2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
フォト

« 2016年12月 | トップページ | 2017年2月 »

2017年1月の6件の記事

2017年1月23日 (月)

No.310 21世紀の妖怪の正体と、世界の行方(その2)

(前半「No.309 21世紀の妖怪の正体と、世界の行方(その1)」から続く)

◆過激リーダーたちの共通点──ポピュリズム
今、ヨーロッパ諸国では、EUを支持する既成のリーダー(フランス・オランド大統領、ドイツ・メルケル首相)を、過激なリーダー(フランス国民戦線ル・ペン党首、オーストリア自由党、ドイツのための選択肢、オランダ自由党)が脅かし始めている。
170108img_4907

そのような過激なリーダーには共通点が見られるという。

高千穂大学国際政治学 五野井郁夫教授
人々の不満や怒りを吸収して、それを票につなげていく。敵と味方を区別し、敵と見なされたものを激しく攻撃していく。こうした動きを一般にポピュリズム、大衆迎合主義という。それを先導する者のことをポピュリストと呼ぶ。」
このようなリーダーたちが手を結ぶ可能性もある。

ファラージ氏がトランプの応援演説
トランプのツイッター「是非ファラージ氏をアメリカ大使として迎えたい」
彼らが求めている世界とは何か。

(安田菜津紀)
キャンペーンでの誇張宣伝は、難民問題でも見受けられた。もともと、大国が引いた国境線こそが今のひずみを生んでしまっている。今突きつけられていることの起点を自分たちが生み出したかもしれないという当事者性を取り戻せるかどうかが問われている。一国だけで負担できる問題ではないので、門戸を閉ざせば解決できるものではない。そのひずみが別のところにシフトしていくだけではないか。

(姜)
イギリスにもかつてはファシストがいた。オズワルド・モズレー。イタリアやナチスと強いつながりを持った。EUの場合、ドイツとフランスが最後の防波堤なので、フランス大統領選挙でこれが決壊すれば、EUは崩壊するのではないか。今年の最大のテーマは、フランスでも同じことが起きるかどうか。そうなるとかなり世界が変わる。オランダ、フランス、イタリア、ドイツ。

(寺島)
イギリスには、今や金融くらいしか世界に冠たる産業はない。ロールスロイスはドイツのBMW、ジャガーはインドの自動車会社の傘下に入ってしまっている。ロンドンシティの声を12月に行って聞いてきたが、ヘッジファンドの人たちはEUの縛りを否定し、離脱を支持した。今月イギリスの最高裁がEU離脱の手続(国会の承認の要否)について判断が下ることになっているので注目したい。

(岸田)
民主主義はポピュリズムに弱い。日本でも小泉は、政治不信が高まったときに「自民党をぶっ壊す」と言って出てきて、郵政選挙で刺客まで送り込んだ。独裁体制ができてしまう。

世界の声
ロンドン ナショナリズムの行き過ぎが怖い。
ロンドン 人種差別
ロンドン テロが心配
モスクワ 第3次世界大戦

◆「成長欲求」から「退行欲求」への逆行
トランプ氏とファラージ氏の主張は共通点が多い。
他者を排除する表現
人間が壁を作ってきた歴史
得体のしれない不安に突き動かされたとき、人は壁を作る。

早稲田大学名誉教授 加藤諦三(社会心理学)
「壁を作ることは、心に壁を作ることの象徴。人とのコミュニケーションができなくなったということ。自分の価値が否定されるのが怖いし、不安だから、自分の世界に閉じこもる。人間は矛盾した存在で、基本的に「成長欲求」と「退行欲求」を持っている。成長欲求は負担を背に成長していこうということ。大変厳しいが結果として人間にとって幸せに。退行欲求は、その場の満足を求める。負担から逃れたいという小さな子どものいいとこ取り。去年(2016年)は明らかに世界は成長欲求を拒否した壁を作った。去年の流れのままそれぞれの国が退行欲求に従えば、人類が成長を拒否した流れが主流になってしまう。非常に危険な状態になる。」
世界は壁を作り続けるのか。
170108img_4905_2
パネル
成長欲求は、コミュニケーションを求める、理念を追求し負担を背負う、長期的に考えるのに対し、退行欲求は、壁を作る、内向き、敵をつくる。

(姜)
アメリカの裕福な人たちの「gated city」を世界に広げようとしている。また、異質な人たちをあぶり出そうとする。「敵は外と内にいる」といってナチスはユダヤ人をあぶり出した。それが外側と通じているとする。それが分かりやすいのが「テロリスト」。日本の幕末期にも起きていた。「外からやってくる列強と呼応する内なる分子がいるはずだ。あぶり出さないと秩序が大変なことになる。」ある種の純化思想。自分たちを純化したい。これが悲劇を生んできたことは近代でいくつもあった。非常に危険。

(目加田)イギリスのEU離脱もアメリカのトランプ政権誕生も、よもやという形で起こった事件。結果はいずれも拮抗していた。大多数が支持していたわけではない。誰かのせいにしたり壁を作ったからといって、時間稼ぎはできるかもしれないが、問題が解決するわけではないことを冷静に受け止める必要がある。

(関口)
第二次世界大戦後、人類は成長欲求の方で進めてきたのに、逆に向き出したのか。
(寺島)
75億人のうち60億人以上は未だに成長欲求の中を生きている。途上国、新興国。求められているのはリーダーの見識。日本から見れば、羅針盤がなくなり、自分で考えないといけなくなってきている。

世界の声
バンコク
イスタンブール 右傾化の恐怖のトンネル

◆強いリーダー渇望と、インターネットによる加速
今世界を動かしているもう一つの力は、強いリーダーを求める群衆のエネルギー。

法政大学(経済学)竹田茂夫教授
一連の現象は、グローバル化した金融資本主義の一つの病。グローバル化によって製造業はどんどん賃金の安い国に流れ、アメリカ国内の製造業で働いていた人たちは見捨てられる。その結果、格差は拡大し、金融資本主義のトップにいる人たちは信じられないような高額の資産・所得を得る。少し前の言葉で言えば「勝ち組」「負け組」。社会が分断され、負け組の方で結局人がバラバラにされていく。」

難民・移民の流入が職を奪うというよりも、グローバル経済が生み出す格差拡大・生活不安などのゆがみこそが、むしろ根本的な問題。
こうした人々の動きを、急速により激しく加速させる背景は、インターネットの拡大。

高千穂大学国際政治学 五野井郁夫教授
インターネットの影響が非常に大きい。リーダーの根拠のない発言やデマをネットを介してうのみにする人が出てくる。そこで憎悪や差別感情が増幅されていく。」
ネット上で流れる根拠のないフェイクニュースをそのまま信じる人々や、ヘイトクライム(憎悪犯罪)も後を絶たない。
「今まで我々は、それを言ったらおしまいという建前があったはず。それをかなぐり捨てて、本音だけをストレートに言う。そこにタブーを破ったような快感がある。ポピュリズムは“多数者による支配”。多数派の意見こそ正しいということになると、少数者、マイノリティの権利が蹂躙される恐れがある。歴史的に振り返ると“ファシズム”がこれにあたる。」

