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カテゴリー「5-9 音楽」の7件の記事

2017年11月12日 (日)

No.330 マー君の詩「ぼくの夢」が歌になりました

 皆さんは「ぼくの夢」という詩をご存じだろうか。
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 この詩は、2000年3月にお父さんを過労自死で亡くした、当時6歳(小学1年生)の「マー君」が書いた詩である。お父さんの命をどうすれば救うことができたのか、小さな胸を痛めながら考えたこの詩は、読む者の心を打つ。
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 2011年11月から始まった過労死防止法制定を目指す取組みで、私たちは「100万人署名」の署名用紙にこの詩を掲載し、また衆議院の厚生労働委員会でこの詩が読み上げられて紹介されるなど、過労死防止法制定運動のシンボルとなった。
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 マー君は、中学3年のときに書いた「命こそ宝」と題する作文の中で、6歳の時のこの詩も紹介しながら、「僕は、仕事のための命ではなく、命のための仕事であると考えます。」と訴えた(この作文は、大阪人権博物館の「労働者の権利」のコーナーで常設展示されている)。
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 私たちは、この「ぼくの夢」を歌にすることができないか、かねてから願っていたところ、今般、宮崎県在住の山本友英さんが作曲し、歌手グループの「ダ・カーポ」さんが、マー君の中学3年の時の作文をもとにした2番・3番の歌詞とともに歌ってくださり、私たちの願いが実現したのである。

   ぼくの夢 ~ある過労死遺児の詩~

      作詩:マー君  作曲:山本友英 編曲:渡辺雅二
      歌:ダ・カーポ

大きくなったら ぼくは 博士になりたい
そしてドラえもんに出てくるような
タイムマシンを 作る
ぼくは タイムマシンに乗って
お父さんの死んでしまう 前の日に行く
そして 仕事に 行ったらあかんて 言うんや

大きくなっても ぼくは 忘れはしないよ
得意な顔して作ってくれた
パパ焼きそばの 味を
ぼくは タイムマシンに乗って
お母さんと一緒に 助けに行こう
そして 仕事で 死んだらあかんて 言うんや

仕事のための命じゃなくて
命のための仕事だと ぼくは伝えたい
だから 仕事で 死んだらあかんて 言うんや

 曲も、2・3番を含めた歌詞もすばらしいし、ダ・カーポさんの優しく柔らかい歌声はこの歌にぴったりだと思う。
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 CDは限定200枚の製作で非売品なので市販されていないが、この11月に行われている各地の啓発シンポジウムのオープニングで流されるなど、今後様々なところで紹介されていくことと思う。
 この楽曲が、今後の過労死防止の取組みに生かされていくことを願ってやまない。

 なお、ダ・カーポさんから楽譜をいただき、私が素人ながらそれをギターの弾き語り用にシンプルにした楽譜を作ってみたので、ご希望の方は、私の事務所(いわき総合法律事務所)まで、メール又は電話にてお問い合わせください。

 ※画像は上から、
 ①「ぼくの夢」のCDの装丁
 ②「100万人署名」の署名用紙
 ③その中の「ぼくの夢」の詩
 ④CDの裏表紙のイラスト
 ⑤「ぼくの夢」のCD


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2016年2月12日 (金)

No.272 吉田拓郎さんが切り開いたもの~“こっち側”と“あっち側”のはざまで

 建国記念日で祝日だった2月11日の夜の「報道ステーション」で、キャスターの古舘さんから吉田拓郎さんへの長時間のインタビューがあり、楽しく、懐かしく、また感慨深く見せていただいた。
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 インタビューで古舘さんもおっしゃっていたが、今50歳から70歳くらいまでの人にとって吉田拓郎さんの歌は自分の青春時代だという人が多いと思う。今59歳の私自身もそうである。

 1970年から1972年にかけて「イメージの詩」(1970年6月)、「青春の詩」(1971年4月)、「今日までそして明日から」(1971年7月)、「結婚しようよ」(1972年1月)、「旅の宿」(1972年7月)などの初期のヒット曲を飛ばしたが、このころ私は中学2年~高校2年で、フォークソングにはまった時期でもあった。

