No.300 2人の過労自死遺族の発言に思うこと
◆11月9日、東京の霞が関・イイノホールで、「過労死防止啓発シンポジウム中央会場」が行われた。これは、11月18日に八王子市で開かれる「東京会場」とは別に、全国的な位置づけで行われたものである。会場は満席で、後で聞くと480人を超える参加者があったとのこと。
主な進行次第は次のとおりである。
(1) 塩崎厚労大臣の挨拶
(2) 超党派議員連盟の世話人として出席された3人の紹介と馳浩代表世話人の挨拶(他の出席者は泉健太さん、高橋千鶴子さん)
(3) 厚労省の過労死防止対策推進室の村山誠室長から「現状の説明」
(4) 川人博弁護士から「過労死防止全国センター報告」
(5) 北里大学医学部公衆衛生学の堤明純先生から「過労死等防止のためのストレス対策」
(休憩)
(6) 金沢大学名誉教授の伍賀一道先生の「今日の働き方と過労死問題」
(7) 過労死遺族4人の体験談
①大学の准教授をしていた夫(当時48歳)を過労自殺で亡くした宮城県の前川珠子さん
②電通の新入社員であった娘(当時24歳)を過労自殺で亡くした高橋幸美さん
③経理の仕事をしていた長男(当時35歳)を亡くした茨城県の岩田徳昭さん
④老人福祉施設で働いていた夫(当時49歳)をクモ膜下出血で亡くした、和歌山県の小池江利さん
(8) 全国過労死家族の会代表の寺西笑子さんの閉会あいさつ
◆どの発言、報告も大変貴重なものであったが、すべてを紹介することはできない。
ここでは、(7)の①・②の2人のご遺族のお話(発言の文字起こし)を紹介しておきたい(下線は私)。
【前川珠子さんのお話】(ご本人のブログにも掲載されている。)
わたしは前川珠子と申します。2012年、当時大学准教授であった夫を
過労自死で亡くしました。
享年48歳。あとには13歳の息子とわたしの2人が残されました。
夫は仙台にある大学の工学部の工学部10年任期の准教授でした。
任期が終わるまであと四年を残し、
イレギュラーな形で、准教授だけの研究室を独立して構えておりました。
任期の終わりを4年後に控え、研究室の存続のための勝負をかけたところで、東日本大震災に被災しました。
膨大な日常業務をこなしながら、
ほぼ一人で、被災した研究室を立て直しました。亡くなった2012年1月は、過酷な仕事が実り、仮設の研究室が整い、ようやく研究再開のめどが立った時期でした。
突然の解雇予告を受け、過労の局地にあった彼の精神はその直後に壊れました。
一週間後彼は爆発するように自ら命を絶ちました。仕事が多すぎるんだよ。
回せないんだ。
亡くなる前に言っていた言葉が
今も耳をよぎります。
あの時、どうしてすぐ仕事を辞めてと
言えなかったんだろう。仕事が命のひとでした。
彼からその愛する仕事が奪われた状態を
わたしはどうしても想像することができなかった。それでも、死ぬほどつらいとわかっていたら
どんなことでもしたでしょう。どんな状態でもいい。
わたしは彼に生きていてほしかったのです。それはいま、ここにいらっしゃるすべての遺族のみなさんも
同じ気持ちではないかと思います。今更、なにをどうしたところで
わたしたちの大切な家族が帰ってくることはありません。
でも、わたしは思いたい。
わたしたちの家族は、無駄死にではなかったと。
彼らはその生命をかけて
働くことの意味を、日本で生きる、すべてのひとに問うているのだと。その問いに答えるのは残されたわたしたちの、そして
生きるためにはたらく、すべてのみなさんの責任です。想像してみてください。
ある日あなたに電話がかかってきて
昨日まで元気だった
あなたの親御さんが、伴侶が、兄弟が、子どもが
突然命を絶った、と知らされるところを。
それがわたしたち遺族に起ったことです。わたしたちの家族が間に合わなかったように
もしかしたらあなたの大事な人が、
ある日突然死んでしまうかもしれない。
次はあなた自身かもしれない。いのちのはかなさと尊さ、そのかけがえのなさを
わたしたちは遺族は、嫌というほど思い知りました。
それはどんな犠牲を払っても、大切にする価値があります。わたしたちは大きな歴史の一部にすぎず、
個々に起きる不幸を止めることはできない。それでも、過労死はいつか必ずなくすことができる。
とわたしは信じています。わたしは夫を失いましたが
その死は労働災害として認められました。
働くことで人が命を落とすのは、理不尽なことです。
しかし、現在のように過労死が
そのすべてではないとしても、
労災として救済の対象になることは
自然に得られた制度でも、権利でもありませんでした。高度成長期の終わりと同時に頻発するようになった過労死を問題視し、
未来のわたしたちのために失われた命の重さを
訴えてくださった遺族の先輩方、
過労死弁護団の弁護士さんをはじめとした沢山の方々のお力で
わたしはいま、過労死遺族として、ここに立っています。大きな力を持たない一人ひとりの人々が、
共通の思いのもとに集まり、ほぼ四半世紀の歳月をかけて
過労死という概念が育ち、法律がつくられました。
このシンポジウムはその流れの途上にある。
わたしたちはいまここで、新しい歴史を創っているのです。誰もが健康でしあわせに働くことのできる未来を、
次の世代に残していきましょう。みんなで。
【高橋幸美さんのお話】
娘の名前は高橋まつりと言います。 娘は昨年12月25日、会社の借上げ社宅から投身し、自らの命を絶ちました。