ニューヨーク州立大学名誉教授 イマニュエル・ローラースティン氏
世界の覇権をめぐる歴史研究で知られる。
「アメリカの栄光は(少数派を含む)多様性にあるが、現実のアメリカはそれほど多様性に富んでいない。経済状況が悪化する中で人々はどんどん保守的になっている。保守的になればなるほど、人々は強い政府を求める。しかし、トランプ氏を支持した人々は1年後、2年後にはがっかりするだろう。どこかの時点で人々は言い出すだろう。「おいおい、あんなに約束したはずなのに具体的成果は何も無いじゃないか」と。第二次世界大戦が終わってから25年ほど、アメリカは世界で覇権的な力を持っていた。アメリカがやりたいと思うことは95%実現することができた。しかし、2016年、2017年の今、何の前提もなくアメリカに追随する国など存在しない。どの国も自国の利益を追求するうえで最善の同盟国の組み合わせを探っている。ただ一つ確かなことは、今まで40年、50年続いてきた“システム”、そして今後も20年くらいは続くと思われる今の“システム”は存続しないということ。2040、2050年ころには我々は新たな“システム”の中で生きているだろう。だが、それがどのような“システム”か、私にも予測できない」
これまで、70年から80年感覚で大きな変化が起きてきたという歴史上のジンクスがまた繰り返されることになるのか。

◆今、世界と日本に求められること
(寺島)
今年は明治維新から150年。明治維新から70、80年経った真珠湾前後ころ、日本は大きく迷い込んだ。それは、幕末維新の動乱期に歯を食いしばって耐えた人たちが歴史の前線から消えていった。歴史の教訓が伝わらなくなった。日本も戦後70年を過ぎて、歴史の教訓をどう整理し、伝えていくのかという場面に来ている。世界的に見れば、あまりに肥大化したグローバル金融資本主義をどうやって制御していくのかということに、いよいよ踏み込まなければならない時期に来ている

(姜)
戦後は、第一次、第二次世界大戦によって影響を受けた時代だった。逆説的だが、2つの世界大戦がもたらしたのは、みんなが限りなく平等に生きられるようにという「平等」だった。それとおさらばできると思ったこの時期に、気が付くと格差が広がり、第一次大戦以前の世界に戻っている
今大切なことは、中産層を安定的に増やす。医療、保険、介護、年金など、みんなが安心して暮らせるようなものに社会的資源を配分すること。目先の成長よりも、10年先の中産層の安定を作っていかないと、アメリカやイギリスのように浮遊していく。漂白しないためのアンカーを作っていく必要がある。
日本の独自性という点では、これまで会社の中に自分たちのアイデンティティを持ってきた。日本的経営がダメになったときに、ナショナリズムに行きやすい状況にある。ボランタリーな中間集団を作って、人々がすくい上げられる必要がある。自分一人だという感覚を持たせないために、NGO、NPOなどがもっともっとできる必要がある

(目加田)
確実に変化が起きている。国連で核兵器禁止交渉を110カ国以上が決めた。誰が本当に変化に対応できるのか。市民社会のエネルギーが、トランプなどが出てきたために活性化する可能性がある。オキュパイやもう一つの世界は可能など、問題が明確になることによって力が結集させていく可能性もある。人道主義、人権、平等など、人類が不断の努力で築いてきた価値観が崩れてしまうかもしれないという危機感。壊すのは一瞬だが築くのは本当に大変だということに気づいたうえで、新たな価値を築いていくことが求められている。

(安田)
現在世界を覆っている不寛容さを見ると、出自や宗教や置かれた立場などによる線引きが必要以上になされ、一人一人の顔が打ち消されて集団がノッペラボーになり、攻撃しやすくなっている。争いを始めるのは権力者であっても、それを広げるのは大衆やメディア。沈黙こそが集まって、不寛容さに向かう世界を築いてしまう。人と人とをつなぎ得る言葉を紡ぎあえる1年にしたい。

(岸井)
今が歴史の転換期。今までと質的に違う。これまでの人類の文明とは何かということが突きつけられている。ルネッサンス以来の意識の転換期を迎えている。

テロの惨劇
イスタンブール、ベルリン、アンカラ、アンカラ、ブリュッセル
シリア・アレッポ、イラク・モスル、トルコ軍事クーデター、ギリシャ・マケドニア国境
混迷を深める世界、排他的な世界
日本でも同じことが起こっている。日本のヘイトデモ、沖縄・高江
他方で、地球規模の問題は置き去り
他者への思いやりを持って頑張らなければならない。

 ※画像は上から
  ①2016年~2017年の世界の政治的な動き
  ②「成長欲求」と「退行欲求」
  ③ジョン・レノン「IMAGINE」のプレート
  ④ロサンゼルスの男性のインタビュー


         ↓   ↓   ↓  

♪ここまで読んで下さった方は・・・ワンクリックしていただけたらとっても嬉しく、励みになります。
にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ
にほんブログ村

2017年1月22日 (日)

No.309 21世紀の妖怪の正体と、世界の行方(その1)

170108img_4955
 1月8日、新年最初の「サンデーモーニング」は、新春スペシャルとして「迷える世界~日本の立ち位置~」を放映した。
 私はいつもこの番組は録画しておいて後でさらっと観るだけなのだが、今回は、昨年アメリカ大統領選挙でトランプ氏が当選し就任を目前に控えていること、ヨーロッパや日本でも大きな歴史的な転換点に来ているのではないか(もしかしたら新たな戦前になりつつあるのではないか)という危機感があることから、じっくりと放送を観た。すると、予想以上に興味深い内容だったので、自分なりに吟味するため、その要点を書き起こしてみることにした。
 以下は、私なりの要点書き起こしにすぎず、正確な再現ではないことを、お断りしておく。また、◆印の見出しは私が付したもので、下線は私が興味深く感じた部分に付したものである(前半、後半に分けて投稿する。)。

(以下、番組書き起こし・前半)
170108img_4905

鵺(ぬえ)という妖怪は、不吉な時代に出る。鳴く夜は不吉なことが起こると言われる。
顔が猿、胴体が狸、手足が虎、尻尾が蛇。
平安時代末期に御所に現れたが、源頼政が退治した。
現代に現れたら、誰が退治するのか。番組の象徴として掲げたい。

◆格差と貧困への苛立ちが生み出した「トランプ大統領」
トランプを選んだアメリカで何が起きているのか。
1月20日に就任式の予定。
堂々とトランプ支持を語る人々。ニューヨーク
移民に対する差別・偏見を煽る数々の発言を続けている。
トランプ旋風の吹いた2015年、KKKは支部の数が72→190と、2倍以上に増加した。
ナチスドイツ式の敬礼をする新たな極右勢力が現れた。

ペンシルベニア州のジョンズタウン
伝統的に民主党の強いところだったが、今回はトランプが勝利。それに大きく貢献したのが白人中間層の怒りだった。
ペンシルバニアを含むアメリカの中・西部一帯(ニューヨーク、ペンシルベニア、オハイオ州はラストベルト(さびついた地域)と呼ばれている。
20世紀半ばまで鉄鋼・重工業などアメリカの主要産業の拠点として栄え、それを主に白人労働者が支えてきた。しかし、自由貿易によって製造業は衰退。
ラストベルトのうちミシガン、ウィスコンシン、オハイオ、ペンシルバニア、インディアナ州でトランプが勝利(他にイリノイ、ニューヨーク)。

ジョンズタウンの元溶接工、ポール・カジミアチャックさん(58歳)。溶接工として鉄道車両工場で勤務してきたが、9年前の工場閉鎖で失業。その後アルバイトをしながら看護学校に通い、今は看護師として働いている。
「溶接工のころの方が収入は良かった。今は変わった。倹約して何とかやっている。私の周りにも仕事のない人が多くいる。」
170108img_4906

