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2017年4月の2件の記事

2017年4月18日 (火)

No.318 事務所開設2周年に思いがけず届いた「お祝い」──土川事件の闘いを振り返る

 事務所を開設して丸2年が過ぎた4月18日、予期せぬ「事務所開設のお祝い」が届いた。送り主は、土川純一さん・慶子さんご夫妻だった。
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 土川さんご夫妻の娘さんの由子さんは、中学時代は美術部、高校時代はモダンクラフト科に所属し、専門学校の編集デザイン科で3年間学ぶ中で、デザイナーの道を歩むことを決め、1996年4月、デザイン会社Z社に正社員として入社した。
 しかし、由子さんを待っていたのは、年間3600時間に及ぶ常軌を逸した長時間過重労働であった。何とか2年間頑張ったが、悩んだ末1998年3月末で退職し、4月6日から新しい会社に就職して2日後の4月7日、トイレでクモ膜下出血を発症して、わずか23歳3か月の短い人生を閉じたのである。
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 6月下旬、純一さんの職場の労働組合(高速オフセット労組)を通じて私に相談があり、松丸正、田中俊、岡本満喜子の3人の弁護士と一緒に弁護団を結成したが、当時の過労死認定基準(平成7年2月1日基発第38号)では、主として発症前1週間の業務の過重性を評価することになっていたため、退職の1週間後に発症した本件は、極めて認定が難しいと考えられたことから、私たちは先に民事訴訟を提起することを決めた。

 そして、高速オフセット労組や過労死家族の会、全印総連、広告労協、大阪労連・堺労連などの協力を得て「土川由子さんの過労死裁判を支援する会」(会長・中田進先生)が結成され、原告、弁護団と三位一体で裁判闘争を闘う形ができたのである。支援する会は、ニュース「カラーパープル」を通算20号まで発行し、個人署名約31,000、団体署名456団体を集めて裁判所に提出し(その後、労災認定を求める署名も約5,400筆)、マスコミ報道とも相まって、大きく世論を盛り上げた。

 Z社ではタイムカードを設置していたものの、残業代を一切支払っていなかったこともあり、由子さんはほとんど打刻していなかったが、ご両親は執念で聞き取りや調査を行い、1日毎の出勤・退社時刻とその日の業務内容を「由子スケジュール」と題する表に書き込んでいった。最後は、これが大きな力となった。
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 一周忌の命日である1999年4月7日に民事訴訟を提起したが、その裁判中に、天満労基署がZ社と社長を36協定不締結による違法残業、残業代不払いと健康診断不実施で刑事訴追し、略式命令に被告らが異議申立をしたことから、過労死事件初といえる刑事裁判も開始され、2000年8月9日、会社と社長の両者に40万円ずつの罰金を科す判決が下された(「過労死」初の刑事裁判--土川事件 弁護士 田中俊)。これがきっかけとなり、2001年6月、私たちは、労基法違反について刑事告発や労基署に違反通告を行う「労働基準オンブズマン」を立ち上げた。

 また、2000年3月24日には電通(大島)事件最高裁判決、同年7月17日には東京海上事件最高裁判決が出され、これらを受けて2001年12月12日、発症前6か月間の蓄積疲労も評価する現行の過労死認定基準(基発1063号)が制定されるなど、全国的な大きな動きがあった中、私たちは2001年11月、労災申請を行った。
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 2002年1月28日、弁護団は最終準備書面を提出して民事訴訟は結審したが、同時に裁判所から和解勧告があり、2月7日、Z社と社長が全面的に非を認めて謝罪し賠償金を支払うことを内容とする和解が成立した。そして同年5月22日、天満労基署が労災として認定し、約4年に及ぶ土川さん夫妻と私たちの闘いは終わったのである。

 それから、いつの間にか15年の歳月が過ぎた。ご夫妻は、事件終了後10年間ほど、石垣島に移住して暮らしておられたので、その間に音信が途絶えてしまっていたのだ。今般、支援する会の事務局をされていた武田裕司さんが、当事務所の親睦会「ゆうあい会」の世話人を引き受けてくださり、武田さんから土川さんご夫妻にそのお話が行ったことから、冒頭の「開設お祝い」を頂戴することになった次第である。
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 嬉しさと懐かしさから、先ほどお電話し、ご夫妻あわせて1時間近く話した。また、土川事件の裁判・労災認定闘争の勝利記念誌「カラーパープル」を取り出して再び読み返していたら、このブログを書きたくなった。
 記念誌に掲載された由子さんの生前の作品を見ていると、由子さんのデザイナーとしての豊かな才能と、それを夢半ばで絶ってしまったことの残酷さを、改めて思う。

