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カテゴリー「3-1 働き方・過労死一般」の32件の記事

2017年8月14日 (月)

No.322 「かいじゅうの会 in 池の平」に参加してきました

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 8月8日~10日の2泊3日で、長野県の池の平(白樺湖畔)で行われた「かいじゅうの会」に参加してきた。
 「かいじゅうの会」とは、「過労死遺児交流会」の愛称で、全国過労死家族の会の会員の遺児(大学生程度まで)とその保護者を対象に、平成28年度から国の事業として行われることになり、今回が2回目である。
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 通常、過労死・過労自死は突然起こり、遺された配偶者(親)は精神的・経済的な困難、一人での子育ての困難、更には労災申請や裁判などの困難を抱えるが、子どもたちもそれまでの暮らしを突然奪われ、悲しみや不安、恐れなどによって成長上、大きなダメージを受ける。また、レジャーなどで外に遊びに出る機会も減る。
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 そこで、同じ体験を持つ親子が集まり、子どもたちは年齢を超えて交流しあい、親たちも専門家の助言も受けながら、子育てや労災の苦労を語り合う場として、「遺児交流会」が始まったのである。
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 もともとは、2002年から始まった年1回の「大阪過労死家族の会一泊交流会」に子ども連れで参加した遺族のために、2004年ころから交流会の一部として遺児交流のプログラムが始まったが、2008年ころから「遺児交流会」として独立して行われるようになった(たぶん、2008年3月の東京ディズニーランド行き(10家族26人)が最初ではなかったかと思う)。
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 そして、2014年に過労死等防止対策推進法(過労死防止法)が成立し、過労死等防止対策の一つである民間団体支援の一環として、2016年度から国の事業として行われることになった。私は今回、初めて準備委員として参加したのである。
 長年、過労死遺族の交流や遺児交流に関わってきた私にとって、感無量だった。
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 初回となる前回(2016年12月25日~27日)は、山梨県の清里でスキー体験が中心だったが、今回は夏に長野県の池の平(白樺湖畔)で行われた。
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 参加者の多くは東京駅と名古屋駅にそれぞれ集合し、バスで宿泊会場の池の平ホテルに向かった。私は名古屋組に加わってバスに乗ったが、バスの中でもビンゴゲームをしたりアニメのDVDを観たりと、子どもたちは大喜びだった。
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 1日目の夜は参加者の自己紹介と花火見学、メインの2日目は子どもたちはカヌー(午前)と乗馬・釣り(午後)、親たちはグループトークと希望者に対する個別相談、昼食は参加者全員でバーベキュー、夕方はマジックショーとクロージングセレモニー、という充実したメニューだった。
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 私は親たちとのグループトークや個別相談に参加したので、屋外でのアクティビティには参加できなかったが、子どもたちはすぐに仲良くなり、年上の子が年下の子の世話をするなど、昔の子ども会のような和気あいあいとした雰囲気で、胸が熱くなった。
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 親たちのグループトークでは、それぞれの自己紹介と体験を語り合い、お互いに励まし合っていた。私は個別の法律相談を担当し、2人の方の相談を受けた。
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 参加した家族は20家族くらいで、私たち準備委員や厚労省の担当者、学生ボランティア、受託事業者のプロセスユニークの人たちも加えると、総勢70人くらいだっただろうか。
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 2日目の夜のイベント終了後、一部の親御さん、準備委員、ボランティアやプロセスユニークの人たちと事実上の打ち上げ会をして、遅くまで語り合ったのも楽しかった。
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 楽しい2日間はあっという間に過ぎ、3日目の朝、みんなでお別れをするのは少し寂しかったが、また来年、一回り成長した子どもたちや、元気な親たちに会えることを楽しみにしたい。
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 ※画像は上から
 ①今回のかいじゅうの会のしおり 表紙
 ②同 保護者向けプログラム
 ③同 スケジュール
 ④家族の会一泊交流会での遺児交流の一コマ(2005年7月)
(1日目)
 ⑤バスに乗って出発
 ⑥社内でのビンゴゲーム
 ⑦自己紹介(オープニングセレモニー)
 ⑧花火
(2日目)
 ⑨グループトーク
 ⑩・⑪お昼のバーベキュー
 ⑫マジックショー
 ⑬残念だけど、帰りのバスへ
 ⑭車窓からの白樺湖