アメリカ全体では景気が上向きで、失業率も下がっているが、製造業の就業者はこの20年ほどでおよそ3分の2に減っている。失業者も増加するなか、取り残される白人労働者の不満・不安を取り込んでいったのがトランプだった
トランプの演説「中国や日本から雇用を取り戻す」「アメリカを再び偉大な国にする」
ポール氏はこれまで民主党を支持してきたが、今回トランプに乗り換えた。
「選挙では(ワシントンの)ロビイストたちの声ばかりが取り入れられて、私たちは置いてきぼり。トランプ氏なら言ったことを守ってくれる」

不安・不満を生み出すアメリカ社会の崩壊。それは若者の教育現場にも及ぶ。
公立大学の授業料は15年間で約2倍になった。約7割が学生ローンを利用している。10万ドル(約1170万円)以上の債務を抱えている人が約203万人もいる。次世代の中間層になるべき若者たちにも崩壊の波が押し寄せている。
ケント州立大学を去年卒業したトニー・バイルシモさん(27歳)は、現在の学生ローン残高が約650万円。その重荷から、教師への道を諦めた。
「学生から大金をむしりとる金融会社は問題です。政府は企業が若い世代に重荷を課していることを理解していない。クリントン氏を好きになれなかったのは彼女が銀行・ウォール街と結びついているから。」

今、アメリカでは富裕層と貧困層の2極化が進行中。国民の7人に1人が貧困層といわれている。
こうした貧困層に追い打ちをかける事態も起きている。
ミシガン州デトロイト市にある工場跡地。デトロイト市は自動車産業の都市として発展したが、2013年7月に財政が破綻。その影響で警察や消防などの公共サービスが低下。
デトロイトは最盛期、年間1000万台の車を生産していたが、人口は185万人(1950年)から68万人(2012年)に6割減少。税収が落ち込み、公共サービスが低下。街灯の4割が消え、公園の7割が閉鎖。警察官も人員削減され、犯罪率が上昇。一時は全米で最も危険な街とまで言われた。アメリカではこのように十分な公共サービスを受けられない自治体が少なくない。

荒廃するアメリカ社会。人々の怒りは特定の人々にも向かっている。
メキシコと国境を接するアリゾナ州。武装した住民ンが不法移民の入国を監視している。「不法移民はアメリカ国民ではない。彼らは全てを奪っていく」「国境を開くと貧困が入り込んで社会環境が悪くなる」
アメリカの不法移民は1110万人で、アメリカの根幹を揺るがしかねない事態となっている。
アメリカの白人は1960年には85%だったのに、2011年には63%、2050年には47%になるといわれている。中南米からのヒスパニックが増えると言われている。移民国家としての多様性をエネルギーに成長してきたアメリカだが、白人が多数派でなくなるかもしれないという危機感は、アメリカが持つ価値観、寛容な精神に微妙な影を落とし始めている。
「私は中流階級の市民ですが、生活費を稼ぐだけで手いっぱい」(若い女性)
「この国は苦しんでいる人がたくさんいる。不法移民を受け入れて仕事を取られてしまった。移民には来てほしくない」(中年男性)
「もともと分断していた。トランプが分断したのではなく、分断していたからトランプ氏が勝ったんだ。」(中年男性)
かつての覇権国アメリカの崩壊は、今後世界にどのような影響をもたらすのか。

◆「トランプ政権」の性格と懸念
トランプは選挙後も、国境の壁、核能力・軍拡競争、テロ事件、アメリカ製品と雇用、中国の貿易批判などをツイッターで繰り返している。

(寺島実郎)
格差や貧困に対する苛立ちがトランプを大統領にしてしまった。しかし、この政権が始まる前から、この政権の性格が次第に見えてきている。政権の主要人事は、金融・財界、軍出身者を多用。保守強硬派や脱オバマ路線の人たちも並んでいる。産業と金融の違い。製造業が急速に衰えていくアメリカ。今回のトヨタ叩きに見えてきているように、保護主義で闘っていかなければならないという宿命を背負っているが、一方で驚くほどの金融シフトで、ウオールストリートをしばるという人事になっていない。財務長官も商務長官もウオールストリートのマネーゲーマー。産業については保護主義、金融については自由主義で股裂きのような状態。時間の経過とともに、国民の中に大きな失望が生まれる時が来るだろう

(姜)
今回の大統領選の対立は本来バーニー・サンダースとトランプの争いだった。自分たちを苦しめる人を選んでしまった。民主党はサンダースを候補者にして一騎討ちにさせる方がよかった。恐れているのは、軍人とビジネスマンなので、軍事ケインズ主義(軍事産業を通じて公共的な投資をしていくこと)が台頭し、軍事介入をしたり戦争を起こすこともあり得る。それを通じて国内の雇用が出てくるならいいのではないかという意見が出てくるのを危惧する。

(岸井)
80年代レーガン政権時代にアメリカにいたが、当時はみんなアメリカンドリームを信じていた。とにかく努力すれば成功するチャンスは平等にあると。これが完全に終わった。アメリカの失速。

(目加田説子)
大きな戦争で世界秩序を変えられる時代は終わった。共通のルールや共有できる価値観をいかに広げていけるのかが鍵になってくる。

◆EUを離脱したイギリスの場合
ニューヨークの人々の声。
イギリスでも同じような動き。
昨年6月、EU離脱をめぐる国民投票。当初の予想を覆し、離脱派が勝利した。イギリスが離脱を選んだEU欧州連合の発足の背景には、人類が過去に犯した過ちが深く関係している。有史以来戦争を繰り返してきたヨーロッパ。火種となったのは国境線。第1次世界大戦では、一般市民までが戦争に駆り出された。毒ガス兵器などで死者約3700万人。ヒトラー率いるナチス政権が台頭。世界は再び戦争の泥沼に。多くのユダヤ人が虐殺されるなど、死者は約6000万人。惨劇が再びヨーロッパで繰り返された。こうした悲惨な歴史への反省から、国境をなくすために作ったのがEU欧州連合だった。ユーロ紙幣には、開かれた共同体を示す門や窓、人と人との交流を意味する橋が描かれるなどEUの理念が刻まれている。2012年にはノーベル平和賞を受賞。平和に向けた人類の壮大な実験と呼ばれている。
なぜイギリスは離脱という選択をしたのか。

選択の裏には一人の政治家がいた。イギリス独立党の党首だったナイジェル・ファラージ氏。
ファラージ氏へのインタビュー。「誰をこの国に入れるかはその国が決めれなければならないのに、EUはそれを禁じている。誰でも日本に来られるようになったらどうする?イヤでしょう」
移民問題などで主導権を握るEUへの不満が支持を集めた。「国境を取り戻そう。イギリスへのパスポートを取り戻そう」
ドイツ メルケル首相「我々は助けを求めてヨーロッパに逃れてくる人々を尊重しなければならない」
しかし、イギリスでは東ヨーロッパからの移民が増加。生活が脅かされているとして反発が強まっている。特にその声が強かったのが、イギリス中部のボストン。75.6%がEU離脱に投票。

EU離脱に投票した作業員(45歳)
「EU諸国から多くの移民が来ていて仕事を狙っている。そのため以前より仕事が減った。最悪の時は週に1回しか仕事がない。」

このような不満を取り込んでいったのがファラージ氏だった。庶民派をアピールし、離脱に向け支持を獲得していった。
しかし、離脱が決まった後で問題が発覚。キャンペーン中、「イギリスはEUに毎週3億5000万ポンドを負担している。離脱すればその金を国営医療サービスに回せる」と宣伝したが、実際の負担は1億数千万ポンドで、誇張されたものだった。
離脱派の主張は誤りだったことを認め、突然独立党の党首を辞任。
離脱派はその後も集会を行っている。「イギリスは完全な主権国家となり、尊厳、世界での力を取り戻す」、「我々は自由で独立した国になれる」
こうした動きは、他国にも広がりを見せている。

