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カテゴリー「3-4 過労死・過労自殺事件」の18件の記事

2017年4月18日 (火)

No.318 事務所開設2周年に思いがけず届いた「お祝い」──土川事件の闘いを振り返る

 事務所を開設して丸2年が過ぎた4月18日、予期せぬ「事務所開設のお祝い」が届いた。送り主は、土川純一さん・慶子さんご夫妻だった。
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 土川さんご夫妻の娘さんの由子さんは、中学時代は美術部、高校時代はモダンクラフト科に所属し、専門学校の編集デザイン科で3年間学ぶ中で、デザイナーの道を歩むことを決め、1996年4月、デザイン会社Z社に正社員として入社した。
 しかし、由子さんを待っていたのは、年間3600時間に及ぶ常軌を逸した長時間過重労働であった。何とか2年間頑張ったが、悩んだ末1998年3月末で退職し、4月6日から新しい会社に就職して2日後の4月7日、トイレでクモ膜下出血を発症して、わずか23歳3か月の短い人生を閉じたのである。
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 6月下旬、純一さんの職場の労働組合(高速オフセット労組)を通じて私に相談があり、松丸正、田中俊、岡本満喜子の3人の弁護士と一緒に弁護団を結成したが、当時の過労死認定基準(平成7年2月1日基発第38号)では、主として発症前1週間の業務の過重性を評価することになっていたため、退職の1週間後に発症した本件は、極めて認定が難しいと考えられたことから、私たちは先に民事訴訟を提起することを決めた。

 そして、高速オフセット労組や過労死家族の会、全印総連、広告労協、大阪労連・堺労連などの協力を得て「土川由子さんの過労死裁判を支援する会」(会長・中田進先生)が結成され、原告、弁護団と三位一体で裁判闘争を闘う形ができたのである。支援する会は、ニュース「カラーパープル」を通算20号まで発行し、個人署名約31,000、団体署名456団体を集めて裁判所に提出し(その後、労災認定を求める署名も約5,400筆)、マスコミ報道とも相まって、大きく世論を盛り上げた。

 Z社ではタイムカードを設置していたものの、残業代を一切支払っていなかったこともあり、由子さんはほとんど打刻していなかったが、ご両親は執念で聞き取りや調査を行い、1日毎の出勤・退社時刻とその日の業務内容を「由子スケジュール」と題する表に書き込んでいった。最後は、これが大きな力となった。
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 一周忌の命日である1999年4月7日に民事訴訟を提起したが、その裁判中に、天満労基署がZ社と社長を36協定不締結による違法残業、残業代不払いと健康診断不実施で刑事訴追し、略式命令に被告らが異議申立をしたことから、過労死事件初といえる刑事裁判も開始され、2000年8月9日、会社と社長の両者に40万円ずつの罰金を科す判決が下された(「過労死」初の刑事裁判--土川事件 弁護士 田中俊)。これがきっかけとなり、2001年6月、私たちは、労基法違反について刑事告発や労基署に違反通告を行う「労働基準オンブズマン」を立ち上げた。

 また、2000年3月24日には電通(大島)事件最高裁判決、同年7月17日には東京海上事件最高裁判決が出され、これらを受けて2001年12月12日、発症前6か月間の蓄積疲労も評価する現行の過労死認定基準(基発1063号)が制定されるなど、全国的な大きな動きがあった中、私たちは2001年11月、労災申請を行った。
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 2002年1月28日、弁護団は最終準備書面を提出して民事訴訟は結審したが、同時に裁判所から和解勧告があり、2月7日、Z社と社長が全面的に非を認めて謝罪し賠償金を支払うことを内容とする和解が成立した。そして同年5月22日、天満労基署が労災として認定し、約4年に及ぶ土川さん夫妻と私たちの闘いは終わったのである。

 それから、いつの間にか15年の歳月が過ぎた。ご夫妻は、事件終了後10年間ほど、石垣島に移住して暮らしておられたので、その間に音信が途絶えてしまっていたのだ。今般、支援する会の事務局をされていた武田裕司さんが、当事務所の親睦会「ゆうあい会」の世話人を引き受けてくださり、武田さんから土川さんご夫妻にそのお話が行ったことから、冒頭の「開設お祝い」を頂戴することになった次第である。
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 嬉しさと懐かしさから、先ほどお電話し、ご夫妻あわせて1時間近く話した。また、土川事件の裁判・労災認定闘争の勝利記念誌「カラーパープル」を取り出して再び読み返していたら、このブログを書きたくなった。
 記念誌に掲載された由子さんの生前の作品を見ていると、由子さんのデザイナーとしての豊かな才能と、それを夢半ばで絶ってしまったことの残酷さを、改めて思う。

 慶子さんがあるとき、私に言った言葉が忘れられない。「岩城先生、親を亡くすことは過去を無くすこと、配偶者を亡くすことは現在を無くすこと、子どもを亡くすことは未来を無くすことなんですよ。」

 土川さんら遺族たちの闘いもあって、その後過労死防止法が制定され、過労死防止の世論も広がってはいるが、悲惨な過労死・過労自殺はさらに広がり、また労災認定や裁判所による救済は、当時よりむしろ厳しくなっている印象さえ受ける。
 「闘っても闘っても、道まだ遠し」の心境である。

 ※画像は上から
①由子さんが中学時に学校の宿題で描いた点描画
②由子さん18歳の時のシルクスクリーン。郵政省主催の「世界人権宣言」切っての応募作で入賞したもの
③土川事件の年表
④大阪市主催の靴デザインコンペの応募作。見事入選に輝き、阪急百貨店で展示された。
⑤由子さんが自分をモデルに作った「よしこ人形」
 (由子さんの作品は、いずれも勝利記念誌から)


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2017年1月18日 (水)

No.308 誇らしい3人の過労死事件「卒業生」たち

 私にとって、過労死事件(過労死の労災認定、企業に対する民事訴訟など)は、弁護士としてのライフワークとなっている。強い責任感でまじめに働いた末に、突然訪れる理不尽な死。相談に来る遺族の目は、悲しみとやり場のない怒り、愛する人の死を止められなかった自責の念にうるんでいる。

 そんな傷ついた遺族を励まし、弁護団を組み、労災申請や行政訴訟、民事訴訟に取り組む。遺族たちだけでなく、私たち弁護団にとっても辛く、苦しい闘いである。そして結果は、認定や勝訴を勝ち取れる場合もあれば、残念な結果に終わる場合もある。

 かくして事件が決着すれば、依頼者は原告でなくなり、私たちの任務は終わり、弁護団は解散する。寂しさも感じるが、遺族が次のステージに進んでいく以上、それはやむを得ない。中には、元弁護団に声をかけて、「同窓会」を開いてくれる遺族もいて、とても嬉しいことである(かつて担任をした卒業生たちから同窓会に招かれる先生の気持ちがわかる気がする。)。

 しかし、闘いの中で過労死家族の会や過労死を防止する活動に関わり、過労死問題の社会問題としての本質を学び、自分の事件が終わった後も、家族の会などで後に続く人たちの力となり、また過労死を亡くすために社会に働きかける活動を共に担ってくれる「同志」になってくれる人たちがいることは、私にとって本当に誇らしい。

 そんな最高の「卒業生」として、次の3人を紹介しておきたい。

 1人目は、寺西笑子さん。京都の和食店チェーンで店長として働いていた御主人を過労自殺で失い、労災認定の闘いに続き、会社と社長を被告として民事訴訟を闘い、勝利和解を勝ち取られた。10年に及ぶ闘いを終えた翌年(2007年)の寺西さんからの年賀状には、「なごり惜しいけれど原告を卒業します。」と書かれていた。そして寺西さんは、過労死家族の会の活動に本格的に関わり、「全国過労死を考える家族の会」の代表に就任。全国の過労死遺族たちを惜しみなく支援するとともに、過労死防止法制定運動に共に取り組んだ(「No.64 朝日新聞の「ニッポン人脈記」に紹介されました」、「No.77 東京新聞に「過労死防止法」の取り組みが紹介されました」)。ジュネーブの国連社会権規約委員会の会議にも参加し、国会の厚生労働委員会でも意見陳述をされ(「No.187 「過労死防止法」いよいよ制定への最終ステージへ!──(その2)5/23衆議院厚生労働委員会で意見陳述と満場一致採択!」)、法律制定後は過労死遺族の全国の顔として、押しも押されぬ大黒柱となっている。