 (なお、参加者の顔にはモザイクを施してあります。)

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2017年5月 5日 (金)

No.319 3年ぶりのメーデー参加の雑感

 5月1日、3年ぶりにメーデーに参加した。私が2年前まで所属していたあべの総合法律事務所では、5月1日が平日の場合には事務所としてメーデーに参加し、デモ行進解散後に食事会をするという伝統(?)があり、新事務所開設後も受け継ぐ予定だったが、2年前は私だけが花粉症の症状がひどかったために食事会からの参加となり、昨年は5月1日が日曜日だったので事務所としての参加は見送ったのである。
 そこで、3年ぶりのメーデー参加となったわけである。
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◆メーデーの起源は、今から130年余り前の1886年5月1日、合衆国カナダ職能労働組合連盟(後のアメリカ労働総同盟、AFL)が、シカゴを中心に8時間労働制要求(8-hour day movement)の統一ストライキを行ったのが最初だとされる。1日12時間から14時間労働が当たり前だった当時、「第1の8時間は仕事のために、第2の8時間は休息のために、そして残りの8時間は、おれたちの好きなことのために」を目標に行われた(日本では未だ実現されていないどころか、当時の労働時間に戻っているといえる)。
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 しかし、その3日後の5月4日、運動の中心地だったシカゴで、ヘイマーケット広場に集まったストライキ参加者を武装警官が襲い、多数の死傷者が出たことから、1889年の第二インターナショナル創立大会で、AFLのゼネスト実施に合わせて労働者の国際的連帯としてデモを行うことを決議し、1890年5月1日、ヨーロッパ各国やアメリカなどで第1回国際メーデーが実行された。これ以来、メーデーは労働者の権利を主張する運動、また、国民がその時々の要求を掲げ団結と連帯の力を示す日として継続・発展してきた。

 このように、メーデーは8時間労働制を求める労働者の連帯の行動であるとともに、自由な時間のために闘い犠牲となった人々を忘れず、労働者の闘いを国際的に祝う日でもある。世界の大半の国では祝日とされている。
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 日本では、1920年5月2日(日曜日)、上野公園で5千人が参加したのが最初とされる。集会では「(ストライキ等を弾圧した)治安警察法17条撤廃、失業の防止、最低賃金制の確立」を決議し、また8時間労働制、東京市電争議支援、シベリア即時撤兵の動議が可決されたという。
 戦前のメーデーは1935年の第16回まで各地で取り組まれたが、1936年の2・26事件で戒厳令が敷かれたのを機に禁止された。
 戦後は、1946年の第17回メーデーから復活。東京では皇居前広場に約50万人(!)が集まり「民主人民政府の即時樹立」「食える賃金を」などを決議したとのことである。

 その後、日本では、長年「統一メーデー」が続けられてきたが、労働組合の全国中央組織の再編による組織対立の激化で、1989年以降は統一メーデーの開催ができなくなり、日本労働組合総連合会(連合)と非連合系の全国労働組合総連合(全労連)や全労協が別々に開催している。また、連合は2001年以降、4月後半の土曜日や祝日にメーデーを行うようになった。