(以下、後半「No.310 21世紀の妖怪の正体と、世界の行方(その2)」に続く)

 ※画像(上から)
 ①新春スペシャルの冒頭
 ②今回の特番の象徴とされた「鵺」(ぬえ)
 ③20年間で3分の2に減少したアメリカの製造業就業者数


         ↓   ↓   ↓  

♪ここまで読んで下さった方は・・・ワンクリックしていただけたらとっても嬉しく、励みになります。
にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ
にほんブログ村

2017年1月18日 (水)

No.308 誇らしい3人の過労死事件「卒業生」たち

 私にとって、過労死事件(過労死の労災認定、企業に対する民事訴訟など)は、弁護士としてのライフワークとなっている。強い責任感でまじめに働いた末に、突然訪れる理不尽な死。相談に来る遺族の目は、悲しみとやり場のない怒り、愛する人の死を止められなかった自責の念にうるんでいる。

 そんな傷ついた遺族を励まし、弁護団を組み、労災申請や行政訴訟、民事訴訟に取り組む。遺族たちだけでなく、私たち弁護団にとっても辛く、苦しい闘いである。そして結果は、認定や勝訴を勝ち取れる場合もあれば、残念な結果に終わる場合もある。

 かくして事件が決着すれば、依頼者は原告でなくなり、私たちの任務は終わり、弁護団は解散する。寂しさも感じるが、遺族が次のステージに進んでいく以上、それはやむを得ない。中には、元弁護団に声をかけて、「同窓会」を開いてくれる遺族もいて、とても嬉しいことである(かつて担任をした卒業生たちから同窓会に招かれる先生の気持ちがわかる気がする。)。

 しかし、闘いの中で過労死家族の会や過労死を防止する活動に関わり、過労死問題の社会問題としての本質を学び、自分の事件が終わった後も、家族の会などで後に続く人たちの力となり、また過労死を亡くすために社会に働きかける活動を共に担ってくれる「同志」になってくれる人たちがいることは、私にとって本当に誇らしい。

 そんな最高の「卒業生」として、次の3人を紹介しておきたい。

 1人目は、寺西笑子さん。京都の和食店チェーンで店長として働いていた御主人を過労自殺で失い、労災認定の闘いに続き、会社と社長を被告として民事訴訟を闘い、勝利和解を勝ち取られた。10年に及ぶ闘いを終えた翌年(2007年)の寺西さんからの年賀状には、「なごり惜しいけれど原告を卒業します。」と書かれていた。そして寺西さんは、過労死家族の会の活動に本格的に関わり、「全国過労死を考える家族の会」の代表に就任。全国の過労死遺族たちを惜しみなく支援するとともに、過労死防止法制定運動に共に取り組んだ(「No.64 朝日新聞の「ニッポン人脈記」に紹介されました」、「No.77 東京新聞に「過労死防止法」の取り組みが紹介されました」)。ジュネーブの国連社会権規約委員会の会議にも参加し、国会の厚生労働委員会でも意見陳述をされ(「No.187 「過労死防止法」いよいよ制定への最終ステージへ!──(その2)5/23衆議院厚生労働委員会で意見陳述と満場一致採択!」)、法律制定後は過労死遺族の全国の顔として、押しも押されぬ大黒柱となっている。

 2人目は、小池江利さん。和歌山県内の老人介護福祉施設で事務責任者をしていたご主人を過労死で失い、寺西さんと同じく労災認定と民事訴訟を闘い、一審和歌山地裁で勝訴判決(「No.251 和歌山の介護老人施設職員過労死事件で勝訴判決!」)、二審大阪高裁で勝利和解を勝ち取った。和歌山県在住にもかかわらず、闘いの中で大阪過労死家族の会に入会し、過労死防止法制定の署名活動に熱心に取り組み、和歌山県議会、和歌山市議会、有田町議会の3つの地方議会で「過労死防止基本法の制定を求める意見書」の採択を実現した(「No.159 「過労死防止基本法の制定を求める意見書」を和歌山県と和歌山市が同時採択!」)。2015年4月からは大阪過労死家族の会の代表に就任した小池さんは、勝利記念文集の中で、「近い将来、日本、世界中で過労死がなくなり、私達のような苦しい思いをする遺族がいなくなるように願い、過労死問題は私の一生の課題であると決意を新たにしています」と述べている。

「過労死の悲しみ、もう二度と」法整備訴え署名活動(2013年11月8日付け読売新聞) http://blog.goo.ne.jp/stopkaroshi/e/737ff6eb0d3b52bf9e966b9380e66788

 家族を過労死で亡くした遺族らが7日、「過労死防止基本法」の制定を国に求める意見書を有田川町議会の議長らに手渡した。議会での採択を求めており、広川町の介護老人福祉施設で働いていた夫(当時49歳)を亡くした主婦小池江利さん(51)(有田川町)は「夫の死を無駄にしたくない」と活動に励んでいる。(落合宏美)

 2003年から事務職として働いていた小池さんの夫は、10年10月、残業中に脳動脈瘤(りゅう)破裂が原因のくも膜下出血で倒れ、8日後に亡くなった。11年6月に御坊労働基準監督署から労災認定を受けた。

 就職してから本来の業務である経理に加え、ヘルパーの資格を生かした業務や宿直もこなし、休日に出勤することも少なくなかった。小池さんが「きちんと休んで」と訴えても時間が取れないようで、ほぼ毎日4、5時間は残業していたという。「まじめで責任感が強い人でした」と振り返る。

 小池さんは、そうした夫の仕事ぶりに疑問を抱き、「過労死110番」に相談。弁護士の紹介で入会した「大阪過労死を考える家族の会」(大阪市)で、同じ境遇の遺族らと出会った。

 「過労死と認められても大切な人が戻らない現実に、『無理にでも仕事を辞めてもらっていれば』と遺族は自分を責める。こんな思いをもう誰にもしてほしくない」と、同法制定に向けた署名活動などに参加するようになった。

 遺族や弁護士らでつくる同法制定実行委員会は、国や企業に過労死を防止する責任があることなどを明記した過労死防止基本法の制定を求める活動を11年にスタート。今年6月には同法制定を目指す超党派の国会議員連盟が結成され、開会中の臨時国会への法案提出を目指している。


 3人目は、桐木弘子さん。宮崎県で23歳の息子さんを過労自殺で失った桐木さんは、労災申請から国を被告とした行政訴訟(「No.69 宮崎の地で、過労自殺行政訴訟を提訴」、「No.195 過労自殺させた会社と、防止できなかった労基署の「醜い野合」」)、会社に対する民事訴訟(「No.211 宮崎ホンダ23歳青年過労自殺事件、民事訴訟でも証人尋問──問われる裁判所の「眼力」」)のすべてが不当にも認められなかったが、各地の過労死防止啓発シンポジウムで遺族として発言し、2016年11月に「東九州過労死家族の会」を結成し、その代表に就任した。桐木さんは、過労死防止全国センターのニュースの中で、「インターネットで、「大阪過労死を考える家族の会」と出会うことができ、労災申請から裁判まで、たくさんの方達の支援を受けて闘うことができた」、「息子の死を無駄にしないために、今度は私が、被災者や遺族のためにこの経験を生かし、地元に家族会を作ろうと決心しました」と述べている。