3月に大学を卒業し、4月に新社会人として希望を持って入社してから、わずか9ヶ月のことでした。
娘は高校卒業後、現役で大学に入学しました。大学3年生の時は文部科学省の試験に合格して、1年間北京の大学に国費留学しました。
帰国後も学問に励み、その後人一倍のコミュニケーションの能力を活かして、就職活動に臨みました。そして、早い時期に内定をもらい大手広告代理店に就職しました。
娘は、日本のトップの企業で国を動かすような様々なコンテンツの作成に関わっていきたい。自分の能力を発揮して社会に貢献したいと夢を語っていました。入社してからの新人研修でも積極的にリーダーシップをとり、班をまとめた様子を話してくれました。
「私の班が優勝したんだよ。」と研修終了後にはうれしそうに話してくれました。
「憧れのクリエイターさんに何回も褒められたのを励みに頑張るよ」と希望に満ちていました。5月になり、インターネット広告の部署へ配属されました。「夜中や休日も仕事のメールが来るので、対応しなければならない」と言っていました。締め切りの前日は、終電近くまで頑張っていましたが、夏頃からたびたび深夜まで残って仕事をするようになりました。
週明けに上がってきたデータを分析して報告書を作成し、毎週クライアントに提出する仕事に加え、自宅に持ち帰って論文を徹夜で仕上げたり、企画書を作成していました。10月に本採用になると、土日出勤、朝5時帰宅という日もあり、「こんなにつらいと思わなかった。今週10時間しか寝てない。会社辞めたい。休職するか退職するか自分で決めるので、お母さんは口出ししないでね。」と言っていました。
11月になって、25年前の過労自殺の記事を持ってきて、「こうなりそう」と言いました。私は「死んじゃだめ。会社辞めて」と何度も言いました。
その頃、先輩に送ったメールに「死ぬのにちょうどいい歩道橋を探している自分に気が付きます」とあります。
SNSにはパワハラやセクハラに個人の尊厳を傷つけられていた様子も書かれていました。
私には、「上司に異動できるか交渉してみる。出来なかったら辞めるね」と言っていましたが、仕事を減らすのでもう少し頑張れということになったようです。しかし、12月には娘を含め、部署全員に36協定の特別条項が出され、深夜労働が続きました。その上、数回の忘年会の準備にも土日や深夜までかかりきりになりました。
「年末には実家へ帰るからね、お母さん。一緒に過ごそうね」と言ったのに、クリスマスの朝、「大好きで大切なお母さん、さようなら。ありがとう。人生も仕事も全てがつらいです。お母さん、自分を責めないでね。最高のお母さんだから」とメールを残して亡くなりました。社員の命を犠牲にして業績を上げる企業が、日本の発展をリードする優良企業だと言えるでしょうか。
有名な社訓には取り組んだら放すな。死んでも放すな。目的を完遂するまではとあります。
命より大切な仕事はありません。娘の死は、パフォーマンスではありません。フィクションではありません。現実に起こったことです。
娘が描いていたたくさんの夢も、娘の弾けるような笑顔も、永久に奪われてしまいました。
結婚して子どもが産まれるはずだった未来は、失われてしまいました。私がどんなに訴えかけようとしても、大切な娘は二度と戻ってくることはありません。手遅れなのです。
自分の命よりも大切な娘を突然なくしてしまった悲しみと絶望は、失った者にしかわかりません。
だから、同じことが繰り返されるのです。
今、この瞬間にも同じことが起きているかもしれません。
娘のように苦しんでいる人がいるかもしれません。過労死過労自殺は、偶然起きるのではありません。
いつ起きてもおかしくない状況で、起きるべくして起きているのです。経営者は社員の命を授かっているのです。
大切な人の命を預かっているという責任感を持って、本気で改革に取り組んでもらいたいです。
伝統ある企業の体質や方針は一朝一夕に変えられるものではありません。
しかし、残業時間の削減を発令するだけでなく、根本からパワハラを許さない企業風土と業務の改善をしてもらいたいと思います。残業隠しが、再び起こらないように、ワークシェアや36協定の改革、インターバル制度の導入がなされることを希望します。
そして、政府には国民の命を犠牲にした経済成長第一主義ではなく、国民の大切な命を守る日本に変えてくれることを強く望みます。
ご清聴ありがとうございます。
◆お二人のお話から言えるのは、過労死は決して「人ごと」でないこと、にもかかわらずそれが「人ごと」だと思われているから、過労死がなくならないのだ、ということである。
要するに想像力の問題ということだが、一人ひとりに余裕がなく、社会全体が、相手の立場になって物事を考えたり感じることができなくなってしまっているのかもしれない。パワハラやいじめがなくならないのも、共通のものがあるのではないだろうか。
しかし、遺族のこのような体験談は、自分の夫が、息子が、娘が、親が突然倒れたり自死したらどうだろうかと、否が応でも聞く人々の想像力、共感を呼び起こさずにおかない。
その意味で、過労死遺族の話はたまらなく辛いが、それだけに貴重なのである。
このような辛い体験を話される遺族の皆さんに、本当に頭が下がる思いである。
↓ ↓ ↓
♪ここまで読んで下さった方は・・・ワンクリックしていただけたらとっても嬉しく、励みになります。
にほんブログ村
最近のコメント