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2017年1月 5日 (木)

No.305 「過労死のない社会へ、行動を」──没後10周年を前に、北村 仁さんを偲ぶ

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◆はじめに
 北村仁さん(愛称“キタジン”さん)が2007年4月13日に急死してから、今年10周年を迎える。
 「十年一昔」というとおり、10年の歳月は長い。私が関わり続けている過労死家族の会でも、北村さんのことを知らない人たちが大半となった。
 そこで、少し長くなるが(このブログの文章の中で最長のものになりそうである)、10周年を前に、北村さんの事例と、過労死遺族の運動に果たした功績について書き記しておきたい。

◆北村さんの事案と民事裁判の闘い
 北村さんは、1997年(平成9年)4月に日本通運尼崎支店に契約社員として入社したが、発症前1年間で時間外労働時間1500時間、休日わずか38日という激務を余儀なくされる中で、入社2年半後の1999年(平成11年)9月23日、自宅で急性心筋梗塞を発症し、一命はとりとめたものの心臓にペースメーカーを埋め込んだ身体障害者となった(身体障害東急1級、労災後遺障害東急7級)。
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 北村さんは2000年(平成12年)2月、尼崎労基署に労災申請をしたが、会社はその直後に契約を更新しない旨の通知書を送りつけてきた。
 同年8月、労基署は北村さんの発症を労働災害と認定するとともに、同年12月、会社に是正勧告を行ったが、会社は業務を改善しようという姿勢さえ示さなかった。

 北村さんはこのような会社に怒りを覚えていたところ、2000年(平成12年)12月に開かれた大阪過労死家族の会10周年のつどいに参加して、家族の会に加わるとともに、私たち弁護団に民事訴訟を依頼した(弁護団は私と上出恭子、中西基弁護士)。私たちは約1年間にわたる準備(証拠保全手続を含む)を経て、2001年(平成13年)12月、会社を被告として民事訴訟を提起した。
 裁判では、長時間過重労働の実態の主張立証と、中村賢治医師に医学意見書を書いていただき医学立証に努めた。2003年(平成15年)1月28日の人証調べ期日(原告本人と元上司の尋問)には、35名もの傍聴者で法廷は埋まった。
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 この人証調べの後、裁判所から和解勧告があり、3月7日と4月3日の2回の和解期日で、3300万円を会社が支払うことを内容とする和解が成立した。
 当初、和解金額は3000万円とすることで和解協議は進んでいたが、北村さんが強く求めた会社の謝罪を会社が頑なに拒否したことから、裁判所の提案で300万円が上積みされて和解となったのである。
 北村さんは「この増額分の300万円は、いわばオマケのようなものなので、過労死遺族の闘いに役立ててほしい」と申し出て、このうち200万円を拠出して、過労死遺族に労災申請や民事訴訟の費用を援助する「大阪過労死家族の会 労災・裁判支援機金」(通称“アンパンマン基金”)を設立した。この基金は、これまで多くの人たちによって活用されている。
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◆全国の過労死遺族たちをつなげた北村さんの支援活動
 これ以降北村さんは、自分の残された人生を過労死家族の会のために捧げたといっていいだろう。①大阪過労死家族の会の事務局、②家族の会のメーリングリストの運営、③大阪家族の会のホームページの開設などを積極的に引き受けるとともに、④1997年を最後に中断していた過労死遺族の交流会を2002年から復活させ、2003年からは「夏の一泊交流会」として、全国から子どもたちも同伴して参加できる一大イベントにまとめあげた。⑤のみならず、北村さんは自ら全国を走り回って過労死遺族の闘いを支援し始めた。解決金でトヨタのプリウスを購入し、支援者や遺族たちを乗せて、東京や山梨、長野、岡山、福岡など、全国の裁判の支援にかけつけるようになったのである。北村さんのこれらの活動によって、過労死遺族たちの全国的な交流と相互支援が広がった。
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 また、⑥実際にあった過労自殺事件をモデルにした名古屋の市民劇団「希求座」(当時)の劇「あの子が死んだ朝」の大阪公演(2006年11月)を実現する取り組みや、⑦当時導入されようとしていた(今もされようとしている)ホワイトカラーエグゼンプション(ある程度の年収のある労働者を労働時間の規制から外す制度)導入に反対する取り組みについても積極的に関わった。その中で、北村さんは、「遺族が過労死・過労自殺の悲惨さと、人間らしい働き方の大切さを訴える「語り部」として訴えること」の大切さを語っていた。