 大阪でも、連合大阪系は大阪城公園、大阪労連系は扇町公園、大阪全労協系は中之島公園と、3つのローカルセンターが別々に開催している。
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◆当日、本当は開会は午前9時だが、横着をして午前10時に扇町公園に到着。翌日の新聞によれば、参加者は4500人。この日は少し曇があったが、風が爽やかだった。「自由法曹団大阪支部」や「民主法律協会」の旗の近くに行くと、法律事務所の弁護士や事務員さんたちがたくさん来ている。そのため、演壇で誰かがしゃべっている演説はそっちのけで、久々に顔を合わせた知り合いの人とおしゃべりが中心だ。
 私も、普段あまり顔を合わせないたくさんの弁護士や事務員さんと話をすることができた。特に、約10年前に民主法律協会の活動を一緒にしたことのあるNさんや、一緒に北欧ツアーに行き、今は2児のお母さんのFさん、20年ほど前に一緒にPTA役員として、給食の民間委託の是非を問う運動をしたIさんなどと懐かしい話ができたのは楽しかった。
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◆集会後のデモは、「西梅田公園コース」に参加。歩いた時間は40分くらいだろうか。
 歩きながらのシュプレヒコールを聞いていて、読み上げるスローガンに、今一つ工夫が必要と思った。抽象的なうえ紋切り型で、沿道で聞いている市民の心にあまり響かないのではないか。
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 例えば、「森友疑惑を糾明せよ!」というのは、昔の「ロッキード疑惑を糾明せよ!」と同じで、あまり芸がない。「8億円も値引きした理由を明らかにせよ!」とか、「昭恵氏を国会に証人喚問せよ!」など、今の時点の市民の関心事を具体的に叫ぶべきである。
 「大企業は社会的責任を取れ!」というのもあった。一般論として重要なことだが、具体的にどういうことなのか、さっぱりわからない。CSR(企業の社会的責任)のことをいっているのか、労働者に対する雇用責任をいっているのか。
 「共謀罪反対!」があったが、なぜ反対するかの理由が一言ほしい。「現代の治安維持法、共謀罪反対!」とか、「メールもラインも捜査の対象にする共謀罪反対!」とか。

 私が関わっているテーマでは、「過労死をなくそう!」というスローガンがあったが、今の世論の到達点との関係では、「企業は労働時間管理を徹底せよ!」とか、「月の100時間まで残業を認める労基法改悪反対!」とか、「過労死を自己責任にする裁量労働制の拡大反対!」といった感じで具体的に挙げた方がいいと思った。
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◆デモ行進修了後の事務所の食事会は、天満にあるイタリア料理店「アレグロ」へ。このお店は、勝利解決した過労自殺事件のNさんご家族と弁護団の年1回の同窓会で、昨年12月に連れていってもらったところ、とても美味しかったので、今回お世話になることにした。
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 所員の安田知央弁護士が、7か月になった赤ちゃんを抱いて食事会から参加したことから、大変盛り上がった。
 メーデーの歴史を考えると、こんなゆる~い感じで参加していいのかという気もするが、これも「お祭り」の楽しみ方として、大目に見てほしい。

 ※画像は上から
 ①8時間労働制を訴えるイラスト(ステッカー?)
 ②「写真でみるメーデーの歴史」(旬報社、1979年)の表紙
  この本は、旬報社のサイトで読むことができます。世界のメーデーの始まり、日本の戦前・戦後のメーデーの歴史が、とても分かりやすく書かれています。
  上述のヘイ・マーケット事件では、弾圧を受けたメーデーの指導者が8人も、証拠なしに死刑に処せられたそうです。これまで、そんな歴史は知りませんでした。
 ③今年の扇町でのメーデー(2枚)
 ④デコプラコンクール(プラカード部門)で優勝した北大阪総合法律事務所の皆さんによるデコレーション(共謀罪反対を訴える檻)と、マネキンモブ。カッコ良すぎます。お友達のフェイスブックから借用させていただきました。
 ⑤「アレグロ」での食事会(3枚)


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2017年1月11日 (水)

No.307 初めての過労死防止啓発授業で高校に行ってきました

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 1月10日夕方、過労死防止法に基づき、教育活動における啓発として今年度から始まった高校等での啓発授業に、過労死遺族である小池江利さんと2人で行ってきた。