 しかし、吉田拓郎さんの歌は、それまでの社会的・政治的なメッセージやプロテストを含んだ「カレッジフォーク」や「関西フォーク」(岡林信康、加川良、高田渡など)から、自分の平凡な生き方や恋愛、自然や風景を歌う路線(ニューミュージック)への切り替えを模索するものだった。それはたぶん、1970年代に入り急速に学生運動が衰退する中で、若者たちの心情をとらえたものだった。古舘さんは吉田拓郎さんの「無理して闘わなくていいんだよ」というメッセージは、自分にとって「福音」だったと表現していた。

 その後吉田拓郎さんは、ニューミュージックの旗手となり、フォークとロック、ポップス、さらには旧来の演歌などとも融合させ、シンガーソングライターとして、またCMソングもヒットさせるなど、新しい時代を切り開いたといわれる。

 森進一の「襟裳岬」(1973年)や、由紀さおりの「ルームライト」(1973年)の作曲、かまやつひろしの「我が良き友よ」(1975年)の作詩・作曲も彼である。また、私は個人的には、彼が作曲し天地真理がカバーした「ある雨の日の情景」(1974年)が好きである。
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 拓郎さんは、当初は旧来のフォークファンからは「大衆迎合」とか「軟弱」、「商業主義」といった批判も受けたようだが、その背景には時代の流れがあり、彼は自分に正直に生きただけで、彼の責任ではないだろう。
 私自身は世代的にはその端境期であり、両方に対して郷愁を覚えるが、個人主義に徹することに心のどこかに抵抗も感じていた最後あたりの世代だと思う。

 インタビューで拓郎さんは、「僕はもともとこっち側(フォークソング側)にいる人間ではなく、あっち側(渡辺プロダクションや沢田研二などの華やかな側)の人間だった」という。正直な気持ちだろうと思った。

 拓郎さんは1946年4月5日生まれで、もう今年70歳になられるそうだが、肌はつやつやしてそんな年齢を感じさせない。
 「もう体が弱っているので、埼玉から横浜くらいまでの範囲での日帰りのコンサートしかしていなかったが、今年は1泊して足をのばしたい」という趣旨のことをおっしゃっていたが、ぜひ、大阪あたりまで来てコンサートをしてほしいと思う。

 他方で、当時「あっち側」の象徴であった沢田研二さんも、最近は「我が窮状」など政治的なメッセージを含んだ歌も歌うようになっている。拓郎さんは、今の政治・社会の動きについて、どのように感じておられるのだろうか。

 今回のインタビューを聴いて、拓郎さんも沢田さんも「当時」を生きていたし、「この時代」も生きているんだ、ということを改めて感じた次第である。

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2016年1月 5日 (火)

No.268 歌は楽しい。Let's sing together!

 私は、歌を聴くのも、歌うのも好きな方である。昔はレコードやCDを買ったり借りたりしてよく聴いたし、今でもパソコンやi-Podなどでよく聴いたりする(昔の懐かしい曲が多いが。)。

 何かの懇親会の二次会などでは、よくカラオケに行こうと誘ったりするが、自分が歌いたいというよりも、人の歌を聴いたり、一緒に歌ったり、デュエットしたりするのが好きなのである。いわゆる「うたごえ喫茶」にもこれまで何度か行ったが、あの雰囲気も好きである。

 ミュージカルも好きだ。劇団四季や、最近では「サウンド・オブ・ミュージック」や「レ・ミゼラブル」などを観た。そして、これから半年間近く準備して取り組まれる「大阪憲法ミュージカル」も、立派なミュージカルである。
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 もともと、音楽は好きだった。小学校5年生の時、父が何を思ったのかクラシックギターを買ってきた。兄弟3人の中で(私は男ばかり3人きょうだいの真ん中である。)私だけが必死で練習した(このギターは今でも私の部屋にある。)。親に頼み込んで、当時クラシックギターの通信教育をしていた「東京音楽アカデミー」に入会させてもらい、毎月送られてくるレコードを聴いて、このギターで毎日何時間も練習した(なお、高1の時に体育のハンドボールの授業中に、ギター演奏に一番重要な左手の小指を骨折して不自由になってしまったことから、ギターは断念せざるを得なかった。)。
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 小学校6年の時には、運動会などでトランペットを吹きながら行進する「トランペット部隊」に加わり、中学ではブラスバンド部に所属してトランペット、高校の前半もブラスバンド部でトロンボーンを吹いていた(もっとも、唇の力が弱く、あまり上手とはいえなかったと思う。)。