 さらに、北村さんは、労働者の立場に立った社会保険労務士になることを決意し、社労士試験の受験も始めたが、あとわずかのところでなかなか合格できなかった。
 北村さんは、新しい過労死遺族の支援を訴えたとき、自ら涙を抑えきれず嗚咽しながら訴えたこともあった。忘年会の二次会などで歌うカラオケは、「島人ぬ宝」や「島唄」など沖縄の歌が多かったように記憶している。まるで父親のように時には厳しく、時には優しく、人に寄り添える人だった。

◆北村さんの“遺言”となった歴史的文書
 そんな北村さんは、2007年2月、次のような一文を書いている。


    「過労死のない社会へ、行動を」─新しい段階を迎えた過労死家族の会の活動

                             大阪過労死を考える家族の会事務局 北村 仁
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1 はじめに
 「大阪過労死を考える家族の会」(以下、家族の会)が結成されたのは、1990年12月8日のことで、この12月8日は日本が、第二次世界大戦に突入した「真珠湾攻撃」の日です。労働現場が「戦場」化しつつあった当時、企業において戦死者をこれ以上出さないようにという遺族の願いで、この日に結成されたと、結成当時からの会員から聞きました。その願いも虚しく、現在の労働現場は、完全に「戦場」となっています。
 私自身は、2000年12月9日の、家族の会結成10周年「過労死を考える集い」からの参加になりますので、結成当時の事は、当時の資料あるいは結成当時から活動している遺族の方々から聞いて知っている範囲です。

 私も、働き過ぎによって命を落とすということについては無知であり、「よく働き、よく遊ぶ」ことを、男の美学と感じておりました。しかし、1999年9月23日深夜、急性心筋梗塞を発症し、生死の淵をさまようことで、人間は働き過ぎたら死ぬのだということを初めて思い知らされました。労災申請して認定された後、大阪過労死問題連絡会の先生に相談し、民事裁判を受任していただいてから、家族の会の仲間に加わり、存命の私が遺族の方々に励まされ、企業責任を問い、一定の成果を出すことが出来ました。その後、家族の会の世話人兼事務局員という形で、深く家族の会と関わるようになり、今では私のライフワークとなっています。

2 家族の会の活動の目的
 家族の会の目的として、下記の4つのことが規約で定められています。
(1) 本会は過労で倒れた本人とその家族或いは遺族の為に、労・公災認定の早期実現を目指すと共に、労・公災補償の改善と民事賠償に取り組む。
(2) 被災者の遺・家族及び被災者及び過労死に関心のある団体・個人とが手を結び、過労死の問題を広く社会にアピールしていく。
(3) 過労死の発生する社会的背景について、企業及び監督官庁の健康・安全管理等の問題点を明らかにし、過労死発生の予防に取り組む。
(4) 「家族」相互の情報交換を密にし、支え合い励まし合って連帯の輪を広げていく。
 以上の4点を柱に、実際の活動内容を要約すると「認定、裁判支援・認定基準、訴訟知識の学習・遺族及び支援者との交流・社会、行政へのアピール発信」等を、行っています。

3 学び合い、励まし合う交流の広がり
 1990年の結成からの10年間は、労災認定が非常に難しい10年間でした。この間の苦しい活動を通じて「過労死」という問題について広く社会に認知させ、2001年12月12日に「新・認定基準」に改定させるという大きな成果を得ることが出来ました。この認定基準の改定により、更に多くの遺族が救済されるようになりました。
 しかし、この頃から「過労死」に加え「過労自死」事案が急激に増えてきました。更に、結成当時は主に40歳後半か50歳代が中心であった被災者が、若い世代(20・30歳代)においても増大し、幼い子供を抱えた遺族、究極にはお父さんに抱かれたことがない遺児まで作ってしまうような時代になったのでした。毎月1回定期的に行っている家族の会例会にも、続々と若い遺族が加わるようになりました。
 