 2人目は、小池江利さん。和歌山県内の老人介護福祉施設で事務責任者をしていたご主人を過労死で失い、寺西さんと同じく労災認定と民事訴訟を闘い、一審和歌山地裁で勝訴判決(「No.251 和歌山の介護老人施設職員過労死事件で勝訴判決!」)、二審大阪高裁で勝利和解を勝ち取った。和歌山県在住にもかかわらず、闘いの中で大阪過労死家族の会に入会し、過労死防止法制定の署名活動に熱心に取り組み、和歌山県議会、和歌山市議会、有田町議会の3つの地方議会で「過労死防止基本法の制定を求める意見書」の採択を実現した(「No.159 「過労死防止基本法の制定を求める意見書」を和歌山県と和歌山市が同時採択!」)。2015年4月からは大阪過労死家族の会の代表に就任した小池さんは、勝利記念文集の中で、「近い将来、日本、世界中で過労死がなくなり、私達のような苦しい思いをする遺族がいなくなるように願い、過労死問題は私の一生の課題であると決意を新たにしています」と述べている。

「過労死の悲しみ、もう二度と」法整備訴え署名活動(2013年11月8日付け読売新聞) http://blog.goo.ne.jp/stopkaroshi/e/737ff6eb0d3b52bf9e966b9380e66788

 家族を過労死で亡くした遺族らが7日、「過労死防止基本法」の制定を国に求める意見書を有田川町議会の議長らに手渡した。議会での採択を求めており、広川町の介護老人福祉施設で働いていた夫(当時49歳)を亡くした主婦小池江利さん(51)(有田川町)は「夫の死を無駄にしたくない」と活動に励んでいる。(落合宏美)

 2003年から事務職として働いていた小池さんの夫は、10年10月、残業中に脳動脈瘤(りゅう)破裂が原因のくも膜下出血で倒れ、8日後に亡くなった。11年6月に御坊労働基準監督署から労災認定を受けた。

 就職してから本来の業務である経理に加え、ヘルパーの資格を生かした業務や宿直もこなし、休日に出勤することも少なくなかった。小池さんが「きちんと休んで」と訴えても時間が取れないようで、ほぼ毎日4、5時間は残業していたという。「まじめで責任感が強い人でした」と振り返る。

 小池さんは、そうした夫の仕事ぶりに疑問を抱き、「過労死110番」に相談。弁護士の紹介で入会した「大阪過労死を考える家族の会」(大阪市)で、同じ境遇の遺族らと出会った。

 「過労死と認められても大切な人が戻らない現実に、『無理にでも仕事を辞めてもらっていれば』と遺族は自分を責める。こんな思いをもう誰にもしてほしくない」と、同法制定に向けた署名活動などに参加するようになった。

 遺族や弁護士らでつくる同法制定実行委員会は、国や企業に過労死を防止する責任があることなどを明記した過労死防止基本法の制定を求める活動を11年にスタート。今年6月には同法制定を目指す超党派の国会議員連盟が結成され、開会中の臨時国会への法案提出を目指している。


 3人目は、桐木弘子さん。宮崎県で23歳の息子さんを過労自殺で失った桐木さんは、労災申請から国を被告とした行政訴訟(「No.69 宮崎の地で、過労自殺行政訴訟を提訴」、「No.195 過労自殺させた会社と、防止できなかった労基署の「醜い野合」」)、会社に対する民事訴訟(「No.211 宮崎ホンダ23歳青年過労自殺事件、民事訴訟でも証人尋問──問われる裁判所の「眼力」」)のすべてが不当にも認められなかったが、各地の過労死防止啓発シンポジウムで遺族として発言し、2016年11月に「東九州過労死家族の会」を結成し、その代表に就任した。桐木さんは、過労死防止全国センターのニュースの中で、「インターネットで、「大阪過労死を考える家族の会」と出会うことができ、労災申請から裁判まで、たくさんの方達の支援を受けて闘うことができた」、「息子の死を無駄にしないために、今度は私が、被災者や遺族のためにこの経験を生かし、地元に家族会を作ろうと決心しました」と述べている。

過労死の悲劇なくそう 「東九州家族の会」発足 (2016年11月23日付け大分合同新聞) https://www.oita-press.co.jp/1010000000/2016/11/23/JD0055222907

 過労死をなくそうと、大分・宮崎両県の遺族らが22日、「東九州過労死を考える家族の会」を立ち上げた。結成集会が大分市のホルトホール大分であり、過労死を生まない社会にするための啓発活動や遺族支援に取り組んでいくことを誓った。
 会員は、家族を失った大分・宮崎の遺族5人と弁護士9人の計14人。代表に桐木弘子さん(59)=宮崎県川南町、副代表に野本幸治さん(74)=大分市=を選んだ。桐木さんは「手を取り合い、周りの力を借りながら頑張っていきたい」と決意を述べた。
 同会は、過重労働に苦しむ人や遺族からの相談を受ける他、啓発活動に力を入れる。会員が労災申請する際などには、孤立しないよう心理的支援や情報提供をして寄り添う。九州全体に活動を広げる方針。
 2007年に次女(当時31歳)を労災で亡くした野本さんは「娘の死を無駄にしないために、過労死を防ぐ活動を夫婦でしたいと思っていた」と話す。設立が具体化してきた今年8月、妻の美千世さんをがんで亡くした。「『やっとできたね』と妻も言ってくれるだろう」と話した。
 相談、問い合わせは桐木代表(TEL090・9484・2016)。

 3人とも、既に弁護士と依頼者という関係を卒業し、一人立ちして大きく羽ばたいている。頼もしくもあり、また、いとおしくもある。教え子が甲子園やオリンピックに出場した、高校時代の元監督(?)の気持ちは、こんなだろうか。

 私にとって「卒業生」はみんな大切だが、残された人生を過労死の救済と予防に尽くしたいと願う私にとって、上記の3人のような「卒業生」を送り出すことができ、これからの人生を共に手を携えて生きていけることを、本当に嬉しく思うのである。

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2017年1月 5日 (木)

No.305 「過労死のない社会へ、行動を」──没後10周年を前に、北村 仁さんを偲ぶ

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◆はじめに
 北村仁さん(愛称“キタジン”さん)が2007年4月13日に急死してから、今年10周年を迎える。
 「十年一昔」というとおり、10年の歳月は長い。私が関わり続けている過労死家族の会でも、北村さんのことを知らない人たちが大半となった。
 そこで、少し長くなるが(このブログの文章の中で最長のものになりそうである)、10周年を前に、北村さんの事例と、過労死遺族の運動に果たした功績について書き記しておきたい。

◆北村さんの事案と民事裁判の闘い
 北村さんは、1997年(平成9年)4月に日本通運尼崎支店に契約社員として入社したが、発症前1年間で時間外労働時間1500時間、休日わずか38日という激務を余儀なくされる中で、入社2年半後の1999年(平成11年)9月23日、自宅で急性心筋梗塞を発症し、一命はとりとめたものの心臓にペースメーカーを埋め込んだ身体障害者となった(身体障害東急1級、労災後遺障害東急7級)。
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 北村さんは2000年(平成12年)2月、尼崎労基署に労災申請をしたが、会社はその直後に契約を更新しない旨の通知書を送りつけてきた。
 同年8月、労基署は北村さんの発症を労働災害と認定するとともに、同年12月、会社に是正勧告を行ったが、会社は業務を改善しようという姿勢さえ示さなかった。