 さらに、私が中2だった1970年ころから、いわゆるフォークソングが流行した。私も友人2人と「ザ・ピース」という、今から思えば死ぬほど恥ずかしい名前のグループを作り、練習した。160105


自分たちが中学を卒業する直前の予餞会ではグループとして出場し、全校生の前で、ザ・フォーク・クルセダーズの「戦争は知らない」という曲を歌ったことを覚えている。

 そんなだったから、小・中学校では、音楽の通信簿はいつも「5」だった。
 高校の後半はコーラス部に入り、合唱の楽しさも知った。

 こうして改めて振り返ると、私は見かけによらず(笑)、音楽や歌と共に過ごしてきたと思う。
 ギターを続けることができていたら、親がピアノなんかをちゃんと習わせてくれていたら、もっといい声に生まれついていたら、などと妄想(笑)することもあるが、要は楽しめればいいじゃないか、と思いなおしている。 

 ここ数年、私たちの少し上から私たちにかけての「フォーク世代」が次々と定年を迎えていく中で、「うたごえ」やフォークグループが再び活発になっているようである。私の親しい弁護士仲間たちも、「今里フォークジャンボリー」という発表の場を持ち、それに向けて練習を積み重ねたりしている。
 私も、ただカラオケに行ったりパソコンやi-Podで音楽を聴くだけでなく、演奏も含めて、何かしてみたいと思う今日この頃であるが、仲間もいないし、特に演奏できる楽器もない。誰か誘ってくれないかなあ。

 ※画像は上から
 ①私が小学校から中学校時代に練習したクラシックギター
 ②中学時代のブラスバンド部(卒業アルバムより)。当時は思いっきり坊主にさせられていた(笑)。
 ③ザ・フォーク・クルセダーズ「戦争は知らない」のジャケット(インターネットより)


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2015年8月17日 (月)

No.252 忘れられない「アイドル」たち──③太田裕美

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 私の「忘れられないアイドル」の3人目は、太田裕美さんである。
 彼女は1955年1月生まれとのことなので、私よりも学年で2歳上(南沙織と同学年)ということになる。

 デビュー曲は「雨だれ」(1974年11月)だが、大ヒットしたのは、ご存じの「木綿のハンカチーフ」(1975年12月)である。
 このころ、私は大学受験浪人中で、京都で1年間浪人生活を送っていた。それまでのエスカレーターから外れ、置いてきぼりになったような寂しさと孤独感、後がないという不安と焦りに苛まれながら、ひたすら勉強した(せざるを得なかった)1年間であった。その浪人時代の最終盤、大学入試を目前にした冬に、あの、ちょっと舌足らずの爽やかな声で歌うこの歌が、飛び込んできたのである。
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 高校時代までを和歌山で過ごし、切ない浪人時代を京都で過ごして、受験の結果次第でさらに旅立っていくというこの時期(私は京大に合格する前に中央大学法学部にも合格していたので、もし京大に合格していなければ中央大学に行く予定だった。)、太田裕美のこの歌は心に染み、すぐにファンになった。
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 あこがれの京大法学部に入学し、世界が輝いて見えたころ、何とゴールデンウィークに太田裕美が京大の時計台ホールに来てコンサートをするという。大学ってすごい、こんな人も来るんだと感動し、飛びつくようにチケットを買った。ところが、私の母方の祖母が病気でもうあまり長くないという知らせが入り、涙をのんで秋田にいた祖母に会いに行ったため、このコンサートには行けなかった。病床にいたおばあちゃんはとても喜んでくれ、その年の8月に亡くなったので、行っておいてよかったのだが、コンサートに行けなかった痛恨の思いもまた、忘れられない。
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 その後、大学時代から司法試験受験時代にかけて、何枚もLPを買ったり借りたり(昔はレンタルレコード店がたくさんあった)、CDを買ったり借りたりして現在に至っている。
 2002年ころにはたしか大阪のIMPホールでのコンサートに行き、2012年9月には大阪城ホールでのコンサート「君と歩いた青春」(他に伊勢正三、南こうせつやイルカさんなど)にも行った。