1997年で途切れていた遺族の交流会も2002年6月8日に大阪中央区の宿泊施設において「一泊学習交流会」という形で復活させ、2003年度の東大阪市で開かれた一泊学習交流会からは子供同伴可能の交流会になりました。大阪家族の会員以外の地域の遺族にも呼びかけ毎年約60名を越す参加者で恒例行事に位置づけられ、翌2004年度からは奈良県桜井市の国民年金保養所「大和路」に会場を移し現在に至っています。遠くは新潟・群馬・福岡他全国各地からも多くの遺族が参加されるようになり、交流は深夜に及びます。

 昨年(2006年)の交流会では、1日目に東京から過労死問題の第一人者の上畑鉄之丞先生を講師にお招きして学習を、2日目は「過労死グループ」と「過労自死グループ」と2グループに分け、アドバイザーの弁護士・医師・支援者の方々にも加わっていただき、グループミーティングを初めて行い、好評を得ることが出来ました。

 時代の流れも、アナログからデジタル時代に突入し、若い世代を中心に家族の会の情報をインターネットにより求めるようになって来ました。岩城先生からの勧めで、ホームページを作成することになり、講習に出かけ初心者の私が拙いホームページを立ち上げて早3年が過ぎました。ホームページからの相談に、大阪過労死問題連絡会の先生方に協力・支援を仰ぎ、過労死の認定を得ることが出来た方からの嬉しい報告が届いた時は、ホームページを立ち上げて本当に良かったと嬉しさがこみ上げてきました。大阪過労死を考えるホームページは、大阪過労死問題連絡会のホームページと共に、全国の遺族の駆け込み寺になっています。更に、過労死家族のメーリングリストも全国の過労死遺族の重要な交流の場になっています。

 2003年6月28日には、大阪過労死を考える家族の会労災・裁判支援基金を設立しました。賛同していただいた方からの浄財カンパで運用し、認定闘争に必要な資金支援の体制も出来上がりました。
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4 過労死・過労自死をなくすために行動する会へ
 過労死の認定基準が緩和されてきたといっても、まだまだ認定されないケースがたくさんあります。また過労自死の認定基準は実態に合わず、多くの過労自死遺族が涙を飲んでいます。これを打開するには、認定基準やその運用の改善がどうしても必要です。
 また、そのような改善を勝ち取るには、過労死・過労自死に対する世間の理解をもっともっと広げる必要があります。

 そこで、認定や勝訴を勝ち取り自分の事件が終わった遺族も一緒になって、認定基準やその運用の改善を求め、また世間に広く過労死・過労自死をなくそうと訴える活動に、会として取り組み始めました。
 毎年11月に全国家族の会として行っている厚生労働省交渉には、大阪を含め全国で闘っている多くの遺族が参加し、厚労省の担当者に直接訴えをしています。
 また、2003年からは年に数回、「過労死110番」の実施に合わせ、遺族が街頭に立ちマイクを握り、過労死のない社会の実現を目指し、遺族の体験を通行人に呼びかける活動を行うようになりました。
 2006年11月24・25日に上演した劇「あの子が死んだ朝」実行委員会の活動においても、遺族が広告塔となり色々な団体に過労死・過労自死について訴えに行き、取り組みの成功に大きな役割を果たしました。
 さらに、今導入されようとしているホワイトカラーエグゼンプションは「過労死促進法」であり、これが導入されると過労死・過労自死がますます増え、また倒れても本人の自己責任とされ労災認定も難しくなるといわれていることから、過労死遺族の中でも大きな不安と反対の声が広がっています。2006年11月22日には全国過労死を考える家族の会総会において緊急アピールを発し、また大阪でも、「働き方を考える大阪ネット」に結成準備から関わり、遺族がリレートークに積極的に加わるなど、過労死・過労自殺の悲惨さと、人間らしい働き方の大切さを訴える「語り部」としての活動を行っています。