 北村さんはこのような会社に怒りを覚えていたところ、2000年(平成12年)12月に開かれた大阪過労死家族の会10周年のつどいに参加して、家族の会に加わるとともに、私たち弁護団に民事訴訟を依頼した(弁護団は私と上出恭子、中西基弁護士)。私たちは約1年間にわたる準備(証拠保全手続を含む)を経て、2001年(平成13年)12月、会社を被告として民事訴訟を提起した。
 裁判では、長時間過重労働の実態の主張立証と、中村賢治医師に医学意見書を書いていただき医学立証に努めた。2003年(平成15年)1月28日の人証調べ期日(原告本人と元上司の尋問)には、35名もの傍聴者で法廷は埋まった。
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 この人証調べの後、裁判所から和解勧告があり、3月7日と4月3日の2回の和解期日で、3300万円を会社が支払うことを内容とする和解が成立した。
 当初、和解金額は3000万円とすることで和解協議は進んでいたが、北村さんが強く求めた会社の謝罪を会社が頑なに拒否したことから、裁判所の提案で300万円が上積みされて和解となったのである。
 北村さんは「この増額分の300万円は、いわばオマケのようなものなので、過労死遺族の闘いに役立ててほしい」と申し出て、このうち200万円を拠出して、過労死遺族に労災申請や民事訴訟の費用を援助する「大阪過労死家族の会 労災・裁判支援機金」(通称“アンパンマン基金”)を設立した。この基金は、これまで多くの人たちによって活用されている。
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◆全国の過労死遺族たちをつなげた北村さんの支援活動
 これ以降北村さんは、自分の残された人生を過労死家族の会のために捧げたといっていいだろう。①大阪過労死家族の会の事務局、②家族の会のメーリングリストの運営、③大阪家族の会のホームページの開設などを積極的に引き受けるとともに、④1997年を最後に中断していた過労死遺族の交流会を2002年から復活させ、2003年からは「夏の一泊交流会」として、全国から子どもたちも同伴して参加できる一大イベントにまとめあげた。⑤のみならず、北村さんは自ら全国を走り回って過労死遺族の闘いを支援し始めた。解決金でトヨタのプリウスを購入し、支援者や遺族たちを乗せて、東京や山梨、長野、岡山、福岡など、全国の裁判の支援にかけつけるようになったのである。北村さんのこれらの活動によって、過労死遺族たちの全国的な交流と相互支援が広がった。
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 また、⑥実際にあった過労自殺事件をモデルにした名古屋の市民劇団「希求座」(当時)の劇「あの子が死んだ朝」の大阪公演(2006年11月)を実現する取り組みや、⑦当時導入されようとしていた(今もされようとしている)ホワイトカラーエグゼンプション(ある程度の年収のある労働者を労働時間の規制から外す制度)導入に反対する取り組みについても積極的に関わった。その中で、北村さんは、「遺族が過労死・過労自殺の悲惨さと、人間らしい働き方の大切さを訴える「語り部」として訴えること」の大切さを語っていた。

 さらに、北村さんは、労働者の立場に立った社会保険労務士になることを決意し、社労士試験の受験も始めたが、あとわずかのところでなかなか合格できなかった。
 北村さんは、新しい過労死遺族の支援を訴えたとき、自ら涙を抑えきれず嗚咽しながら訴えたこともあった。忘年会の二次会などで歌うカラオケは、「島人ぬ宝」や「島唄」など沖縄の歌が多かったように記憶している。まるで父親のように時には厳しく、時には優しく、人に寄り添える人だった。

◆北村さんの“遺言”となった歴史的文書
 そんな北村さんは、2007年2月、次のような一文を書いている。


    「過労死のない社会へ、行動を」─新しい段階を迎えた過労死家族の会の活動

                             大阪過労死を考える家族の会事務局 北村 仁
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1 はじめに
 「大阪過労死を考える家族の会」(以下、家族の会)が結成されたのは、1990年12月8日のことで、この12月8日は日本が、第二次世界大戦に突入した「真珠湾攻撃」の日です。労働現場が「戦場」化しつつあった当時、企業において戦死者をこれ以上出さないようにという遺族の願いで、この日に結成されたと、結成当時からの会員から聞きました。その願いも虚しく、現在の労働現場は、完全に「戦場」となっています。
 私自身は、2000年12月9日の、家族の会結成10周年「過労死を考える集い」からの参加になりますので、結成当時の事は、当時の資料あるいは結成当時から活動している遺族の方々から聞いて知っている範囲です。

 私も、働き過ぎによって命を落とすということについては無知であり、「よく働き、よく遊ぶ」ことを、男の美学と感じておりました。しかし、1999年9月23日深夜、急性心筋梗塞を発症し、生死の淵をさまようことで、人間は働き過ぎたら死ぬのだということを初めて思い知らされました。労災申請して認定された後、大阪過労死問題連絡会の先生に相談し、民事裁判を受任していただいてから、家族の会の仲間に加わり、存命の私が遺族の方々に励まされ、企業責任を問い、一定の成果を出すことが出来ました。その後、家族の会の世話人兼事務局員という形で、深く家族の会と関わるようになり、今では私のライフワークとなっています。

2 家族の会の活動の目的
 家族の会の目的として、下記の4つのことが規約で定められています。
(1) 本会は過労で倒れた本人とその家族或いは遺族の為に、労・公災認定の早期実現を目指すと共に、労・公災補償の改善と民事賠償に取り組む。
(2) 被災者の遺・家族及び被災者及び過労死に関心のある団体・個人とが手を結び、過労死の問題を広く社会にアピールしていく。
(3) 過労死の発生する社会的背景について、企業及び監督官庁の健康・安全管理等の問題点を明らかにし、過労死発生の予防に取り組む。
(4) 「家族」相互の情報交換を密にし、支え合い励まし合って連帯の輪を広げていく。
 以上の4点を柱に、実際の活動内容を要約すると「認定、裁判支援・認定基準、訴訟知識の学習・遺族及び支援者との交流・社会、行政へのアピール発信」等を、行っています。

3 学び合い、励まし合う交流の広がり
 1990年の結成からの10年間は、労災認定が非常に難しい10年間でした。この間の苦しい活動を通じて「過労死」という問題について広く社会に認知させ、2001年12月12日に「新・認定基準」に改定させるという大きな成果を得ることが出来ました。この認定基準の改定により、更に多くの遺族が救済されるようになりました。
 しかし、この頃から「過労死」に加え「過労自死」事案が急激に増えてきました。更に、結成当時は主に40歳後半か50歳代が中心であった被災者が、若い世代(20・30歳代)においても増大し、幼い子供を抱えた遺族、究極にはお父さんに抱かれたことがない遺児まで作ってしまうような時代になったのでした。毎月1回定期的に行っている家族の会例会にも、続々と若い遺族が加わるようになりました。
 
1997年で途切れていた遺族の交流会も2002年6月8日に大阪中央区の宿泊施設において「一泊学習交流会」という形で復活させ、2003年度の東大阪市で開かれた一泊学習交流会からは子供同伴可能の交流会になりました。大阪家族の会員以外の地域の遺族にも呼びかけ毎年約60名を越す参加者で恒例行事に位置づけられ、翌2004年度からは奈良県桜井市の国民年金保養所「大和路」に会場を移し現在に至っています。遠くは新潟・群馬・福岡他全国各地からも多くの遺族が参加されるようになり、交流は深夜に及びます。

 昨年(2006年)の交流会では、1日目に東京から過労死問題の第一人者の上畑鉄之丞先生を講師にお招きして学習を、2日目は「過労死グループ」と「過労自死グループ」と2グループに分け、アドバイザーの弁護士・医師・支援者の方々にも加わっていただき、グループミーティングを初めて行い、好評を得ることが出来ました。

 時代の流れも、アナログからデジタル時代に突入し、若い世代を中心に家族の会の情報をインターネットにより求めるようになって来ました。岩城先生からの勧めで、ホームページを作成することになり、講習に出かけ初心者の私が拙いホームページを立ち上げて早3年が過ぎました。ホームページからの相談に、大阪過労死問題連絡会の先生方に協力・支援を仰ぎ、過労死の認定を得ることが出来た方からの嬉しい報告が届いた時は、ホームページを立ち上げて本当に良かったと嬉しさがこみ上げてきました。大阪過労死を考えるホームページは、大阪過労死問題連絡会のホームページと共に、全国の遺族の駆け込み寺になっています。更に、過労死家族のメーリングリストも全国の過労死遺族の重要な交流の場になっています。

 2003年6月28日には、大阪過労死を考える家族の会労災・裁判支援基金を設立しました。賛同していただいた方からの浄財カンパで運用し、認定闘争に必要な資金支援の体制も出来上がりました。
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4 過労死・過労自死をなくすために行動する会へ
 過労死の認定基準が緩和されてきたといっても、まだまだ認定されないケースがたくさんあります。また過労自死の認定基準は実態に合わず、多くの過労自死遺族が涙を飲んでいます。これを打開するには、認定基準やその運用の改善がどうしても必要です。
 また、そのような改善を勝ち取るには、過労死・過労自死に対する世間の理解をもっともっと広げる必要があります。