過労死の悲劇なくそう 「東九州家族の会」発足 (2016年11月23日付け大分合同新聞) https://www.oita-press.co.jp/1010000000/2016/11/23/JD0055222907

 過労死をなくそうと、大分・宮崎両県の遺族らが22日、「東九州過労死を考える家族の会」を立ち上げた。結成集会が大分市のホルトホール大分であり、過労死を生まない社会にするための啓発活動や遺族支援に取り組んでいくことを誓った。
 会員は、家族を失った大分・宮崎の遺族5人と弁護士9人の計14人。代表に桐木弘子さん(59)=宮崎県川南町、副代表に野本幸治さん(74)=大分市=を選んだ。桐木さんは「手を取り合い、周りの力を借りながら頑張っていきたい」と決意を述べた。
 同会は、過重労働に苦しむ人や遺族からの相談を受ける他、啓発活動に力を入れる。会員が労災申請する際などには、孤立しないよう心理的支援や情報提供をして寄り添う。九州全体に活動を広げる方針。
 2007年に次女(当時31歳)を労災で亡くした野本さんは「娘の死を無駄にしないために、過労死を防ぐ活動を夫婦でしたいと思っていた」と話す。設立が具体化してきた今年8月、妻の美千世さんをがんで亡くした。「『やっとできたね』と妻も言ってくれるだろう」と話した。
 相談、問い合わせは桐木代表(TEL090・9484・2016)。

 3人とも、既に弁護士と依頼者という関係を卒業し、一人立ちして大きく羽ばたいている。頼もしくもあり、また、いとおしくもある。教え子が甲子園やオリンピックに出場した、高校時代の元監督(?)の気持ちは、こんなだろうか。

 私にとって「卒業生」はみんな大切だが、残された人生を過労死の救済と予防に尽くしたいと願う私にとって、上記の3人のような「卒業生」を送り出すことができ、これからの人生を共に手を携えて生きていけることを、本当に嬉しく思うのである。

         ↓   ↓   ↓  

♪ここまで読んで下さった方は・・・ワンクリックしていただけたらとっても嬉しく、励みになります。
にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ
にほんブログ村

2017年1月11日 (水)

No.307 初めての過労死防止啓発授業で高校に行ってきました

1701102img_2776
 1月10日夕方、過労死防止法に基づき、教育活動における啓発として今年度から始まった高校等での啓発授業に、過労死遺族である小池江利さんと2人で行ってきた。

 授業をしたのは、大阪府和泉市にある大阪府立和泉総合高校の定時制課程。昼間働きながら勉強し、この春卒業して本格的に働く予定の3,4年生約40人に、視聴覚教室で授業をした。
 教室に入っていくとき、「こんばんわ!」と声をかけると、「こんばんわ!」と大きな声で返してくれた。
1701103img_2778
 最初に、小池さんが約20分間、介護老人福祉施設で事務の仕事をしていた夫が、長時間労働の末に過労死した事例について話した。最初、少しざわついたり私語をしていた生徒たちも、だんだん真剣に聴き入るようになり、特に、父を失った小池さんの3人の子どもたちの手記やブログの一部を読み上げたときは、シーンと静まり返った。
1701101img_2774
 続いて、私が約40分間、「仕事に命を奪われないために」と題して、スライド(パワーポイント)を使って講義をした。

 できるだけ具体的な事例を話そうと、小池さんの件を含めて5件の過労死・過労自殺の事例を紹介したうえで、「過労死の悲しみと損失」「過労死はなぜ起こる?」「どんな働き方をしたら過労死する?」「過労死の労災認定と雇用主の責任」「過労死から自分を守るには」といったことについて話した。
 先に小池さんが自らの辛い経験を話した後だったこともあり、生徒たちはとても熱心に聴いてくれた。
170110
 私が最後に、
「命より大切な仕事はありません。
 生きるための仕事であり、仕事のために生きるのではありません。
 あなたの周りには、あなたが守りたい人がおり、また、あなたを守りたい人がいます。
 現在認められている労働者の権利は最初からあったのではなく、歴史の中で闘いとられてきたものです。
1701103img_2787
 過労死・過労自殺は、決して個人の問題ではありません。国、社会全体の問題なのです。
 あなたも社会の一員として、過労死等がなく、仕事と生活を調和させ、健康で充実して働き続けることのできる社会をともに作っていきましょう。」
と述べて話を締めくくると、生徒たちは拍手をしてくれた。
1701102img_2784
 限られた時間での駆け足の授業ではあったが、本格的に社会に出て働く予定の若い人たちに、過労死するような働き方をしてはいけないというメッセージを伝えることはできただろうか。
 終了後、今回の啓発授業を準備してくれた清水先生、山野教頭先生、加納准校長先生にご挨拶をして、すっかり暗くなった学校を後にした。
1701101img_2792


         ↓   ↓   ↓  

♪ここまで読んで下さった方は・・・ワンクリックしていただけたらとっても嬉しく、励みになります。
にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ
にほんブログ村

2017年1月 8日 (日)

No.306 観客を飽きさせない、シックな歌声と知的な語り──小椋佳コンサート

170108img_4885
 1月7日(土)、ロームシアター京都のメインホールであった、小椋佳のコンサート『歌談「老猿(おいざる)の会」』に行ってきた。

 「老猿」の名称は、文字どおり「老いた猿」という意味のほかに、「老いて去っていく」という意味と、「老いざる(老いない)」という意味もかけていて、2番目と3番目の間で揺れている、というような趣旨のことをおっしゃっていた。

 小椋佳さんの初期の頃の歌は、中学3年から高校時代にかけて、深夜に勉強しながらラジオの深夜放送でよく聴いたもので、「しおさいの詩」「さらば青春」「この汽車は」「屋根のない車」「少しは私に愛を下さい」などなど、当時の思春期の切なさとともに思い出す。

 その後は、「シクラメンのかほり」「愛燦々」「夢芝居」「山河」など、他の歌手への提供曲で大ヒットしたものも多く(私の好きな井上陽水の「白い一日」も小椋桂の作曲である。)、また「揺れるまなざし」が化粧品のコマーシャルでブレイクしたこともあった。これまで作曲した数は2000曲、提供した歌手は300人に及ぶというからすごい。
170108img_4883
 大ホールはほとんど満席。私と同年代か、それ以上の人が多かったと思う。
 歌もさることながら、小椋佳さんの語りは、しっとりと柔らかく、知的かつ上品で、聴いていて飽きない。通常のコンサートは、歌と歌の間を語りでつなぐという感じだが、小椋佳さんの場合は、語りも同じくらいの長さのように感じた。
 そのせいか、2時間15分くらいの公演時間だったが、曲数はやや少なめだったように思う。私にとって懐かしい「しおさいの詩」や「さらば青春」も、今回はなかったのが少し残念だった。

 舞台には、中央の椅子に小椋佳さん、後方に4人の伴奏者のほか、向かって左手には小椋佳の二男さんの連れ合いで琵琶奏者の神田亜矢子さん、右手にはバンドゥーラ奏者のナターシャ・グジーさんが、小椋佳さんを挟む形で陣取っていた。バンドゥーラという楽器はこれまで知らなかったが、彼女の出身国ウクライナの60弦もある民族楽器とのこと。音色は、ハープよりも金属弦を張ったアコースティックギターに近いように感じた。もっと日本でも流行ってもよいのにと思った。

