヤンリク)に、「虹をわたって」や「若葉のささやき」のリクエストのハガキを一生懸命書いて送ったことを覚えている。

 初めてLPレコード買ったのも、天地真理のファーストアルバム「水色の恋/涙から明日へ」だった(このアルバムは今でも私の部屋にあるが、プレーヤーがない(笑))。
 彼女は国立音大附属高校の声楽科卒業で、またフォークソングが好きということもあって、LPには、実に幅広いカバー曲が入っている。
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 熱烈なファンだったのは高3(1974年)くらいまでで、その後は落ち着いていったが(笑)、今でも時々曲を聴いたり、ユーチューブで昔の動画を観たりする。

 1977年ころから体調を壊して休業したり、その後アダルト路線に変更したり、大変な肥満になってテレビに登場するのを見て複雑な思いもあったが、2011年に「天地真理ファンクラブ」が新たにスタートし、コアなファンに加えて、かつてのファンのリターンや新しい世代のファンが広がりつつあるとのことで、とても嬉しく思う。

 若さと美しさを売りにした「アイドル」が、年齢を重ねてもその状態を続けることは不可能である(吉永小百合さんや松坂慶子さんなど、ごく一部の例外はあるが)。かつて圧倒的多数の人々をその愛らしさと歌声で魅了した、そのことだけで十分ではないだろうか。

 2016年10月にはデビュー45周年を迎えるということで、「天地真理スクリーンコンサート」などの催しが頻繁に行われているようである。私は「コア」と「リターン」の中間くらいだと思うが、これに参加して、もう一度昔の「真理ちゃん」に浸ってみたいような気もする。

 ちなみに、私が特に好きな曲(①~⑨は、ほぼ時系列順)は、次のとおりである。
 ①ひとりじゃないの
 ②水色の恋
 ③虹をわたって
 ④ふたりの日曜日
 ⑤若葉のささやき
 ⑥恋する夏の日
 ⑦空いっぱいの幸せ
 ⑧恋人たちの港
 ⑨思い出のセレナーデ
 ⑩涙は明日に(ジローズのカバー曲)
 ⑪悲しき天使(メリー・ホプキンのカバー曲)
 ⑫ある雨の日の情景(吉田拓郎のカバー曲)

 ※画像の一番下は、ブリジストンが発売した自転車「ドレミまりちゃん」のCMである。


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