 太田裕美さんは今でも現役で活躍していて、あのちょっと舌足らずの甘ったるい声は健在である。2004年から伊勢正三(元かぐや姫)、大野真澄(元ガロ)との3人でユニット「なごみーず」を組んでコンサートを開催しているという。ぜひ、これからも歌い続けてほしい。

 最後に、私の好きな太田裕美さんの曲のベスト10(ほぼ時系列順)を挙げると、以下のとおりである。
 ①木綿のハンカチーフ
 ②赤いハイヒール
 ③九月の雨
 ④あなたに夢中(「まごころ」所収)
 ⑥オレンジの口紅(「手作りの画集」所収)
 ⑦茶いろの鞄(「手作りの画集」所収)
 ⑤恋の予感(「12ページの詩集」所収。なお、同名の安全地帯の曲があるが別である。)
 ⑨あさき夢みし(「12ページの詩集」所収)
 ⑧さらばシベリア鉄道(「十二月の旅人」所収)
 ⑩メロディ・スモーキン(「十二月の旅人」所収)


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2015年8月14日 (金)

No.250 忘れられない「アイドル」たち──②南沙織

 私がファンになった2人目の「アイドル」は、南沙織さんである。
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 デビュー曲「17歳」の発売は1971年6月なので、天地真理とほぼ同時期だが、天地真理は1951年11月生まれで私よりも5歳年上なのに対して、南沙織は1954年7月生まれで、私よりも2つだけ年上である。今となってはあまり変わらないが(笑)、当時のこの差は大きい。南沙織は2歳上の直近のお姉さんという感じだった。

 最初の2年間(1971年~72年)は「17歳」「潮風のメロディ」「ともだち」「哀愁のページ」「早春の港」などがヒットした。私は中3から高1で、「南の島の明るくて素直な女の子」のイメージに惹かれた(もっとも、南沙織は沖縄出身であったにもかかわらず、デビュー時は本土復帰前だったこともあり、当初は奄美大島の出身とされていた)。
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 次の2年間(1973年~74年)は、「色づく街」「ひとかけらの純情」「バラのかげり」「夏の感情」「女性」など、「しっとりと静かに大人になっていく女性」の歌が多かったように思う。私は高2・高3で、自分も同じように思春期後半の変化を感じながら過ごしていたので、1曲1曲に思い入れがある。

 天地真理の歌は浪人時代(1975年)以降大学に入ってからはほとんど聴かなくなったが、南沙織の歌は「人恋しくて」「気が向けば電話して」「青春に恥じないように」「哀しい妖精」「街角のラブソング」、そして最後のヒット曲「春の予感─I've been mellow─」(1978年1月)など、浪人・大学時代にも聴き続けた。この頃の南沙織は「知的な都会の学生」のイメージだった(実際、彼女は当時、上智大学の学生であった)。
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 1978年10月、南沙織は突然引退し、翌年には写真家の篠山紀信と結婚してしまった。この頃にはアイドルというより歌手の南沙織が好きだったので、引退されるのが本当に寂しかった。

 ところで、私には学年で2つ下の弟がいるが、弟も南沙織のファンで(弟はこれ以外に松田聖子も好きだった(笑))、当時東京にいたので調布市で行われた引退コンサートを聴きに行けたのがうらやましかった。

 私はこのころから本格的に司法試験の勉強を始めたが、弟もその後同じように司法試験を目指し始め、私が1982年に結婚して和歌山市内で生活し始めて以降、弟も和歌山に戻り、一緒に勉強していた時期があった。そのころ、「2人で一緒に合格して、南沙織にあいさつに行こう」と約束し合ったことがあったが、2人の合格が1年ずれたので(私が1985年、弟が1986年)、この約束は叶わなかった(弟はこんなことは忘れているかもしれないが)。
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 南沙織は、なぜか1991年末のNHKの紅白歌合戦に突然出場し、「色づく街」を歌った。これをきっかけに、1992年から97年ころまで歌手活動を再開した時期があったが、このころは「憂いの漂う大人の女性」になっていた。が、決していやらしさはなく、清純なままで、何か昔の彼女に会ったような(笑)まぶしさを感じた。