 授業をしたのは、大阪府和泉市にある大阪府立和泉総合高校の定時制課程。昼間働きながら勉強し、この春卒業して本格的に働く予定の3,4年生約40人に、視聴覚教室で授業をした。
 教室に入っていくとき、「こんばんわ!」と声をかけると、「こんばんわ!」と大きな声で返してくれた。
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 最初に、小池さんが約20分間、介護老人福祉施設で事務の仕事をしていた夫が、長時間労働の末に過労死した事例について話した。最初、少しざわついたり私語をしていた生徒たちも、だんだん真剣に聴き入るようになり、特に、父を失った小池さんの3人の子どもたちの手記やブログの一部を読み上げたときは、シーンと静まり返った。
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 続いて、私が約40分間、「仕事に命を奪われないために」と題して、スライド(パワーポイント)を使って講義をした。

 できるだけ具体的な事例を話そうと、小池さんの件を含めて5件の過労死・過労自殺の事例を紹介したうえで、「過労死の悲しみと損失」「過労死はなぜ起こる?」「どんな働き方をしたら過労死する?」「過労死の労災認定と雇用主の責任」「過労死から自分を守るには」といったことについて話した。
 先に小池さんが自らの辛い経験を話した後だったこともあり、生徒たちはとても熱心に聴いてくれた。
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 私が最後に、
「命より大切な仕事はありません。
 生きるための仕事であり、仕事のために生きるのではありません。
 あなたの周りには、あなたが守りたい人がおり、また、あなたを守りたい人がいます。
 現在認められている労働者の権利は最初からあったのではなく、歴史の中で闘いとられてきたものです。
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 過労死・過労自殺は、決して個人の問題ではありません。国、社会全体の問題なのです。
 あなたも社会の一員として、過労死等がなく、仕事と生活を調和させ、健康で充実して働き続けることのできる社会をともに作っていきましょう。」
と述べて話を締めくくると、生徒たちは拍手をしてくれた。
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 限られた時間での駆け足の授業ではあったが、本格的に社会に出て働く予定の若い人たちに、過労死するような働き方をしてはいけないというメッセージを伝えることはできただろうか。
 終了後、今回の啓発授業を準備してくれた清水先生、山野教頭先生、加納准校長先生にご挨拶をして、すっかり暗くなった学校を後にした。
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2017年1月 5日 (木)

No.305 「過労死のない社会へ、行動を」──没後10周年を前に、北村 仁さんを偲ぶ

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◆はじめに
 北村仁さん(愛称“キタジン”さん)が2007年4月13日に急死してから、今年10周年を迎える。
 「十年一昔」というとおり、10年の歳月は長い。私が関わり続けている過労死家族の会でも、北村さんのことを知らない人たちが大半となった。
 そこで、少し長くなるが(このブログの文章の中で最長のものになりそうである)、10周年を前に、北村さんの事例と、過労死遺族の運動に果たした功績について書き記しておきたい。

◆北村さんの事案と民事裁判の闘い
 北村さんは、1997年(平成9年)4月に日本通運尼崎支店に契約社員として入社したが、発症前1年間で時間外労働時間1500時間、休日わずか38日という激務を余儀なくされる中で、入社2年半後の1999年(平成11年)9月23日、自宅で急性心筋梗塞を発症し、一命はとりとめたものの心臓にペースメーカーを埋め込んだ身体障害者となった(身体障害東急1級、労災後遺障害東急7級)。
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 北村さんは2000年(平成12年)2月、尼崎労基署に労災申請をしたが、会社はその直後に契約を更新しない旨の通知書を送りつけてきた。
 同年8月、労基署は北村さんの発症を労働災害と認定するとともに、同年12月、会社に是正勧告を行ったが、会社は業務を改善しようという姿勢さえ示さなかった。