 そこで、認定や勝訴を勝ち取り自分の事件が終わった遺族も一緒になって、認定基準やその運用の改善を求め、また世間に広く過労死・過労自死をなくそうと訴える活動に、会として取り組み始めました。
 毎年11月に全国家族の会として行っている厚生労働省交渉には、大阪を含め全国で闘っている多くの遺族が参加し、厚労省の担当者に直接訴えをしています。
 また、2003年からは年に数回、「過労死110番」の実施に合わせ、遺族が街頭に立ちマイクを握り、過労死のない社会の実現を目指し、遺族の体験を通行人に呼びかける活動を行うようになりました。
 2006年11月24・25日に上演した劇「あの子が死んだ朝」実行委員会の活動においても、遺族が広告塔となり色々な団体に過労死・過労自死について訴えに行き、取り組みの成功に大きな役割を果たしました。
 さらに、今導入されようとしているホワイトカラーエグゼンプションは「過労死促進法」であり、これが導入されると過労死・過労自死がますます増え、また倒れても本人の自己責任とされ労災認定も難しくなるといわれていることから、過労死遺族の中でも大きな不安と反対の声が広がっています。2006年11月22日には全国過労死を考える家族の会総会において緊急アピールを発し、また大阪でも、「働き方を考える大阪ネット」に結成準備から関わり、遺族がリレートークに積極的に加わるなど、過労死・過労自殺の悲惨さと、人間らしい働き方の大切さを訴える「語り部」としての活動を行っています。

 このように、過労死・過労自死の無い社会の実現を目指す活動の中心に遺族が主体的に活動に参加するようになったのは、大きな前進であると誇らしく思っています。遺族でなければ訴えられないことを、率先して主体的に遺族が訴え、過労死撲滅の先鋒として社会にメッセージを発することが出来る団体に成熟してきたと感じています。

5 家族の会へのいっそうのご支援を
 結成以来16年間の遺族の頑張りで、大きな成果を得てきましたが全員が救済されるということはありません。裁判闘争で勝ち取った判決を積み上げ、近年増加の一途である自死事案の認定基準、労働実態に合致した過労死認定基準の改定へと前進しなければなりません。
 結成当時の初心に戻り、『過労死撲滅』に向け更に前進すると共に、遺族のネットワークを密にし、共通の悲しみを持つ仲間の集団として「運動」+「癒し」が共存できる家族の会でなければならないと私は考えています。
 今後とも皆様からの、あたたかいご支援をお願い致します。
                    (民主法律268号・2007年2月より)


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◆北村さんの急死
 ところが、上記の文書を書いたわずか2か月後の2007年(平成19年)4月13日、北村さんは入院して検査を受けていた病院で突然心筋梗塞を発症して亡くなってしまったのである。周囲の私たちはもちろん、当の本人さえ、まったく予想だにしていないことであった。
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 たまたまこの日お見舞いに行こうとしていた寺西笑子さんたち5人と、訃報を聞いてかけつけた私たち4人は言葉にならないほどの衝撃を受けたが、北村さんには交流のある親族がおられなかったことから、寺西さんが「喪主代行」となって、いわば「家族の会葬」を行うことになったのである。

 4月15日の通夜と4月16日の告別式には、全国から実に約140人もの人たちが駆けつけた。お通夜では北村さんの柩の傍で、夜を徹して北村さんの死を悼み、思い出を語り合った。
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 北村さんが生前、「自分は大阪で人間として生まれ変わったので、大阪に骨を埋めたい」と話すのを聞いた遺族がいたことから、お骨は分骨し、4月13日に本骨を故郷の三重県尾鷲市にある実家のお墓に納骨し、分骨は6月6日、大阪の四天王寺に納骨する式を執り行った。

 ここでも、これまで親族以外の他人が「施主」になる例がなかったとのことで、当日お寺側と相当揉めたとのことである(当日私は出席できなかったが、松丸正弁護士が大活躍したと聞いている)。少し大げさに言えば、四天王寺開びゃく1300年の歴史の中で初めて、親族でない他の過労死遺族が施主になって、分骨の納骨が実現したのである。
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◆亡くなる直前に取材を受け、亡くなった後に出版された本で紹介
 北村さんは、経済ジャーナリストの岸宣仁氏から取材を受けていて、北村さんが亡くなった3か月半後に「職場砂漠 働きすぎの時代の悲劇」(朝日新書、2007年7月30日第1刷発行)が出版された。
 その中の「「OB」たちが支える全国家族の会」という見出しの文章の中で、北村さんについて次のように記述されている。

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(前略)
 鈴木会長(注、当時全国家族の会の会長であった鈴木美穂さんのこと)は名古屋の会の出身だが、メンバーが多いのは大阪と東京だ。なかでも大阪の活発な活動はつとに知られている。月1回の例会や各家族の裁判の傍聴支援、過労死・過労自殺・サービス残業110番の街頭宣伝活動への参加、年1回の泊まりがけの「一泊学習交流会」‥‥。大阪家族の会で事務局を担当していた北村仁(58歳、07年4月に急死)は生前、こう話していた。
 「小さな子供を抱えた奥さんが労災申請する場合は、まず生活の心配をする必要が出てきます。遺族年金だけだと金額が少ないですから。そういう場合は一発認定を取るために、専門家らの意見を聞いて行動しなければなりません。見ていると、とっかかりでミスしている人がいるので、そういう人に適切にアドバイスするのが家族の会の役割になってきます」
 北村は、自身が日本通運でドライバーをしていて、働きすぎで心筋梗塞を発症した経験の持ち主だった。ペースメーカーをつけているため再就職は無理。「それで時間があるので、会の活動にのめりこんでいった」と謙遜していたが、自身の体験でアドバイスできることがあれば、困っている人にその知恵を伝えたいと思っていたのだろう。
 各地の家族の会で中心メンバーになっているのは、北村のような人たちがほとんどだ。自分の闘いは終わり、労災認定や裁判勝訴の経験を持つ「OB」とでも呼んでいい人たちである。(以下略)

 著者の岸氏は、北村さんの急死を知って、驚いていたという。
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◆北村さん没後の10年を振り返って
 そんな北村さんが亡くなってから、10年が経とうとしている。
 北村さんの上記の「行動文書」は、まるで残された私たちへの遺言のように思われた。
 厚労省交渉など過労死家族の会の活動が全国で力強く広がり、全国的な交流も進んだ。
 2009年11月には寺西笑子さんが原告となって「過労死を出した企業名の公表を求める訴訟」を提起した(地裁では勝訴するも高裁・最高裁で敗訴)。

 更に2010年(平成22年)10月、全国過労死家族の会が主催して「過労死防止基本法の制定を求める院内集会」を行い、これを受けて2011年(平成23年)11月、「ストップ!過労死 過労死防止法制定実行委員会」を結成した。その後55万を超える署名、143に及ぶ地方自治体の意見書採択などの大運動を経て、ついに2014年(平成24年)6月、衆参両院の全員一致で「過労死等防止対策推進法」が可決・成立、同年11月に施行されたことは、周知のとおりである。
 その後、過労死防止大綱が制定され、先日は初めての過労死白書が発表された。全国のほとんどの都道府県で国主催の過労死防止シンポジウムが行われ、高校や大学での過労死防止の啓発授業が本格的に行われようとしている。
 そして、北村さんの死後、各地に新しい「家族の会」がいくつも結成されている。

 私は、この10年を振り返り、北村さんが広げようとした運動を全国の遺族たちが受け継いで発展させ、今の到達点があることを、改めて強く思う。
 ただ、その一方で、もし北村さんが生きて、この運動を一緒にやることができたら、今どんなに喜んでいるだろうと思うと、未だに悲しみと悔しさを振り払うことができないのである。

 ※写真は、上から順に、
 ①民事訴訟で和解が成立した日に(北村さん、上出恭子弁護士と私)(2003・4・3)
 ②大阪家族の会の一泊交流会で裏方を務める北村さん(2005・7・3)
 ③福岡地裁での金谷さん行政訴訟勝訴の日に(2006・4・12)
 ④和歌山の上田さんの勝利祝賀会の二次会にて(2006・4・15)
 ⑤名古屋の劇団希求座の劇「あの子が死んだ朝」の打ち上げ会にて(北村さんは最前列左端)(2006・11・26)
 ⑥大阪家族の会の忘年会で発言する北村さん(2006・12・20)
 ⑦民主法律協会主催「2007年権利討論集会」の懇親会にて(隣は寺西笑子さん)(2007・2・17)
 ⑧北村さんのお葬式の祭壇(2007・4・15)
 ⑨お通夜に駆けつけた人たち(2007・4・15)
 ⑩北村さんの柩(向かって奥)の傍で語り合う参列者たち(2007・4・15)
 ⑪告別式で挨拶をする私と寺西笑子さん(2007・4・16)
 ⑫北村さんが紹介された「職場砂漠」(岸 宣仁著・朝日新書)
 ⑬北村さんの三回忌にて(四天王寺)(2009・4・11)