 というわけで、南沙織さんとは私が思春期から大人になるまで、ずっと一緒に歩いてきた感じがする。
 だから、1994年に限定販売された「Cynthia Memories」(6枚組)も、2000年の「CYNTHIA ANTHOLOGY」(4枚組)も、2006年の「Cynthia Premium」(21枚のLPをジャケットもそのままに21枚のCDにしたもの+紅白出場のDVD)も、全部買った(笑)。
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 今は、あまり公の場に顔を見せないが、2011年1月13日付けの新聞(共同通信配信、画像は南日本新聞)に登場した記事を読むと、元気そうで嬉しく思う。
 私も来年還暦を迎えるが、先に還暦を迎えた南沙織さんに会って、ずっとファンだったこと、司法試験に合格したら兄弟で会いに行こうと弟と話していたこと、沖縄の今をどう思うか、などについて話してみたいと思う今日このごろである。でも、今でも会ったら緊張するだろうな。

 なお、南沙織の公式ページ「Art of Loving」があり、その中に「bbs」という掲示板がある。また、これとは別にコアなファンが「Cynthia Street」というサイトを作っており、その中の「Cynthia Street 伝言板」では、1997年から実に17年以上にわたって、コアなファンの交流が続いている。

 ちなみに、私が特に好きな曲を、ほぼ時系列に並べると、以下のとおりである。
 ①17歳
 ②潮風のメロディ
 ③哀愁のページ
 ④早春の港
 ⑤20才まえ
 ⑥色づく街
 ⑦青春に恥じないように
 ⑧哀しい妖精
 ⑨さよならは貴方から
 ⑩春の予感─I've been mellow─
 ⑪私の出発(たびだち)
 ⑫Ms.(ミズ)

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2015年8月12日 (水)

No.248 忘れられない「アイドル」たち──①天地真理

 私は「アイドル」という言葉はあまり好きではない。しかし、小学校高学年から20歳前後までの多感で、異性に限りない魅力を感じるあの時代に、好きでたまらなくなった「アイドル」たちが、私にもいた。
 こんなことは、同世代同士の昔話のネタになる以外は、あまり関心はないと思うが、私自身の思い出として、少しだけ書き留めてみたい。

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 まず筆頭は、天地真理さんである(以後は、親しみを込めて「呼び捨て」にしたい)。
 1971年(昭和46年)10月に「水色の恋」でデビューした「ソニーの白雪姫」こと天地真理は、その後約3年間にわたって、「ちいさな恋」「ひとりじゃないの」「虹をわたって」「ふたりの日曜日」「若葉のささやき」「恋する夏の日」「空いっぱいの幸せ」「恋人たちの港」「恋と海とTシャツと」「想い出のセレナーデ」などのヒット曲を連発した。
 また、ほぼこれに並行して、テレビでも『真理ちゃんとデイト』(1972年10月~1973年3月)、『となりの真理ちゃん』(1973年4月~9月)などの『真理ちゃんシリーズ』5作が大ヒットし、国民的アイドルとなった。
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 私は「真理ちゃんシリーズ」はあまり観なかったが、テレビの歌謡番組や深夜放送で彼女の歌を聴いて、愛くるしい顔、真っ白な歯、人形のようなスタイル、完璧ではないが透明感のある歌声に、思いっきりファンになってしまった。大きな顔写真入りの下敷きまで買って、見とれてドキドキしていた(笑)。

 深夜放送「ABCヤングリクエスト」(ヤンリク)に、「虹をわたって」や「若葉のささやき」のリクエストのハガキを一生懸命書いて送ったことを覚えている。

 初めてLPレコード買ったのも、天地真理のファーストアルバム「水色の恋/涙から明日へ」だった(このアルバムは今でも私の部屋にあるが、プレーヤーがない(笑))。
 彼女は国立音大附属高校の声楽科卒業で、またフォークソングが好きということもあって、LPには、実に幅広いカバー曲が入っている。
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 熱烈なファンだったのは高3(1974年)くらいまでで、その後は落ち着いていったが(笑)、今でも時々曲を聴いたり、ユーチューブで昔の動画を観たりする。

 1977年ころから体調を壊して休業したり、その後アダルト路線に変更したり、大変な肥満になってテレビに登場するのを見て複雑な思いもあったが、2011年に「天地真理ファンクラブ」が新たにスタートし、コアなファンに加えて、かつてのファンのリターンや新しい世代のファンが広がりつつあるとのことで、とても嬉しく思う。