 北村さんはこのような会社に怒りを覚えていたところ、2000年(平成12年)12月に開かれた大阪過労死家族の会10周年のつどいに参加して、家族の会に加わるとともに、私たち弁護団に民事訴訟を依頼した(弁護団は私と上出恭子、中西基弁護士)。私たちは約1年間にわたる準備(証拠保全手続を含む)を経て、2001年(平成13年)12月、会社を被告として民事訴訟を提起した。
 裁判では、長時間過重労働の実態の主張立証と、中村賢治医師に医学意見書を書いていただき医学立証に努めた。2003年(平成15年)1月28日の人証調べ期日(原告本人と元上司の尋問)には、35名もの傍聴者で法廷は埋まった。
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 この人証調べの後、裁判所から和解勧告があり、3月7日と4月3日の2回の和解期日で、3300万円を会社が支払うことを内容とする和解が成立した。
 当初、和解金額は3000万円とすることで和解協議は進んでいたが、北村さんが強く求めた会社の謝罪を会社が頑なに拒否したことから、裁判所の提案で300万円が上積みされて和解となったのである。
 北村さんは「この増額分の300万円は、いわばオマケのようなものなので、過労死遺族の闘いに役立ててほしい」と申し出て、このうち200万円を拠出して、過労死遺族に労災申請や民事訴訟の費用を援助する「大阪過労死家族の会 労災・裁判支援機金」(通称“アンパンマン基金”)を設立した。この基金は、これまで多くの人たちによって活用されている。
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◆全国の過労死遺族たちをつなげた北村さんの支援活動
 これ以降北村さんは、自分の残された人生を過労死家族の会のために捧げたといっていいだろう。①大阪過労死家族の会の事務局、②家族の会のメーリングリストの運営、③大阪家族の会のホームページの開設などを積極的に引き受けるとともに、④1997年を最後に中断していた過労死遺族の交流会を2002年から復活させ、2003年からは「夏の一泊交流会」として、全国から子どもたちも同伴して参加できる一大イベントにまとめあげた。⑤のみならず、北村さんは自ら全国を走り回って過労死遺族の闘いを支援し始めた。解決金でトヨタのプリウスを購入し、支援者や遺族たちを乗せて、東京や山梨、長野、岡山、福岡など、全国の裁判の支援にかけつけるようになったのである。北村さんのこれらの活動によって、過労死遺族たちの全国的な交流と相互支援が広がった。
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 また、⑥実際にあった過労自殺事件をモデルにした名古屋の市民劇団「希求座」(当時)の劇「あの子が死んだ朝」の大阪公演(2006年11月)を実現する取り組みや、⑦当時導入されようとしていた(今もされようとしている)ホワイトカラーエグゼンプション(ある程度の年収のある労働者を労働時間の規制から外す制度)導入に反対する取り組みについても積極的に関わった。その中で、北村さんは、「遺族が過労死・過労自殺の悲惨さと、人間らしい働き方の大切さを訴える「語り部」として訴えること」の大切さを語っていた。

 さらに、北村さんは、労働者の立場に立った社会保険労務士になることを決意し、社労士試験の受験も始めたが、あとわずかのところでなかなか合格できなかった。
 北村さんは、新しい過労死遺族の支援を訴えたとき、自ら涙を抑えきれず嗚咽しながら訴えたこともあった。忘年会の二次会などで歌うカラオケは、「島人ぬ宝」や「島唄」など沖縄の歌が多かったように記憶している。まるで父親のように時には厳しく、時には優しく、人に寄り添える人だった。

◆北村さんの“遺言”となった歴史的文書
 そんな北村さんは、2007年2月、次のような一文を書いている。


    「過労死のない社会へ、行動を」─新しい段階を迎えた過労死家族の会の活動

                             大阪過労死を考える家族の会事務局 北村 仁
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1 はじめに
 「大阪過労死を考える家族の会」(以下、家族の会)が結成されたのは、1990年12月8日のことで、この12月8日は日本が、第二次世界大戦に突入した「真珠湾攻撃」の日です。労働現場が「戦場」化しつつあった当時、企業において戦死者をこれ以上出さないようにという遺族の願いで、この日に結成されたと、結成当時からの会員から聞きました。その願いも虚しく、現在の労働現場は、完全に「戦場」となっています。
 私自身は、2000年12月9日の、家族の会結成10周年「過労死を考える集い」からの参加になりますので、結成当時の事は、当時の資料あるいは結成当時から活動している遺族の方々から聞いて知っている範囲です。