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2016年10月10日 (月)

No.297 25年後に再び電通で若者が過労自殺──企業責任の重さと過労死防止の喫緊性

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◆史上初めての「過労死白書」の公表をトップで報じた10月8日付け朝日新聞記事のすぐ下に、電通に入社後わずか9か月足らずで過労自殺した女性社員の労災認定が報じられた。

電通の女性新入社員自殺、労災と認定 残業月105時間 朝日新聞デジタル 10月7日(金)21時50分配信

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 広告大手の電通に勤務していた女性新入社員(当時24)が昨年末に自殺したのは、長時間の過重労働が原因だったとして労災が認められた。遺族と代理人弁護士が7日、記者会見して明らかにした。電通では1991年にも入社2年目の男性社員が長時間労働が原因で自殺し、遺族が起こした裁判で最高裁が会社側の責任を認定。過労自殺で会社の責任を認める司法判断の流れをつくった。その電通で、若手社員の過労自殺が繰り返された。

 亡くなったのは、入社1年目だった高橋まつりさん。三田労働基準監督署(東京)が労災認定した。認定は9月30日付。

 高橋さんは東大文学部を卒業後、昨年4月に電通に入社。インターネット広告を担当するデジタル・アカウント部に配属された。代理人弁護士によると、10月以降に業務が大幅に増え、労基署が認定した高橋さんの1カ月(10月9日~11月7日)の時間外労働は約105時間にのぼった。
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 高橋さんは昨年12月25日、住んでいた都内の電通の女子寮で自殺。その前から、SNSで「死にたい」などのメッセージを同僚・友人らに送っていた。三田労基署は「仕事量が著しく増加し、時間外労働も大幅に増える状況になった」と認定し、心理的負荷による精神障害で過労自殺に至ったと結論づけた。

 電通は先月、インターネット広告業務で不正な取引があり、広告主に代金の過大請求を繰り返していたと発表した。担当部署が恒常的な人手不足に陥っていたと説明し、「現場を理解して人員配置すべきだった」として経営に責任があるとしていた。高橋さんが所属していたのも、ネット広告業務を扱う部署だった。

 電通は00年の最高裁判決以降、社員の出退勤時間の管理を徹底するなどとしていたが、過労自殺の再発を防げなかった。代理人弁護士によると、電通は労基署に届け出た時間外労働の上限を超えないように、「勤務状況報告書」を作成するよう社員に指導していたという。電通は「社員の自殺については厳粛に受け止めている。労災認定については内容を把握していないので、コメントは差し控える」としている。(千葉卓朗)


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 高橋さんが亡くなる前にSNSに行ったとされる書き込みや、記者会見に臨むお母さんを見ていると、無念の涙を抑えることができない。

◆この件については、既にあちこちで紹介・論評がなされているが、私なりに思うことを何点か書いておきたい。

①25年前にも若者の過労自殺を発生させながら、今回再び同様の事件を引き起こした電通の責任の重大性
 電通では、1991年にも入社2年目の24歳の男性社員が過労自殺し、両親が民事訴訟を起こし、東京地裁(平成8年3月28日原告勝訴判決)→東京高裁(平成9年9月26日原告一部勝訴判決)→最高裁(平成12年3月24日原告敗訴部分破棄差戻し判決)→東京高裁(平成12年6月23日和解成立)、という経過をたどった。
 この和解において、電通は遺族に謝罪し、過失相殺なしの賠償金全額を遺族に支払い、同社はその後労働時間管理を徹底しているとされていた。
 しかし、今回の事例も、膨大な仕事量と長時間労働によって高橋さんは精神障害を発症し、過労自殺に至っている。
 広告業界の最大手で日本の代表的な企業でありながら、25年後に再び同様の過労自殺事件を引き起こした電通の責任は、極めて重大というほかない。
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②前回の事件以降、多数の裁判例や認定基準の制定・改定、過労死防止法や大綱の制定が行われてきたにもかかわらず本件の発生を防止できなかったことの痛恨さ
 1988年の「過労死110番」開設以降、全国の過労死遺族や弁護団が、上記の裁判を含めた多数の過労死・過労自殺の労災認定を求める裁判や企業責任を追及する裁判などに取り組み、過労死・過労自殺の労災認定基準の改正や勝訴判決を積み重ねてきた。また、2010年から過労死を防止する法律の制定運動に取り組み、2014年6月「過労死等防止対策推進法」(過労死防止法)が制定され、2015年7月には「過労死等防止対策大綱」が閣議決定されるなど、過労死防止に向けた取り組みが本格的に始まっている。
 その間、「日本海庄や」や「ワタミ」での過労死・過労自殺事件が社会的な批判を浴びてきたが、それに追い討ちをかけるような今回の過労自殺の発生は、痛恨の極みである。
 このことは、法律や大綱ができただけで過労死・過労自殺がなくなることはなく、日本社会全体を変えていかなければならないことを示している。

③高校・大学等での過労死問題や自らを守るワークルールについての教育の重要性
 上記にも関連するが、高橋さんは東大文学部を卒業して電通に就職したのであるが、これまで高校や大学で、過労死・過労自殺についての知識や、自らを守るワークルールについてしっかりと学ぶ場を与えられていたら、違った結果になっていたのではないかと思わずにいられない。
 前回の過労死事件が発生したときは、高橋さんはまだ生まれていなかった。その後の25年間で、彼女が過労死の恐ろしさを学び、自らの働き方を問う教育、また職場で過労死を防止できるだけの啓発が行われていたら、彼女は自ら助けを求め、また周囲が彼女を救うことができたかもしれない。
 今年の秋以降、全国の高校等で過労死防止とワークルールについての啓発授業が一定の予算措置を伴って行われていくことになっている。このような悲しい事件が、今度こそ最後になるよう、私も力を尽くしていきたいと思う次第である。

 ※画像は上から、
 ① 高橋まつりさんの写真(ニュース報道より)
 ②・③ 高橋さんの過労自殺の労災認定を報じた朝日新聞記事(2016・10・8付)
 ④ 高橋さんの死亡前のSNSの書き込み(毎日新聞より)
 ⑤ 高橋さんの両親と川人博弁護士の記者会見

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2016年3月24日 (木)

No.279 公立病院のパワハラ上司は、個人責任を負わない──公立八鹿病院事件で最高裁が原告の上告を不受理

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 新人医師が長時間過密労働と上司のパワハラでうつ病を発症し、赴任してわずか70日後に自殺した事件(公立八鹿病院34歳青年医師パワハラ自殺事件)について、1審の鳥取地裁米子支部平成26年5月26日判決、2審の広島高裁松江支部平成27年3月18日判決が揃って「判例時報」に掲載されたことを、3月15日付けの本ブログで紹介したが、そのわずか2日後の3月17日、最高裁から、「上告棄却・上告不受理決定書」が届いた(3月16日付け。なお、病院側からも上告受理申立がされていたが、同様の決定がなされた)。

 そこに書かれているのは、「法定の上告理由に該当しない」、「受理すべきものとは認められない」という、定型の「三行半」の文章だけであり、なぜそうなのかについての理由は一切書かれていない。
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 パワハラによって新人医師をわずか赴任後70日で過労自殺に追いやった上司の医師に対して、国家賠償法の適用を根拠に個人責任を認めないのは不当であるとして、私たちは上告受理申立を行った。
 提出した30ページの上告受理申立理由書には、53人の弁護士が代理人に名を連ねた。また、立命館大学大学院法務研究科の松本克美教授が書いてくださった33ページに及ぶ意見書を提出し、さらに、医師、医療関係者、一般市民の皆さんから寄せられた80人の意見書も提出したにもかかわらず、この結果であった。

 民間病院であればパワハラ上司も当然個人責任を負わされるのに、公立病院だという理由だけで免罪・免責されてよいのか。高裁判決の理屈に立てば、例えば国公立大学の教授がセクハラをしても、それが「その職務を行うについて行ったもの」と認められれば、個人責任を負わなくてよいことになる。こんな、誰が見ても聞いてもおかしいことについて、最高裁は何の説明もせず、問答無用の決定をしたのである。
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 私たちの訴えが「箸にも棒にもかからない」とまでいえない以上、せめて何らかの理由を述べるべきではないか。しかも、地裁の印紙代の2倍もの高額な印紙代(50万8000円)を貼らされているのである。
 これが、民主国家の最高裁判所といえるのか。このような最高裁の理不尽な対応に対する悔しい思いは、いつものこととはいえ、今回はひときわ悔しい。