 コンサートの真ん中あたりで、舞台の7人が役を分担し、小椋佳さんの歌を交えた構成劇(音楽劇というのだろうか。小椋佳さんは「お伽話」と表現していた)が行われた。婚約者が戦争で戦死した女性が、子ども服を作る事業を興したり洋裁学校を開校し、成功していくというようなストーリーだった。こんな企画は初めてで、とても新鮮だった。
170108img_4903
 いつも誰かのコンサートに行ったときは、帰りにCDを買ってしまうのだが(レンタルで借りる方が圧倒的に安いにもかかわらず)、今回も小椋佳の「自分史」という2枚組のCDのほか(一番新しい「闌」(たけなわ)というCDは売り切れてしまっていた)、小椋佳さんの熱烈なPRに応じて、ナターシャ・グジーさんの「命はいつも生きようとしてる」というCDも買い、おまけに、小椋佳の古稀の特集本まで買ってしまった。
 しばらくは、小椋佳さんとナターシャさんの余韻に浸りたい。

 小椋佳さんは1944年1月18日生まれで、昨年は72歳で申年の年男ということなので、私よりもちょうど一回り年上(正確には11年4か月年上)である。
 古稀(70歳)を迎えた2014年には「生前葬コンサート」を行ったことは話題になり、たしかNHKの音楽番組でも紹介されていたように思う。

 そんなこともあってか、小椋佳さんはコンサートの初めに「もうこれで皆さんにお会いするのは最後かもしれない」と言い、最後に「ありがとう。さようなら」を繰り返していた。もしかしたら、引退を本格的に考えておられるのだろうか。

 小椋佳さんのような方が頑張ってくれている間は日本もまだまだ捨てたものではないと思うので(あまり根拠はないが(笑))、細々とでもいいから、引退などしないで、歌い続けていってくれることを祈りたい。

 コンサート後、数年前にも行ったことのある高野の交差点を北に上ったところにある「まごころや」という居酒屋へ。掘炬燵のカウンターで、おいしい料理とアットホームな雰囲気を楽しんで、ほろ酔いで帰途についた。


         ↓   ↓   ↓  

♪ここまで読んで下さった方は・・・ワンクリックしていただけたらとっても嬉しく、励みになります。
にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ
にほんブログ村

2017年1月 5日 (木)

No.305 「過労死のない社会へ、行動を」──没後10周年を前に、北村 仁さんを偲ぶ

030403p4030028
◆はじめに
 北村仁さん(愛称“キタジン”さん)が2007年4月13日に急死してから、今年10周年を迎える。
 「十年一昔」というとおり、10年の歳月は長い。私が関わり続けている過労死家族の会でも、北村さんのことを知らない人たちが大半となった。
 そこで、少し長くなるが(このブログの文章の中で最長のものになりそうである)、10周年を前に、北村さんの事例と、過労死遺族の運動に果たした功績について書き記しておきたい。

◆北村さんの事案と民事裁判の闘い
 北村さんは、1997年(平成9年)4月に日本通運尼崎支店に契約社員として入社したが、発症前1年間で時間外労働時間1500時間、休日わずか38日という激務を余儀なくされる中で、入社2年半後の1999年(平成11年)9月23日、自宅で急性心筋梗塞を発症し、一命はとりとめたものの心臓にペースメーカーを埋め込んだ身体障害者となった(身体障害東急1級、労災後遺障害東急7級)。
050703p1010577
 北村さんは2000年(平成12年)2月、尼崎労基署に労災申請をしたが、会社はその直後に契約を更新しない旨の通知書を送りつけてきた。
 同年8月、労基署は北村さんの発症を労働災害と認定するとともに、同年12月、会社に是正勧告を行ったが、会社は業務を改善しようという姿勢さえ示さなかった。

 北村さんはこのような会社に怒りを覚えていたところ、2000年(平成12年)12月に開かれた大阪過労死家族の会10周年のつどいに参加して、家族の会に加わるとともに、私たち弁護団に民事訴訟を依頼した(弁護団は私と上出恭子、中西基弁護士)。私たちは約1年間にわたる準備(証拠保全手続を含む)を経て、2001年(平成13年)12月、会社を被告として民事訴訟を提起した。
 裁判では、長時間過重労働の実態の主張立証と、中村賢治医師に医学意見書を書いていただき医学立証に努めた。2003年(平成15年)1月28日の人証調べ期日(原告本人と元上司の尋問)には、35名もの傍聴者で法廷は埋まった。
060412p1030078
 この人証調べの後、裁判所から和解勧告があり、3月7日と4月3日の2回の和解期日で、3300万円を会社が支払うことを内容とする和解が成立した。
 当初、和解金額は3000万円とすることで和解協議は進んでいたが、北村さんが強く求めた会社の謝罪を会社が頑なに拒否したことから、裁判所の提案で300万円が上積みされて和解となったのである。
 北村さんは「この増額分の300万円は、いわばオマケのようなものなので、過労死遺族の闘いに役立ててほしい」と申し出て、このうち200万円を拠出して、過労死遺族に労災申請や民事訴訟の費用を援助する「大阪過労死家族の会 労災・裁判支援機金」(通称“アンパンマン基金”)を設立した。この基金は、これまで多くの人たちによって活用されている。
060415p1030115
◆全国の過労死遺族たちをつなげた北村さんの支援活動
 これ以降北村さんは、自分の残された人生を過労死家族の会のために捧げたといっていいだろう。①大阪過労死家族の会の事務局、②家族の会のメーリングリストの運営、③大阪家族の会のホームページの開設などを積極的に引き受けるとともに、④1997年を最後に中断していた過労死遺族の交流会を2002年から復活させ、2003年からは「夏の一泊交流会」として、全国から子どもたちも同伴して参加できる一大イベントにまとめあげた。⑤のみならず、北村さんは自ら全国を走り回って過労死遺族の闘いを支援し始めた。解決金でトヨタのプリウスを購入し、支援者や遺族たちを乗せて、東京や山梨、長野、岡山、福岡など、全国の裁判の支援にかけつけるようになったのである。北村さんのこれらの活動によって、過労死遺族たちの全国的な交流と相互支援が広がった。
061126dsc00078_2


 また、⑥実際にあった過労自殺事件をモデルにした名古屋の市民劇団「希求座」(当時)の劇「あの子が死んだ朝」の大阪公演(2006年11月)を実現する取り組みや、⑦当時導入されようとしていた(今もされようとしている)ホワイトカラーエグゼンプション(ある程度の年収のある労働者を労働時間の規制から外す制度)導入に反対する取り組みについても積極的に関わった。その中で、北村さんは、「遺族が過労死・過労自殺の悲惨さと、人間らしい働き方の大切さを訴える「語り部」として訴えること」の大切さを語っていた。

 さらに、北村さんは、労働者の立場に立った社会保険労務士になることを決意し、社労士試験の受験も始めたが、あとわずかのところでなかなか合格できなかった。
 北村さんは、新しい過労死遺族の支援を訴えたとき、自ら涙を抑えきれず嗚咽しながら訴えたこともあった。忘年会の二次会などで歌うカラオケは、「島人ぬ宝」や「島唄」など沖縄の歌が多かったように記憶している。まるで父親のように時には厳しく、時には優しく、人に寄り添える人だった。