 このように、過労死・過労自死の無い社会の実現を目指す活動の中心に遺族が主体的に活動に参加するようになったのは、大きな前進であると誇らしく思っています。遺族でなければ訴えられないことを、率先して主体的に遺族が訴え、過労死撲滅の先鋒として社会にメッセージを発することが出来る団体に成熟してきたと感じています。

5 家族の会へのいっそうのご支援を
 結成以来16年間の遺族の頑張りで、大きな成果を得てきましたが全員が救済されるということはありません。裁判闘争で勝ち取った判決を積み上げ、近年増加の一途である自死事案の認定基準、労働実態に合致した過労死認定基準の改定へと前進しなければなりません。
 結成当時の初心に戻り、『過労死撲滅』に向け更に前進すると共に、遺族のネットワークを密にし、共通の悲しみを持つ仲間の集団として「運動」+「癒し」が共存できる家族の会でなければならないと私は考えています。
 今後とも皆様からの、あたたかいご支援をお願い致します。
                    (民主法律268号・2007年2月より)


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◆北村さんの急死
 ところが、上記の文書を書いたわずか2か月後の2007年(平成19年)4月13日、北村さんは入院して検査を受けていた病院で突然心筋梗塞を発症して亡くなってしまったのである。周囲の私たちはもちろん、当の本人さえ、まったく予想だにしていないことであった。
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 たまたまこの日お見舞いに行こうとしていた寺西笑子さんたち5人と、訃報を聞いてかけつけた私たち4人は言葉にならないほどの衝撃を受けたが、北村さんには交流のある親族がおられなかったことから、寺西さんが「喪主代行」となって、いわば「家族の会葬」を行うことになったのである。

 4月15日の通夜と4月16日の告別式には、全国から実に約140人もの人たちが駆けつけた。お通夜では北村さんの柩の傍で、夜を徹して北村さんの死を悼み、思い出を語り合った。
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 北村さんが生前、「自分は大阪で人間として生まれ変わったので、大阪に骨を埋めたい」と話すのを聞いた遺族がいたことから、お骨は分骨し、4月13日に本骨を故郷の三重県尾鷲市にある実家のお墓に納骨し、分骨は6月6日、大阪の四天王寺に納骨する式を執り行った。

 ここでも、これまで親族以外の他人が「施主」になる例がなかったとのことで、当日お寺側と相当揉めたとのことである(当日私は出席できなかったが、松丸正弁護士が大活躍したと聞いている)。少し大げさに言えば、四天王寺開びゃく1300年の歴史の中で初めて、親族でない他の過労死遺族が施主になって、分骨の納骨が実現したのである。
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◆亡くなる直前に取材を受け、亡くなった後に出版された本で紹介
 北村さんは、経済ジャーナリストの岸宣仁氏から取材を受けていて、北村さんが亡くなった3か月半後に「職場砂漠 働きすぎの時代の悲劇」(朝日新書、2007年7月30日第1刷発行)が出版された。
 その中の「「OB」たちが支える全国家族の会」という見出しの文章の中で、北村さんについて次のように記述されている。