 とはいえ、原告であったご両親が、「息子の為に、私達夫婦家族の納得の為に、やれるだけの事は全てやったという満足感に満たされています」「最高裁が双方棄却でも、地裁・高裁とも勝訴であり、輝かしい結果を獲得した満足のいく裁判でした。ここまでやれば、やり残して後悔する事は何もありません。」とおっしゃってくれていることに、救われる思いである。

 以下は、NHKのニュースである。

勤務医自殺 病院に1億円余の賠償命令が確定

NHK NEWS WEB 3月18日 20時30分

 兵庫県の病院の勤務医が自殺したことを巡り、鳥取県の両親がパワーハラスメントなどが原因だと訴えた裁判で、最高裁判所は上告を退ける決定を出し、病院に1億円余りの賠償を命じた判決が確定しました。

 9年前、兵庫県養父市の「公立八鹿病院」に勤めていた当時34歳の男性医師がうつ病になって自殺したことを巡り、鳥取県米子市に住む両親は、当時の上司のパワーハラスメントや長時間の労働が原因だとして、病院と上司2人に賠償を求める裁判を起こしました。
 1審の鳥取地方裁判所米子支部と2審の広島高等裁判所松江支部は、いずれもパワーハラスメントや長時間の時間外労働が自殺の原因だと認めました。
 1審が病院と当時の上司に8000万円余りの賠償を命じたのに対して、2審は賠償額を1億円余りとした一方、「職務上の行為について公務員個人に賠償責任を負わせることはできない」として、病院にだけ賠償を命じ、双方が上告しました。
これについて最高裁判所第2小法廷の山本庸幸裁判長は、18日までに双方の上告を退ける決定を出し、病院に1億円余りの賠償を命じた2審の判決が確定しました。

 ※画像は上から、
 ①今回の最高裁決定
 ②最高裁の外観
 ③最高裁判所大ホールにあるブロンズ像。ギリシャ神話に出てくる法の女神テミスに由来するものであるといわれ,右手には正邪【せいじゃ】を断ずる剣を掲げ,左手には衡平【こうへい】を表す秤【はかり】を持っている。(裁判所のホームページより)
 

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2016年3月15日 (火)

No.277 公立八鹿病院事件の高裁・地裁判決が「判例時報」に掲載!

 新人医師が長時間過密労働と上司のパワハラでうつ病を発症し、赴任してわずか70日後に自殺した事件(公立八鹿病院34歳青年医師パワハラ自殺事件)について、1審・鳥取地裁米子支部平成26年5月26日判決、2審・広島高裁松江支部平成27年3月18日判決が下されたことは、それぞれについて紹介したところである(地裁判決につき「No.189 新人医師のパワハラ自殺事件で勝訴!──鳥取地裁米子支部で判決と記者会見」、高裁判決につき「No.230 新人医師のパワハラ自殺事件、控訴審判決は「過失相殺ゼロ」と判断!」)。

 これらについては、既に判例雑誌「労働判例」に掲載されている(地裁判決につき労働判例1099号5頁以下、高裁判決につき同1118号25頁以下)。
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 そして、今般、「判例時報」2281号(平成28年3月11日号)にも、これらの両判決が掲載された(高裁判決につき43頁以下、地裁判決につき同55頁以下)。

 「判例時報」は日本で最も権威のある判例雑誌であるうえ、2つの判決が同時に掲載されることで、その違いを比較できるとともに、高裁判決で引用している地裁判決の該当箇所も参照することができるので、ありがたく思っている。
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 なお、本件は、高裁判決が、パワハラを行った上司である医師の個人責任を、国家賠償法が適用されることを理由に認めなかったことから、最高裁に上告受理申立を行い、現在結果待ちの状態である。

 この点について、今回の判例時報の「コメント」欄には、「公立病院の診療行為については、私経済活動であるとして国賠法の適用がないと介されているが(最一判昭57・4・1民集36・4・519等)、公立病院内部における医師・職員の任用・雇用関係及びこれに付随する安全配慮義務の履行に関して、その実態は民間病院と異ならないとした一審と、公務員関係としての規律を重視した本件判決とで判断が分かれた。Xらは、この点を不服として上告をしており、最高裁の判断が待たれる。」と記載されている。

 最高裁には、ぜひ我々の上告を受理して口頭弁論を開き、パワハラ医師の個人責任を認めてほしいと願っている。

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2015年8月16日 (日)

No.251 和歌山の介護老人施設職員過労死事件で勝訴判決!

1 勝訴判決

 和歌山県の広川町の介護老人福祉施設で勤務していた男性職員(当時49歳)のK・Sさんがクモ膜下出血を発症して死亡した事件の民事訴訟で、2015年8月10日、次の新聞記事のとおり、和歌山地裁で勝訴判決を得ることができた(弁護団は林裕悟、舟木一弘弁護士と私)。

◆職員死亡「過労が原因」施設側に7千万賠償命令

読売新聞 8月11日付
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 和歌山県広川町の介護老人福祉施設の男性職員(当時49歳)がくも膜下出血で死亡したのは過労が原因として、遺族が、施設を運営する社会福祉法人などに約8300万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が10日、和歌山地裁であった。

 山下隼人裁判官は、男性が死亡直前の4か月間に月約90~150時間の長時間労働をしていたと指摘し、施設側に約7000万円の支払いを命じた。

 判決によると、男性は2003年から、「和歌山ひまわり会」が運営する施設「広川苑」に経理担当者として勤務。同僚職員の退職に伴って09年9月頃から業務量が増加し、10年10月に死亡した。遺族は12年3月に提訴していた。

 判決で山下裁判官は、厚生労働省の基準に照らして「著しい疲労の蓄積をもたらす過重な業務に就いていた」と言及し、「施設側は、男性の業務内容や業務量を適切に調整する措置を採らなかった」と述べた。

 また、男性が働き続けていた場合、時間外労働が継続した可能性が高いとして、月45時間分の時間外手当(月額約9万5000円)も逸失利益として賠償額を算定した。遺族側代理人の弁護士によると、こうした判断は異例という。

◆4カ月の平均時間外労働116時間 介護施設勤務の男性「過労死」認定、7千万円賠償命令 和歌山地裁
産経新聞8月11日付
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 和歌山県広川町の介護老人福祉施設で勤務していた男性=当時(49)=がくも膜下出血で死亡したのは過労が原因として、遺族が施設を運営する社会福祉法人「和歌山ひまわり会」などに約8390万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が10日、和歌山地裁であった。

 山下隼人裁判官は「くも膜下出血と業務との間には因果関係がある」と過労死を認定した上で、男性の心身の健康への注意義務を怠ったとして約6980万円の支払いを命じた。

 判決によると、男性は平成15年から施設の事務管理室長として勤務。同僚2人が退職してからは業務が増加し、22年10月にくも膜下出血で死亡した。発症前4カ月の月平均の時間外労働は約116時間で、御坊労働基準監督署は23年6月、男性の死亡が業務に起因すると判断し遺族補償年金の支給を決定していた。

 判決を受け男性の妻(53)は「全面的に認められて感謝しているが、夫は2度と帰ってこない」と涙をぬぐった。同施設は「判決文を精査し対応を決める」とコメントした。

 過労死問題をめぐっては、過労死防止基本法の制定を国に求める意見書を遺族らが提出し、25年12月に同県有田川町議会で採択された。その後、26年11月に「過労死等防止対策推進法」が施行され、今年7月には同法に基づく対策大綱が閣議決定された。