 私も、働き過ぎによって命を落とすということについては無知であり、「よく働き、よく遊ぶ」ことを、男の美学と感じておりました。しかし、1999年9月23日深夜、急性心筋梗塞を発症し、生死の淵をさまようことで、人間は働き過ぎたら死ぬのだということを初めて思い知らされました。労災申請して認定された後、大阪過労死問題連絡会の先生に相談し、民事裁判を受任していただいてから、家族の会の仲間に加わり、存命の私が遺族の方々に励まされ、企業責任を問い、一定の成果を出すことが出来ました。その後、家族の会の世話人兼事務局員という形で、深く家族の会と関わるようになり、今では私のライフワークとなっています。

2 家族の会の活動の目的
 家族の会の目的として、下記の4つのことが規約で定められています。
(1) 本会は過労で倒れた本人とその家族或いは遺族の為に、労・公災認定の早期実現を目指すと共に、労・公災補償の改善と民事賠償に取り組む。
(2) 被災者の遺・家族及び被災者及び過労死に関心のある団体・個人とが手を結び、過労死の問題を広く社会にアピールしていく。
(3) 過労死の発生する社会的背景について、企業及び監督官庁の健康・安全管理等の問題点を明らかにし、過労死発生の予防に取り組む。
(4) 「家族」相互の情報交換を密にし、支え合い励まし合って連帯の輪を広げていく。
 以上の4点を柱に、実際の活動内容を要約すると「認定、裁判支援・認定基準、訴訟知識の学習・遺族及び支援者との交流・社会、行政へのアピール発信」等を、行っています。

3 学び合い、励まし合う交流の広がり
 1990年の結成からの10年間は、労災認定が非常に難しい10年間でした。この間の苦しい活動を通じて「過労死」という問題について広く社会に認知させ、2001年12月12日に「新・認定基準」に改定させるという大きな成果を得ることが出来ました。この認定基準の改定により、更に多くの遺族が救済されるようになりました。
 しかし、この頃から「過労死」に加え「過労自死」事案が急激に増えてきました。更に、結成当時は主に40歳後半か50歳代が中心であった被災者が、若い世代(20・30歳代)においても増大し、幼い子供を抱えた遺族、究極にはお父さんに抱かれたことがない遺児まで作ってしまうような時代になったのでした。毎月1回定期的に行っている家族の会例会にも、続々と若い遺族が加わるようになりました。
 
1997年で途切れていた遺族の交流会も2002年6月8日に大阪中央区の宿泊施設において「一泊学習交流会」という形で復活させ、2003年度の東大阪市で開かれた一泊学習交流会からは子供同伴可能の交流会になりました。大阪家族の会員以外の地域の遺族にも呼びかけ毎年約60名を越す参加者で恒例行事に位置づけられ、翌2004年度からは奈良県桜井市の国民年金保養所「大和路」に会場を移し現在に至っています。遠くは新潟・群馬・福岡他全国各地からも多くの遺族が参加されるようになり、交流は深夜に及びます。

 昨年(2006年)の交流会では、1日目に東京から過労死問題の第一人者の上畑鉄之丞先生を講師にお招きして学習を、2日目は「過労死グループ」と「過労自死グループ」と2グループに分け、アドバイザーの弁護士・医師・支援者の方々にも加わっていただき、グループミーティングを初めて行い、好評を得ることが出来ました。

 時代の流れも、アナログからデジタル時代に突入し、若い世代を中心に家族の会の情報をインターネットにより求めるようになって来ました。岩城先生からの勧めで、ホームページを作成することになり、講習に出かけ初心者の私が拙いホームページを立ち上げて早3年が過ぎました。ホームページからの相談に、大阪過労死問題連絡会の先生方に協力・支援を仰ぎ、過労死の認定を得ることが出来た方からの嬉しい報告が届いた時は、ホームページを立ち上げて本当に良かったと嬉しさがこみ上げてきました。大阪過労死を考えるホームページは、大阪過労死問題連絡会のホームページと共に、全国の遺族の駆け込み寺になっています。更に、過労死家族のメーリングリストも全国の過労死遺族の重要な交流の場になっています。