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(前略)
 鈴木会長(注、当時全国家族の会の会長であった鈴木美穂さんのこと)は名古屋の会の出身だが、メンバーが多いのは大阪と東京だ。なかでも大阪の活発な活動はつとに知られている。月1回の例会や各家族の裁判の傍聴支援、過労死・過労自殺・サービス残業110番の街頭宣伝活動への参加、年1回の泊まりがけの「一泊学習交流会」‥‥。大阪家族の会で事務局を担当していた北村仁(58歳、07年4月に急死)は生前、こう話していた。
 「小さな子供を抱えた奥さんが労災申請する場合は、まず生活の心配をする必要が出てきます。遺族年金だけだと金額が少ないですから。そういう場合は一発認定を取るために、専門家らの意見を聞いて行動しなければなりません。見ていると、とっかかりでミスしている人がいるので、そういう人に適切にアドバイスするのが家族の会の役割になってきます」
 北村は、自身が日本通運でドライバーをしていて、働きすぎで心筋梗塞を発症した経験の持ち主だった。ペースメーカーをつけているため再就職は無理。「それで時間があるので、会の活動にのめりこんでいった」と謙遜していたが、自身の体験でアドバイスできることがあれば、困っている人にその知恵を伝えたいと思っていたのだろう。
 各地の家族の会で中心メンバーになっているのは、北村のような人たちがほとんどだ。自分の闘いは終わり、労災認定や裁判勝訴の経験を持つ「OB」とでも呼んでいい人たちである。(以下略)

 著者の岸氏は、北村さんの急死を知って、驚いていたという。
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◆北村さん没後の10年を振り返って
 そんな北村さんが亡くなってから、10年が経とうとしている。
 北村さんの上記の「行動文書」は、まるで残された私たちへの遺言のように思われた。
 厚労省交渉など過労死家族の会の活動が全国で力強く広がり、全国的な交流も進んだ。
 2009年11月には寺西笑子さんが原告となって「過労死を出した企業名の公表を求める訴訟」を提起した(地裁では勝訴するも高裁・最高裁で敗訴)。

 更に2010年(平成22年)10月、全国過労死家族の会が主催して「過労死防止基本法の制定を求める院内集会」を行い、これを受けて2011年(平成23年)11月、「ストップ!過労死 過労死防止法制定実行委員会」を結成した。その後55万を超える署名、143に及ぶ地方自治体の意見書採択などの大運動を経て、ついに2014年(平成24年)6月、衆参両院の全員一致で「過労死等防止対策推進法」が可決・成立、同年11月に施行されたことは、周知のとおりである。
 その後、過労死防止大綱が制定され、先日は初めての過労死白書が発表された。全国のほとんどの都道府県で国主催の過労死防止シンポジウムが行われ、高校や大学での過労死防止の啓発授業が本格的に行われようとしている。
 そして、北村さんの死後、各地に新しい「家族の会」がいくつも結成されている。

 私は、この10年を振り返り、北村さんが広げようとした運動を全国の遺族たちが受け継いで発展させ、今の到達点があることを、改めて強く思う。
 ただ、その一方で、もし北村さんが生きて、この運動を一緒にやることができたら、今どんなに喜んでいるだろうと思うと、未だに悲しみと悔しさを振り払うことができないのである。

 ※写真は、上から順に、
 ①民事訴訟で和解が成立した日に(北村さん、上出恭子弁護士と私)(2003・4・3)
 ②大阪家族の会の一泊交流会で裏方を務める北村さん(2005・7・3)
 ③福岡地裁での金谷さん行政訴訟勝訴の日に(2006・4・12)
 ④和歌山の上田さんの勝利祝賀会の二次会にて(2006・4・15)
 ⑤名古屋の劇団希求座の劇「あの子が死んだ朝」の打ち上げ会にて(北村さんは最前列左端)(2006・11・26)
 ⑥大阪家族の会の忘年会で発言する北村さん(2006・12・20)
 ⑦民主法律協会主催「2007年権利討論集会」の懇親会にて(隣は寺西笑子さん)(2007・2・17)
 ⑧北村さんのお葬式の祭壇(2007・4・15)
 ⑨お通夜に駆けつけた人たち(2007・4・15)
 ⑩北村さんの柩(向かって奥)の傍で語り合う参列者たち(2007・4・15)
 ⑪告別式で挨拶をする私と寺西笑子さん(2007・4・16)
 ⑫北村さんが紹介された「職場砂漠」(岸 宣仁著・朝日新書)
 ⑬北村さんの三回忌にて(四天王寺)(2009・4・11)