 遺族は「過労死ゼロを目指して、雇用者に過労死について関心を持ってもらいたい」と力を込めた。

2 本判決の画期的な点
 この判決は、法的な点では、以下の2点で画期的と考えている。
(1)過失相殺を認めなかったこと
 過労死事件でも過労自殺事件でも、民事訴訟になると、何かと理由をつけて過失相殺や素因減額がなされることが多い。本件でも被告側は、①被災者は健康診断で脂質異常を指摘されていたこと、②相当程度の飲酒と喫煙を続けていたことなどを挙げて、相当程度の過失相殺を主張したが、裁判所はこれを排斥し、過失相殺を認めなかった。
(2)逸失利益の計算に当たって月45時間分の時間外手当を基礎収入に含めたこと
 判決の該当部分を引用する。
 「別紙労働時間一覧表〔裁判所認定〕のとおり、Sは、くも膜下出血を発症して死亡する前、1月当たり90時間を超える時間外労働をしていたものであるところ、被告ひまわり会から時間外手当の至急を受けていなかったものの、上記のとおり労働基準法41条2号所定の管理監督者に該当しない以上、時間外手当を請求することができたものであり、また、Sの死亡前の稼働状況に照らすと、Sが将来的にも時間外労働を継続した蓋然性が高いというべきであるから、Sの逸失利益を算定する際の基礎収入については、時間外手当分も考慮するのが相当である。
 もっとも、Sが就労可能年数にわたって1か月当たり90時間以上の時間外労働を続けることができたとは考えがたいところ、脳・心臓疾患認定基準において、脳・心臓疾患の業務起因性に関して、1か月あたりおおむね45時間を超える時間外労働が認められない場合には業務と発症との関連性が弱いとされていることを考慮すると、Sが継続することができた時間外労働は1か月当たり45時間程度であったと考えるのが合理的であるから、1か月当たり45時間分の限度で時間外手当を基礎収入に含めるのが相当である。」

 被災者が過労死直前まで長時間のサービス残業を余儀なくされていたケースは多いが、本来支払われるべきであった残業手当相当額を逸失利益計算の基礎収入に加えるべきか、加える場合どの程度の時間数分を加えるべきかについて、これまで取り上げた裁判例は見当たらなかった。本件で弁護団がこの点を強く主張したところ、裁判所が認めてくれたものである。

3 過労死をなくす取り組みでも頑張ってきたKさん
 Sさんが亡くなった2010年10月13日は、くしくも、過労死を防止する法律の制定を求めて、全国過労死を考える家族の会が初めて衆議院議員会館で「院内集会」を開催した日であった。

 Sさんの妻のKさんは、2010年11月に御坊労基署に労災申請後、「大阪過労死家族の会」に入会し、過労死問題は社会問題であることを知った。2011年11月から本格的に始まった「過労死防止基本法」制定の取り組みでも頑張り、2013年12月には、Kさんの働きかけを受けて、有田川町議会(12月10日)、和歌山県議会・和歌山市議会(いずれも12月19日)で「過労死防止基本法の制定を求める意見書」が全会一致で採択されたのである(「No.159 「過労死防止基本法の制定を求める意見書」を和歌山県と和歌山市が同時採択!」参照)。
 そして、その後Kさんは、過労死防止全国センターと大阪センターの幹事に就任され、さらに今年4月には大阪過労死家族の会の代表に就任されたのである。
 そんな頑張り屋のKさんがこのような勝訴判決を勝ち取ったということで、私にとって嬉しさも格別なのである。

4 控訴され、舞台は大阪高裁へ
 もっとも、この判決に対して被告らは控訴し、舞台は大阪高裁に移ることになった。
 気を引き締めて、さらに頑張っていきたい。


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2015年3月18日 (水)

No.230 新人医師のパワハラ自殺事件、控訴審判決は「過失相殺ゼロ」と判断!

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◆控訴審判決の言渡し
 新人医師が長時間過密労働と上司のパワハラでうつ病を発症し、赴任してわずか70日後に自殺したという事案(公立八鹿病院34歳青年医師パワハラ自殺事件)で、昨年5月26日に鳥取地裁米子支部で判決があったことは、「No.189 新人医師のパワハラ自殺事件で勝訴!──鳥取地裁米子支部で判決と記者会見」で紹介したとおりである。
 これに対して、双方が控訴して争われていたが、本日3月18日、控訴審判決が広島高裁松江支部で言い渡された。

◆主な争点と一審判決の判断
 判決書で整理・認定された争点は5点であるが、今後の先例となり得る重要な争点は、次の3点である。

 (1) 被告らの予見可能性の有無の判断基準
 被告側は、少なくとも何らかの精神疾患の発症を予見し得たことが必要であり、被告らはそれを予見できなかったと主張し、原告側は、心身の健康を害するような労働環境にあったことを認識していれば十分であると主張したのに対し、一審判決は、判断基準は被告の主張を採用しつつ、被告らは何らかの精神疾患の発症を予見し得たと認定していた。

 (2) 過失相殺の可否と割合
 被告側は大幅な過失相殺を主張し、原告側は過失相殺は認められるべきでないと主張したのに対し、一審判決は、被災者自身医師であったのに精神科医を受診するなどしていないことや、周囲の人たちに対して「大丈夫です」と述べていたことなどから、過失相殺として2割を減額していた。

 (3) パワハラ上司の個人責任の有無
 被告側は、パワハラを行った上司ら(D、E)は公務員であるから、公務員は個人責任を負わないとする国家賠償法が適用され個人責任は負わないと主張し、原告側は、本件病院は民間病院と実態は変わらないから国家賠償法は適用されず、上司個人も民法の不法行為責任を負うと主張したのに対し、一審判決は原告側の主張を認め、上司らの個人責任を認容していた。
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◆控訴審判決の判断

 (1) 予見可能性について
 控訴審判決は、原告の主張を容れ、「精神疾患の発症など専門的な判断を要する事項まで予見し得なくても、その労働環境等に照らし心身の健康を損なう恐れがあることを具体的かつ客観的に認識し得た場合」には予見可能性が認められるとした。そのうえで、本件では、被告はこれを具体的かつ客観的に認識し得たとした。この点は、高く評価することができる。

 (2) 過失相殺について
 控訴審判決は、いわゆる電通事件最高裁判決(最高裁平成12年3月24日判決)に基づいて、「労働者の性格が(同種の業務に従事する労働者の個性の多様さとして通常想定される)範囲を外れるものでない場合には、業務の負担が過重であることを原因とする損害賠償請求において使用者の賠償すべき額を決定するに当たり、被害者の性格及びこれに基づく業務遂行の態様等を心因的要因としてしんしゃくすることはできない」とした上で、被災者の能力や性格等の心因的要素が通常想定される範囲を外れるものであったとは認められないとした。
 また、ちょうど1年前の東芝事件最高裁判決(最高裁平成27年3月24日判決)に基づいて、「労働者にとって過重な業務が続く中でその体調の変化が看取される場合には、体調の異変等について労働者本人からの積極的な申告は期待し難いものであって、このことを踏まえた上で、必要に応じた業務軽減などの労働者への心身の健康への配慮に努める必要がある」から、被災者が本件疾病を発症する前に、責任感から自ら職務を放棄したり、転属を願い出る等しなかったことを捉えて、被災者の落ち度ということはできないとした。
 そして、それ以外の被告側が挙げていた過失相殺の事情をすべて否定し、過失相殺又は素因減額は認められないとしたのである。
 この点についても、当方の主張が全面的に取り入れられたものであり、高く評価したい。

 (3) 上司の個人責任について
 もっとも、上司の個人責任の点については、控訴審判決は、「公立病院における医師を含めた職員の継続的な任用関係は、特別職を含め全体の奉仕者として民主的な規律に服すべき公務員関係の一環をなすもので、民間の雇用関係とは自ずと異なる法的性質を有するというべきであり、これら公務員に対する指揮監督ないし安全管理作用も国賠法1条1項にいう「公権力の行使」に該当するというべきである。」とした。
 そして、「1審被告D及び同Eの被災者に対するパワハラはその職務について行ったものであり、1審被告組合には国賠法1条に基づく責任が認められることから、1審被告D及び同Eは個人としての不法行為責任を負わないというべき」であるとしたのである。

 この点については、到底承服することはできない。
 ①まず、上記の前段(「任用関係」や「全体の奉仕者」論)は、かつての「特別権力関係理論」を想起させるものであり、現在の流れ(公務員を特別扱いしない、公務と民間の競争や相互乗り入れなど)にも反するし、「民間の雇用関係とは異なる法的性質を有する」からといって、なぜ「国賠法1条1項にいう「公権力の行使」に該当する」のかの説明はなされていない。
 ②また、「D、Eのパワハラはその職務について行ったもの」とする点にも、違和感を感じる。本件では加害上司は患者の前で罵倒したり暴力を振るったりまでしており、完全な違法行為であるのに、責任を問われないというのである。これが「民主的な規律に服すべき公務員関係」の名のもとに免責されるのであれば、国民はおよそ納得できないのではないか。
 ③さらに、このようなパワハラが個人責任を問われないのであれば、いじめやセクハラ全般に広げられることにならざるを得ない。例えば、民間のセクハラ上司は責任追及されるのに、公務員のセクハラは責任追及されないのか。このような差別に、どのような合理性があるというのだろうか。