 慶子さんがあるとき、私に言った言葉が忘れられない。「岩城先生、親を亡くすことは過去を無くすこと、配偶者を亡くすことは現在を無くすこと、子どもを亡くすことは未来を無くすことなんですよ。」

 土川さんら遺族たちの闘いもあって、その後過労死防止法が制定され、過労死防止の世論も広がってはいるが、悲惨な過労死・過労自殺はさらに広がり、また労災認定や裁判所による救済は、当時よりむしろ厳しくなっている印象さえ受ける。
 「闘っても闘っても、道まだ遠し」の心境である。

 ※画像は上から
①由子さんが中学時に学校の宿題で描いた点描画
②由子さん18歳の時のシルクスクリーン。郵政省主催の「世界人権宣言」切っての応募作で入賞したもの
③土川事件の年表
④大阪市主催の靴デザインコンペの応募作。見事入選に輝き、阪急百貨店で展示された。
⑤由子さんが自分をモデルに作った「よしこ人形」
 (由子さんの作品は、いずれも勝利記念誌から)


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2017年4月 2日 (日)

No.317 昭和の香りが漂うお店で、懐かしい歌に浸る──青木まり子さん“弾き語りLIVE”

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 3月31日、青木まり子さんの「弾き語りLIVE」に行ってきた。場所は難波にある「レコード喫茶グラフィティ」というお店。

 3月31日は金曜日(最近はプレミアムフライデーというらしい)。職場を早めに出て小雨の中をタクシーで向かった。初めて行くお店だったので少し迷ったこともあって、開始時刻の午後6時を少し回ってしまったが、店内に入ると、ちょうどライブが始まったところだった。
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 “レコード喫茶”。その名前だけで昭和の響きがある店内は、ステージを囲むように木造のテーブル・イスが配置され、ほぼ満席のお客さんは4、50人くらいだろうか。年齢層は、私と同世代前後の方が多いように見受けられた。

 私が青木まり子さんを知ったのは、中学から高校時代に好きだった「五つの赤い風船」とシモンズの曲をユーチューブで聴いた時、どちらも再結成メンバーとして歌っておられたことからである。その柔らかくしっとりした歌声に引き込まれ、いつか機会があれば生で聴きたいと思っていた。そして、昨年9月、たまたまフェイスブックで「お友達」になっていただくことができ、今般のライブのお知らせに触れたのである。
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 生の青木まり子さんの弾き語りライブを聴いて感じたこと。
 ①本当に歌が上手く、声が美しい。また、目がパチリとして、とってもお美しい。昔は東京の六本木のバンドで60年代ポップスをたくさん歌っていたとおっしゃっていたが、その頃に戻って聴いてみたい気がした。
 ②ギターのテクニックも半端ない。まるでクラシックギターを弾いているような細やかなピッキングと、多彩なストロークのミックスが美しい。ギター1本でこれだけ豊かな伴奏ができるのだから、ギターというのはすごい楽器である。
 ③語りも軽妙で楽しい。歌にまつわるエピソードや思いなど、聴いていて心が安らぎ、時には会場との掛け合いも交えて、飽きない。
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 歌ってくれた曲は、遠い世界に、オレンジの環状線、ふるさとはアジア、月の下で、悲しき片思いなど、懐かしいフォークソングから60年代ポップスや歌謡曲まで、20曲近くに及んだ。
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 販売されていたCD2枚(「幸せへの愛言葉」、「Sweetheart」)も購入し、終了後出口でしていたサイン会でこれにサインをしてもらい、ついでに調子に乗って一緒に写真まで撮ってもらった。

 数百人、数千人が集まるコンサートもいいが、こんなアットホームな弾き語りライブもいいなと思った。
 青木まり子さんは、これまで大阪に来ることは多くなかったようだが(まだ環状線に乗ったことがないという趣旨のことをおっしゃっていたように思う)、また大阪に来て聴かせてほしい、そんなライブだった。
 美味しくいただいたちょっと高めのワインのほろ酔いを楽しみながら、お店を後にした。


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