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コメント

北村さんの追悼文章ありがとうございます。先日の遺児会でも北村さんの事をご紹介させて頂きました。遺児交流会の基礎を築いて下さった方です。遺児達のお父さんでした。今回の遺児交流会を見てほしかった。でも、きっと笑顔で、お父さん達と見守って下さっていると思います。ありがとう、北村さん(^。^)子ども達は元気に育っています。

2005年の夏の交流会に1回だけ参加した時に初めて北村仁さんとお会いしました。岩城先生がお書きになっているように、ご自分も働き過ぎの被害者なのに、一生懸命他の遺族の方を鼓舞されたり、遠方の裁判の傍聴にも積極的になさっておられました。私は九州ですが、当時金谷さんのご主人さまの裁判でも数回お会いしました。
私は2006年に夫の労災が審査会で認められました。翌年2007年息子の大学合格後の4月でした。忘れもしません。息子が私に来ているパソコンのメールの題名を見て、「お母さん、ショックなメールが来ているよ」と言いました。
ちょうどそのころから大病の後遺症に苦しむようになった私は熱のある頭でパソコンを見ました。熱も吹き飛ぶような「北村さんご逝去」の報に接し、愕然としました。その時もですが、この世の無常と無情と理不尽さを感じました。体調は優れず、2か月の咳も止まらなかったのはショックが大きかったからです。
北村さんのお人柄と人を癒してくださったあの笑顔は忘れられません。私は無力でしたから何もできなかったのは無念でした。ご冥福を祈ることだけしかできませんでした。
お会いしてから2年も経たないうちに、二度とお会いできなくなるとは夢にも思わなかったです。それからでしょうか、自分の持病も悪化の一途を辿り、今はほとんど遠出ができなくなったせいか、人さまとお会いする時は「一期一会」と思うようになりました。北村さんのお墓参りも法事にも参加できなくて申し訳ありません。

当時北村さんが仰っていた言葉が忘れられません。「東京の中原さんと長野の犬養さんの事案は認められなければおかしい!」
後に中原さんのご主人さまと犬養さんのご主人さまの事案、両方とも認められましたと北村さんに、心の中で報告しました。

岩城先生にも随分御無沙汰しておりますが、北村さんのことを思い出させてくださり、ありがとうございました。何のお役にも立てない、ただ生きているだけの私ですが、北村仁さんは私の心の中では生きておられます。
岩城先生におかれましてはお身体ご自愛くださり、益々のご活躍をお祈りしています。

◆渡辺しのぶ さん
 コメントありがとうございます。
このように、北村さんのことを共有しあえる人がいてくれて、とても嬉しいです。
 もう北村さんのことを知らない人も多くなっているので、このような長文を書いて公表することに、少しためらいもあったのですが、頑張って書いてよかったです。
 遺児交流会でも、北村さんのことを紹介してくださったとのこと、ありがとうございます。子ども好きだった北村さんも、きっと喜んでいることでしょう。

◆土屋悦子 さん
 お久しぶりです。コメントありがとうございます。
 今回の投稿で紹介した写真に、土屋さんも写っておられますね(どの写真かはあえて申しませんが(笑))。ちょっと気にしながらアップしたのですが、よろしかったでしょうか。
 その後も、いろいろなことがおありだったのですね。
 でも、このような形で北村さんの思い出を温め合うことができてよかったです。
 またお会いできる機会を、楽しみにしています。

 キタジン(ニックネーム)さんは、岩城弁護士の事務所でお会いして知り合いました。大阪家族の会では「夏の一泊学習会」のスタート、アンパンマン資金設立、全国の家族の会では、メールと自家用車を通じて、全国にご尽力されてました。
 ご自身では、「社会労務保険士」の資格を獲得しようと努力されておられ、彼の車で「岡山家族の会」の忘年会へ、私が東京勤務の時には中原さん達と一緒に食事をしました。いろいろな思い出があります。
 彼の冥福を祈りながら、彼の遺志を継続して、少しでも努力していかねばと再認識しております。

◆ウジサト様
 コメントありがとうございます。
 おっしゃるように、いろいろな思い出がありますね。
 今、このように北村さんのことを思い出して偲ぶことで、北村さんも喜んでいると思います。

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