◆今後について
 このように、控訴審判決には画期的な判断と、1審判決よりも後退した点が含まれている。
 不満な点について最高裁に上告して判断を求めるかどうか、これから原告ご家族と弁護団で慎重に検討していきたい。
 いずれにせよ、踏み込んで判断して下さった高裁の裁判官の皆様に、心から敬意を表したい。


 ※写真上‥‥鳥取県庁の記者クラブ室から見える、雨の松江城
      下‥‥記者会見後の記念撮影(弁護団3人だけを切り取っています。左から私、中森俊久、林裕悟弁護士)


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2014年10月12日 (日)

No.211 宮崎ホンダ23歳青年過労自殺事件、民事訴訟でも証人尋問──問われる裁判所の「眼力」

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 23歳のホンダの整備士が転勤後4か月余りで自殺した事件(No.69 宮崎の地で、過労自殺行政訴訟を提訴)で、宮崎地裁で行政訴訟と民事訴訟が並行して進められているが、6月16、27日の行政訴訟での尋問(No.195 過労自殺させた会社と、防止できなかった労基署の「醜い野合」)に続いて、10月6日、民事訴訟でも関係者の尋問が終日行われた。
 行訴の8人に対し、民訴は6人で、全員が行訴で尋問された証人である。このように、並行して進められる行訴・民訴の両方で、このように全面的に尋問が行われるのは珍しい。

 といっても、原告の桐木弘子さん以外の5人はすべて会社側の証人である。このような敵性証人によって過重性やパワハラを立証しなければならないこと自体に、過労死・過労自殺問題の本質が表れている。

 予想していたことであるが、先日の行訴の証人尋問で多少とも国(=会社)側に不利な証言をしてしまった証人たちが、明らかにそれをカバーしようと、「先日の(行訴での)尋問では‥‥と言いましたが、その意味は‥‥でした」といった風に、主尋問で極めて流暢に説明を始めた。
 しかし、反対尋問で、恐らく証人が予想していなかったことを尋ねると、急に中空を見つめ、言葉を選びながらの慎重な証言になった。痛いところを突かれると、足を忙しく動かしていたと、傍聴に来てくれた人たちが口を揃えて話してくれた。

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 会社が労働時間の管理をきちんと行っていないと労働時間の立証は困難であり、パワハラについても、録音やビデオでもない限り立証は困難である。
 そして、職場の上司や同僚がすべて口裏を合わせ、肝心の本人は死んでしまっているので証言は不可能である。
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 そうなると会社側は、「本人の借金が原因ではないか」「家族関係に問題があった」「もともと脆弱(ぜいじゃく)であった」「大した仕事もしていなかった」など、文字どおり言いたい放題である。
 会社ぐるみで個人を押しつぶす。そんな不公平な企業社会の理不尽さが、法廷にも持ち込まれる。そのような法廷で、裁判所は会社内で起こった真実を見抜く「眼力」を持っているだろうか。

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 私たち過労死事件に取り組む弁護士は、全力で闘っては裏切られ、また闘っては裏切られるということを繰り返してきた(もちろん、過労死事件だけでなく、労働事件や労災事件、さらには消費者事件や国を被告とする事件などもそうである)。その最大の原因は、裁判官たちの「世間の現状の追認」と「悪慣れ」にあると思う。

 本件で行政訴訟を担当する宮崎地裁民事1部(内藤裕之,竹内るい,金友宏平)、民事訴訟を担当する同第2部(末吉幹和,古賀英武,芹澤美知太郎)の裁判官の方々が、真実を見抜く「眼力」を発揮してくれることを、心から願う次第である。

 写真は、上から
 ①宮崎地裁の建物(裁判所HPより)
 ②尋問終了後、傍聴者の皆さんと
 ③尋問後の食事会でのお刺身
 ④名物のハモの炭火焼きを焼いてくれる桐木弘子さんとSさん(妹)


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2014年6月29日 (日)

No.196 集中証人尋問の打ち上げと、宮崎一日ツアー

前回の投稿で紹介した2回目の集中証人尋問が終了した後、被災者のご家族(お母さんと妹さん)が、打ち上げの夕食会を持って下さった。
 場所は「ふるさと料理 杉の子」という、成見弁護士の事務所の向かい側のお店であった。
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 ご家族、弁護団のほか、被災者の友人の2人、大阪過労死家族の会からの傍聴者3人、今私のもとで弁護修習をしている修習生のYさん、さらに地元宮崎の西田隆二・北川貴史両弁護士も参加して、大いに盛り上がった。西田さんは私の3期下(43期)で、過労死弁護団のメンバーで「過労死110番」の電話相談では一貫して宮崎の窓口を務めて来られ、県の弁護士会の会長も歴任された、とても頼もしく、愉快な先生である。北川さんは西田さんと同じ事務所で、「韓流弁護士」(笑)と呼ばれているとのことである。

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 お料理もとってもおいしくて、宮崎の味を堪能させていただいた。初めて食べたのは「旭カニ」。小さなカニだが、身が詰まっていて、ミソもとてもおいしかった。
 お酒も、地元で有名という「綾錦」を竹の筒に入れた熱燗(名前を失念してしまった)が、竹の香りが心地よくおいしかった。また、焼酎では「霧島」シリーズで初めて「茜霧島」というのをいただいた。後で調べると、この6月18日に発売されたばかりの超レア物ではないか。味もフルーティで最高だった。

 ほぼ全員が異動した二次会(スナック)では、カラオケで盛り上がった。皆さんお上手だったが、私のところで修習している修習生のYさんが、私の好きな「Let It Go」(アニメ「アナと雪の女王」の主題歌)を歌ってくれたので、大満足でした(ちなみに、Yさんは実はセミプロの歌手で、予想どおりその歌唱力はハンパではありませんでした)。
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 その後さらに地元弁護士の西田さんと北川さんには、瓦井さんと一緒に、地元で有名な「宝来」というラーメン店にまで連れていっていただいた。スープがとてもまろやかで、不思議な魅力を持った味であった。ぜひ、また来たいと思う。


◆翌6月28日は、前日までのどしゃ降りの雨と打って変わっての快晴の中、被災者のお母さんの運転で、宮崎一日ツアーを楽しんだ。
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 まずは、北の方にある「酒泉の杜」という、お酒のテーマパーク。面白いのは、ワイン、焼酎、日本酒、ウイスキーなどあらゆるお酒を店内で自由に試飲したり、飲み比べたりできるのである。一見太っ腹だが、よく考えると営業効果抜群であり(酔っぱらうと気持ちも大きくなる)、実際いくつもお酒を買い込んでしまった)、もっとあちこちで行われてもいいように思った。
 それ以外にも、ガラス工芸のお店を見学したり、「甘乳蘇ソフトクリームを楽しんだりした。

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 次に行ったのは、今度は南の方にある青島という小さな半島。お昼は「岩見」というお店で、定番という「魚すし」と「釜上げうどん」をいただいた。どちらも本当においしかった。値段もリーズナブルで、ほっこりした気分になった。読売ジャイアンツのキャンプ地に近いために馴染みがあるようで、原辰徳監督の昔の写真などが飾っていた。
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 続いて、近くにある青島と青島神社へ。私は初めてだが、宮崎の有名な観光地でありスポットとのことである。
「鬼の洗濯板」と呼ばれる珍しい波状岩は、まさに芸術的である。
 青島神社は、よくある地味な神社ではなく、結構「商売っ気」があり、アベック(もしかして今は死語?)や家族連れで来ても楽しめる、明るい雰囲気を持っていて、楽しかった。
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 青島神社を出た後、美しい日南海岸のドライブを楽しみながら、宮崎空港へ到着したのは、午後6時ころになっていた。

 これまで、この事件の関係で何度か宮崎には来ていたが、こんな形で一日ツアーが楽しんだのは初めてだった。2回にわたる証人尋問が終わった解放感と、一気に晴れ上がった快晴の中、思い出深いツアーとなった。
 Kさん、ありがとうございました。
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 ※写真は、上から、
 ①旭カニ
 ②茜霧島のボトル
 ③「宝来」のラーメン

 ④酒泉の杜(試飲テーブル)
 ⑤「岩見」の魚すし

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 ⑥青島神社の鳥居
 ⑦巨人選手の願掛け絵馬(左上の原辰徳監督以下、有名選手がズラリ。なお、これは5、6枚あるうちの1枚である。)
 ⑧青島神社内にて
 ⑨日南海岸


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