 2003年6月28日には、大阪過労死を考える家族の会労災・裁判支援基金を設立しました。賛同していただいた方からの浄財カンパで運用し、認定闘争に必要な資金支援の体制も出来上がりました。
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4 過労死・過労自死をなくすために行動する会へ
 過労死の認定基準が緩和されてきたといっても、まだまだ認定されないケースがたくさんあります。また過労自死の認定基準は実態に合わず、多くの過労自死遺族が涙を飲んでいます。これを打開するには、認定基準やその運用の改善がどうしても必要です。
 また、そのような改善を勝ち取るには、過労死・過労自死に対する世間の理解をもっともっと広げる必要があります。

 そこで、認定や勝訴を勝ち取り自分の事件が終わった遺族も一緒になって、認定基準やその運用の改善を求め、また世間に広く過労死・過労自死をなくそうと訴える活動に、会として取り組み始めました。
 毎年11月に全国家族の会として行っている厚生労働省交渉には、大阪を含め全国で闘っている多くの遺族が参加し、厚労省の担当者に直接訴えをしています。
 また、2003年からは年に数回、「過労死110番」の実施に合わせ、遺族が街頭に立ちマイクを握り、過労死のない社会の実現を目指し、遺族の体験を通行人に呼びかける活動を行うようになりました。
 2006年11月24・25日に上演した劇「あの子が死んだ朝」実行委員会の活動においても、遺族が広告塔となり色々な団体に過労死・過労自死について訴えに行き、取り組みの成功に大きな役割を果たしました。
 さらに、今導入されようとしているホワイトカラーエグゼンプションは「過労死促進法」であり、これが導入されると過労死・過労自死がますます増え、また倒れても本人の自己責任とされ労災認定も難しくなるといわれていることから、過労死遺族の中でも大きな不安と反対の声が広がっています。2006年11月22日には全国過労死を考える家族の会総会において緊急アピールを発し、また大阪でも、「働き方を考える大阪ネット」に結成準備から関わり、遺族がリレートークに積極的に加わるなど、過労死・過労自殺の悲惨さと、人間らしい働き方の大切さを訴える「語り部」としての活動を行っています。

 このように、過労死・過労自死の無い社会の実現を目指す活動の中心に遺族が主体的に活動に参加するようになったのは、大きな前進であると誇らしく思っています。遺族でなければ訴えられないことを、率先して主体的に遺族が訴え、過労死撲滅の先鋒として社会にメッセージを発することが出来る団体に成熟してきたと感じています。

5 家族の会へのいっそうのご支援を
 結成以来16年間の遺族の頑張りで、大きな成果を得てきましたが全員が救済されるということはありません。裁判闘争で勝ち取った判決を積み上げ、近年増加の一途である自死事案の認定基準、労働実態に合致した過労死認定基準の改定へと前進しなければなりません。
 結成当時の初心に戻り、『過労死撲滅』に向け更に前進すると共に、遺族のネットワークを密にし、共通の悲しみを持つ仲間の集団として「運動」+「癒し」が共存できる家族の会でなければならないと私は考えています。
 今後とも皆様からの、あたたかいご支援をお願い致します。
                    (民主法律268号・2007年2月より)


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◆北村さんの急死
 ところが、上記の文書を書いたわずか2か月後の2007年(平成19年)4月13日、北村さんは入院して検査を受けていた病院で突然心筋梗塞を発症して亡くなってしまったのである。周囲の私たちはもちろん、当の本人さえ、まったく予想だにしていないことであった。
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 たまたまこの日お見舞いに行こうとしていた寺西笑子さんたち5人と、訃報を聞いてかけつけた私たち4人は言葉にならないほどの衝撃を受けたが、北村さんには交流のある親族がおられなかったことから、寺西さんが「喪主代行」となって、いわば「家族の会葬」を行うことになったのである。