 若さと美しさを売りにした「アイドル」が、年齢を重ねてもその状態を続けることは不可能である(吉永小百合さんや松坂慶子さんなど、ごく一部の例外はあるが)。かつて圧倒的多数の人々をその愛らしさと歌声で魅了した、そのことだけで十分ではないだろうか。

 2016年10月にはデビュー45周年を迎えるということで、「天地真理スクリーンコンサート」などの催しが頻繁に行われているようである。私は「コア」と「リターン」の中間くらいだと思うが、これに参加して、もう一度昔の「真理ちゃん」に浸ってみたいような気もする。

 ちなみに、私が特に好きな曲(①~⑨は、ほぼ時系列順)は、次のとおりである。
 ①ひとりじゃないの
 ②水色の恋
 ③虹をわたって
 ④ふたりの日曜日
 ⑤若葉のささやき
 ⑥恋する夏の日
 ⑦空いっぱいの幸せ
 ⑧恋人たちの港
 ⑨思い出のセレナーデ
 ⑩涙は明日に(ジローズのカバー曲)
 ⑪悲しき天使(メリー・ホプキンのカバー曲)
 ⑫ある雨の日の情景(吉田拓郎のカバー曲)

 ※画像の一番下は、ブリジストンが発売した自転車「ドレミまりちゃん」のCMである。


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2011年5月 2日 (月)

No.18 元キャンディーズ 「スーちゃん」の死を悼む

 4月21日、キャンディーズの3人娘の一人、「スーちゃん」こと田中好子さんが亡くなった。1956年(昭和31年)4月8日生まれとのことなので、私と同学年である。

 キャンディーズが大ヒットしたのは、1973(昭和48)年~1978(昭和53)年で、私の高校後半から大学時代と重なる。コンサートに行ったことはないが、当時はカセットテープ、その後はCDをずっと聴いてきた。

 キャンディーズの魅力は、一人一人がすごく違っていて、その3人が文字どおりキャンディーのようにカラフルに、美しいハーモニーを奏でることだろう。Photo
 4月23日付け読売新聞の「編集手帳」は、「私はスーちゃんを妻にし、ランちゃんを恋人にし、ミキちゃんを秘書にしたい」と作家の山口瞳さんが語ったと、コラムニストの青木雨彦さんが自著『にんげん百一科事典』(講談社)に書き留めていることを紹介し、「「キャンディーズ」を知る世代には、このいささか欲張りな望みにうなずく人もいるだろう。 田中好子さん(スー)、伊藤蘭さん(ラン)、藤村美樹さん(ミキ)それぞれの個性を、一筆書きの素描に写し取っている。」と述べている。
 「言い得て妙」というのは、こういうのをいうのだろう。

 ちょっと太めだったスーちゃんは、男性なら「ひざ枕」でもして甘えてみたいような、日本女性らしい優しさがあった。最近は女優としても活躍していたと聞く。「編集手帳」子が言うように、55歳は早すぎる。

 その上に世間を感動させたのは、4月25日に行われた告別式で公表された、スーちゃんの肉声の“遺言”である。
 まず最初に、自分が死を目前にしているのに、2週間前に発生した東日本大震災の犠牲者の冥福を祈り、「私も一生懸命、病気と闘ってきましたが、もしかすると、負けてしまうかもしれません。でもその時は必ず天国で、被災された方のお役に立ちたいと思います。それが、私の務めと思っています。」と述べる。
 そして、参加者たち、とりわけランちゃん、ミキちゃんに心からのお礼を述べながらも、「映画にもっと出たかった。テレビでもっと演じたかった。もっともっと女優を続けたかった。」と、絞り出すように話し、最後に、「いつの日か、妹(義妹)の夏目雅子のように、支えてくださった皆さまのように、社会に恩返しできるように、復活したいと思ってます。カズさん(夫・一雄さん)、よろしくね。その日まで、さようなら。」と締めくくるのである。

 自分の死後に公表されるテープで、こういうことが言えるだろうか。
 アイドルとは、女優とは、人間とは、何かということを考えさせられる。
 そんなお人柄だからこそ、告別式に2000人以上が参加したのだろう。

 一度もお会いしたことがないままであったが、同世代の仲間、ファンとして感謝の言葉を申し上げるとともに、ご冥福を祈りたい。

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