◆北村さんの“遺言”となった歴史的文書
 そんな北村さんは、2007年2月、次のような一文を書いている。


    「過労死のない社会へ、行動を」─新しい段階を迎えた過労死家族の会の活動

                             大阪過労死を考える家族の会事務局 北村 仁
061220p1040309
1 はじめに
 「大阪過労死を考える家族の会」(以下、家族の会)が結成されたのは、1990年12月8日のことで、この12月8日は日本が、第二次世界大戦に突入した「真珠湾攻撃」の日です。労働現場が「戦場」化しつつあった当時、企業において戦死者をこれ以上出さないようにという遺族の願いで、この日に結成されたと、結成当時からの会員から聞きました。その願いも虚しく、現在の労働現場は、完全に「戦場」となっています。
 私自身は、2000年12月9日の、家族の会結成10周年「過労死を考える集い」からの参加になりますので、結成当時の事は、当時の資料あるいは結成当時から活動している遺族の方々から聞いて知っている範囲です。

 私も、働き過ぎによって命を落とすということについては無知であり、「よく働き、よく遊ぶ」ことを、男の美学と感じておりました。しかし、1999年9月23日深夜、急性心筋梗塞を発症し、生死の淵をさまようことで、人間は働き過ぎたら死ぬのだということを初めて思い知らされました。労災申請して認定された後、大阪過労死問題連絡会の先生に相談し、民事裁判を受任していただいてから、家族の会の仲間に加わり、存命の私が遺族の方々に励まされ、企業責任を問い、一定の成果を出すことが出来ました。その後、家族の会の世話人兼事務局員という形で、深く家族の会と関わるようになり、今では私のライフワークとなっています。

2 家族の会の活動の目的
 家族の会の目的として、下記の4つのことが規約で定められています。
(1) 本会は過労で倒れた本人とその家族或いは遺族の為に、労・公災認定の早期実現を目指すと共に、労・公災補償の改善と民事賠償に取り組む。
(2) 被災者の遺・家族及び被災者及び過労死に関心のある団体・個人とが手を結び、過労死の問題を広く社会にアピールしていく。
(3) 過労死の発生する社会的背景について、企業及び監督官庁の健康・安全管理等の問題点を明らかにし、過労死発生の予防に取り組む。
(4) 「家族」相互の情報交換を密にし、支え合い励まし合って連帯の輪を広げていく。
 以上の4点を柱に、実際の活動内容を要約すると「認定、裁判支援・認定基準、訴訟知識の学習・遺族及び支援者との交流・社会、行政へのアピール発信」等を、行っています。

3 学び合い、励まし合う交流の広がり
 1990年の結成からの10年間は、労災認定が非常に難しい10年間でした。この間の苦しい活動を通じて「過労死」という問題について広く社会に認知させ、2001年12月12日に「新・認定基準」に改定させるという大きな成果を得ることが出来ました。この認定基準の改定により、更に多くの遺族が救済されるようになりました。
 しかし、この頃から「過労死」に加え「過労自死」事案が急激に増えてきました。更に、結成当時は主に40歳後半か50歳代が中心であった被災者が、若い世代(20・30歳代)においても増大し、幼い子供を抱えた遺族、究極にはお父さんに抱かれたことがない遺児まで作ってしまうような時代になったのでした。毎月1回定期的に行っている家族の会例会にも、続々と若い遺族が加わるようになりました。
 
1997年で途切れていた遺族の交流会も2002年6月8日に大阪中央区の宿泊施設において「一泊学習交流会」という形で復活させ、2003年度の東大阪市で開かれた一泊学習交流会からは子供同伴可能の交流会になりました。大阪家族の会員以外の地域の遺族にも呼びかけ毎年約60名を越す参加者で恒例行事に位置づけられ、翌2004年度からは奈良県桜井市の国民年金保養所「大和路」に会場を移し現在に至っています。遠くは新潟・群馬・福岡他全国各地からも多くの遺族が参加されるようになり、交流は深夜に及びます。

 昨年(2006年)の交流会では、1日目に東京から過労死問題の第一人者の上畑鉄之丞先生を講師にお招きして学習を、2日目は「過労死グループ」と「過労自死グループ」と2グループに分け、アドバイザーの弁護士・医師・支援者の方々にも加わっていただき、グループミーティングを初めて行い、好評を得ることが出来ました。

 時代の流れも、アナログからデジタル時代に突入し、若い世代を中心に家族の会の情報をインターネットにより求めるようになって来ました。岩城先生からの勧めで、ホームページを作成することになり、講習に出かけ初心者の私が拙いホームページを立ち上げて早3年が過ぎました。ホームページからの相談に、大阪過労死問題連絡会の先生方に協力・支援を仰ぎ、過労死の認定を得ることが出来た方からの嬉しい報告が届いた時は、ホームページを立ち上げて本当に良かったと嬉しさがこみ上げてきました。大阪過労死を考えるホームページは、大阪過労死問題連絡会のホームページと共に、全国の遺族の駆け込み寺になっています。更に、過労死家族のメーリングリストも全国の過労死遺族の重要な交流の場になっています。

 2003年6月28日には、大阪過労死を考える家族の会労災・裁判支援基金を設立しました。賛同していただいた方からの浄財カンパで運用し、認定闘争に必要な資金支援の体制も出来上がりました。
070217sany0271
4 過労死・過労自死をなくすために行動する会へ
 過労死の認定基準が緩和されてきたといっても、まだまだ認定されないケースがたくさんあります。また過労自死の認定基準は実態に合わず、多くの過労自死遺族が涙を飲んでいます。これを打開するには、認定基準やその運用の改善がどうしても必要です。
 また、そのような改善を勝ち取るには、過労死・過労自死に対する世間の理解をもっともっと広げる必要があります。

 そこで、認定や勝訴を勝ち取り自分の事件が終わった遺族も一緒になって、認定基準やその運用の改善を求め、また世間に広く過労死・過労自死をなくそうと訴える活動に、会として取り組み始めました。
 毎年11月に全国家族の会として行っている厚生労働省交渉には、大阪を含め全国で闘っている多くの遺族が参加し、厚労省の担当者に直接訴えをしています。
 また、2003年からは年に数回、「過労死110番」の実施に合わせ、遺族が街頭に立ちマイクを握り、過労死のない社会の実現を目指し、遺族の体験を通行人に呼びかける活動を行うようになりました。
 2006年11月24・25日に上演した劇「あの子が死んだ朝」実行委員会の活動においても、遺族が広告塔となり色々な団体に過労死・過労自死について訴えに行き、取り組みの成功に大きな役割を果たしました。
 さらに、今導入されようとしているホワイトカラーエグゼンプションは「過労死促進法」であり、これが導入されると過労死・過労自死がますます増え、また倒れても本人の自己責任とされ労災認定も難しくなるといわれていることから、過労死遺族の中でも大きな不安と反対の声が広がっています。2006年11月22日には全国過労死を考える家族の会総会において緊急アピールを発し、また大阪でも、「働き方を考える大阪ネット」に結成準備から関わり、遺族がリレートークに積極的に加わるなど、過労死・過労自殺の悲惨さと、人間らしい働き方の大切さを訴える「語り部」としての活動を行っています。

 このように、過労死・過労自死の無い社会の実現を目指す活動の中心に遺族が主体的に活動に参加するようになったのは、大きな前進であると誇らしく思っています。遺族でなければ訴えられないことを、率先して主体的に遺族が訴え、過労死撲滅の先鋒として社会にメッセージを発することが出来る団体に成熟してきたと感じています。

5 家族の会へのいっそうのご支援を
 結成以来16年間の遺族の頑張りで、大きな成果を得てきましたが全員が救済されるということはありません。裁判闘争で勝ち取った判決を積み上げ、近年増加の一途である自死事案の認定基準、労働実態に合致した過労死認定基準の改定へと前進しなければなりません。
 結成当時の初心に戻り、『過労死撲滅』に向け更に前進すると共に、遺族のネットワークを密にし、共通の悲しみを持つ仲間の集団として「運動」+「癒し」が共存できる家族の会でなければならないと私は考えています。
 今後とも皆様からの、あたたかいご支援をお願い致します。
                    (民主法律268号・2007年2月より)


070416sany0013
◆北村さんの急死
 ところが、上記の文書を書いたわずか2か月後の2007年(平成19年)4月13日、北村さんは入院して検査を受けていた病院で突然心筋梗塞を発症して亡くなってしまったのである。周囲の私たちはもちろん、当の本人さえ、まったく予想だにしていないことであった。
070415sany0028
 たまたまこの日お見舞いに行こうとしていた寺西笑子さんたち5人と、訃報を聞いてかけつけた私たち4人は言葉にならないほどの衝撃を受けたが、北村さんには交流のある親族がおられなかったことから、寺西さんが「喪主代行」となって、いわば「家族の会葬」を行うことになったのである。

 4月15日の通夜と4月16日の告別式には、全国から実に約140人もの人たちが駆けつけた。お通夜では北村さんの柩の傍で、夜を徹して北村さんの死を悼み、思い出を語り合った。
070415p1040589
 北村さんが生前、「自分は大阪で人間として生まれ変わったので、大阪に骨を埋めたい」と話すのを聞いた遺族がいたことから、お骨は分骨し、4月13日に本骨を故郷の三重県尾鷲市にある実家のお墓に納骨し、分骨は6月6日、大阪の四天王寺に納骨する式を執り行った。

 ここでも、これまで親族以外の他人が「施主」になる例がなかったとのことで、当日お寺側と相当揉めたとのことである(当日私は出席できなかったが、松丸正弁護士が大活躍したと聞いている)。少し大げさに言えば、四天王寺開びゃく1300年の歴史の中で初めて、親族でない他の過労死遺族が施主になって、分骨の納骨が実現したのである。
070416sany0034
◆亡くなる直前に取材を受け、亡くなった後に出版された本で紹介
 北村さんは、経済ジャーナリストの岸宣仁氏から取材を受けていて、北村さんが亡くなった3か月半後に「職場砂漠 働きすぎの時代の悲劇」(朝日新書、2007年7月30日第1刷発行)が出版された。
 その中の「「OB」たちが支える全国家族の会」という見出しの文章の中で、北村さんについて次のように記述されている。

Photo
(前略)
 鈴木会長(注、当時全国家族の会の会長であった鈴木美穂さんのこと)は名古屋の会の出身だが、メンバーが多いのは大阪と東京だ。なかでも大阪の活発な活動はつとに知られている。月1回の例会や各家族の裁判の傍聴支援、過労死・過労自殺・サービス残業110番の街頭宣伝活動への参加、年1回の泊まりがけの「一泊学習交流会」‥‥。大阪家族の会で事務局を担当していた北村仁(58歳、07年4月に急死)は生前、こう話していた。
 「小さな子供を抱えた奥さんが労災申請する場合は、まず生活の心配をする必要が出てきます。遺族年金だけだと金額が少ないですから。そういう場合は一発認定を取るために、専門家らの意見を聞いて行動しなければなりません。見ていると、とっかかりでミスしている人がいるので、そういう人に適切にアドバイスするのが家族の会の役割になってきます」
 北村は、自身が日本通運でドライバーをしていて、働きすぎで心筋梗塞を発症した経験の持ち主だった。ペースメーカーをつけているため再就職は無理。「それで時間があるので、会の活動にのめりこんでいった」と謙遜していたが、自身の体験でアドバイスできることがあれば、困っている人にその知恵を伝えたいと思っていたのだろう。
 各地の家族の会で中心メンバーになっているのは、北村のような人たちがほとんどだ。自分の闘いは終わり、労災認定や裁判勝訴の経験を持つ「OB」とでも呼んでいい人たちである。(以下略)

 著者の岸氏は、北村さんの急死を知って、驚いていたという。
090411p1070038
◆北村さん没後の10年を振り返って
 そんな北村さんが亡くなってから、10年が経とうとしている。
 北村さんの上記の「行動文書」は、まるで残された私たちへの遺言のように思われた。
 厚労省交渉など過労死家族の会の活動が全国で力強く広がり、全国的な交流も進んだ。
 2009年11月には寺西笑子さんが原告となって「過労死を出した企業名の公表を求める訴訟」を提起した(地裁では勝訴するも高裁・最高裁で敗訴)。

 更に2010年(平成22年)10月、全国過労死家族の会が主催して「過労死防止基本法の制定を求める院内集会」を行い、これを受けて2011年(平成23年)11月、「ストップ!過労死 過労死防止法制定実行委員会」を結成した。その後55万を超える署名、143に及ぶ地方自治体の意見書採択などの大運動を経て、ついに2014年(平成24年)6月、衆参両院の全員一致で「過労死等防止対策推進法」が可決・成立、同年11月に施行されたことは、周知のとおりである。
 その後、過労死防止大綱が制定され、先日は初めての過労死白書が発表された。全国のほとんどの都道府県で国主催の過労死防止シンポジウムが行われ、高校や大学での過労死防止の啓発授業が本格的に行われようとしている。
 そして、北村さんの死後、各地に新しい「家族の会」がいくつも結成されている。

 私は、この10年を振り返り、北村さんが広げようとした運動を全国の遺族たちが受け継いで発展させ、今の到達点があることを、改めて強く思う。
 ただ、その一方で、もし北村さんが生きて、この運動を一緒にやることができたら、今どんなに喜んでいるだろうと思うと、未だに悲しみと悔しさを振り払うことができないのである。

 ※写真は、上から順に、
 ①民事訴訟で和解が成立した日に(北村さん、上出恭子弁護士と私)(2003・4・3)
 ②大阪家族の会の一泊交流会で裏方を務める北村さん(2005・7・3)
 ③福岡地裁での金谷さん行政訴訟勝訴の日に(2006・4・12)
 ④和歌山の上田さんの勝利祝賀会の二次会にて(2006・4・15)
 ⑤名古屋の劇団希求座の劇「あの子が死んだ朝」の打ち上げ会にて(北村さんは最前列左端)(2006・11・26)
 ⑥大阪家族の会の忘年会で発言する北村さん(2006・12・20)
 ⑦民主法律協会主催「2007年権利討論集会」の懇親会にて(隣は寺西笑子さん)(2007・2・17)
 ⑧北村さんのお葬式の祭壇(2007・4・15)
 ⑨お通夜に駆けつけた人たち(2007・4・15)
 ⑩北村さんの柩(向かって奥)の傍で語り合う参列者たち(2007・4・15)
 ⑪告別式で挨拶をする私と寺西笑子さん(2007・4・16)
 ⑫北村さんが紹介された「職場砂漠」(岸 宣仁著・朝日新書)
 ⑬北村さんの三回忌にて(四天王寺)(2009・4・11)

         ↓   ↓   ↓  

♪ここまで読んで下さった方は・・・ワンクリックしていただけたらとっても嬉しく、励みになります。
にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ
にほんブログ村

« 2016年12月 | トップページ | 2017年2月 »

無料ブログはココログ