 4月15日の通夜と4月16日の告別式には、全国から実に約140人もの人たちが駆けつけた。お通夜では北村さんの柩の傍で、夜を徹して北村さんの死を悼み、思い出を語り合った。
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 北村さんが生前、「自分は大阪で人間として生まれ変わったので、大阪に骨を埋めたい」と話すのを聞いた遺族がいたことから、お骨は分骨し、4月13日に本骨を故郷の三重県尾鷲市にある実家のお墓に納骨し、分骨は6月6日、大阪の四天王寺に納骨する式を執り行った。

 ここでも、これまで親族以外の他人が「施主」になる例がなかったとのことで、当日お寺側と相当揉めたとのことである(当日私は出席できなかったが、松丸正弁護士が大活躍したと聞いている)。少し大げさに言えば、四天王寺開びゃく1300年の歴史の中で初めて、親族でない他の過労死遺族が施主になって、分骨の納骨が実現したのである。
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◆亡くなる直前に取材を受け、亡くなった後に出版された本で紹介
 北村さんは、経済ジャーナリストの岸宣仁氏から取材を受けていて、北村さんが亡くなった3か月半後に「職場砂漠 働きすぎの時代の悲劇」(朝日新書、2007年7月30日第1刷発行)が出版された。
 その中の「「OB」たちが支える全国家族の会」という見出しの文章の中で、北村さんについて次のように記述されている。

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(前略)
 鈴木会長(注、当時全国家族の会の会長であった鈴木美穂さんのこと)は名古屋の会の出身だが、メンバーが多いのは大阪と東京だ。なかでも大阪の活発な活動はつとに知られている。月1回の例会や各家族の裁判の傍聴支援、過労死・過労自殺・サービス残業110番の街頭宣伝活動への参加、年1回の泊まりがけの「一泊学習交流会」‥‥。大阪家族の会で事務局を担当していた北村仁(58歳、07年4月に急死)は生前、こう話していた。
 「小さな子供を抱えた奥さんが労災申請する場合は、まず生活の心配をする必要が出てきます。遺族年金だけだと金額が少ないですから。そういう場合は一発認定を取るために、専門家らの意見を聞いて行動しなければなりません。見ていると、とっかかりでミスしている人がいるので、そういう人に適切にアドバイスするのが家族の会の役割になってきます」
 北村は、自身が日本通運でドライバーをしていて、働きすぎで心筋梗塞を発症した経験の持ち主だった。ペースメーカーをつけているため再就職は無理。「それで時間があるので、会の活動にのめりこんでいった」と謙遜していたが、自身の体験でアドバイスできることがあれば、困っている人にその知恵を伝えたいと思っていたのだろう。
 各地の家族の会で中心メンバーになっているのは、北村のような人たちがほとんどだ。自分の闘いは終わり、労災認定や裁判勝訴の経験を持つ「OB」とでも呼んでいい人たちである。(以下略)

 著者の岸氏は、北村さんの急死を知って、驚いていたという。
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◆北村さん没後の10年を振り返って
 そんな北村さんが亡くなってから、10年が経とうとしている。
 北村さんの上記の「行動文書」は、まるで残された私たちへの遺言のように思われた。
 厚労省交渉など過労死家族の会の活動が全国で力強く広がり、全国的な交流も進んだ。
 2009年11月には寺西笑子さんが原告となって「過労死を出した企業名の公表を求める訴訟」を提起した(地裁では勝訴するも高裁・最高裁で敗訴)。

 更に2010年(平成22年)10月、全国過労死家族の会が主催して「過労死防止基本法の制定を求める院内集会」を行い、これを受けて2011年(平成23年)11月、「ストップ!過労死 過労死防止法制定実行委員会」を結成した。その後55万を超える署名、143に及ぶ地方自治体の意見書採択などの大運動を経て、ついに2014年(平成24年)6月、衆参両院の全員一致で「過労死等防止対策推進法」が可決・成立、同年11月に施行されたことは、周知のとおりである。
 その後、過労死防止大綱が制定され、先日は初めての過労死白書が発表された。全国のほとんどの都道府県で国主催の過労死防止シンポジウムが行われ、高校や大学での過労死防止の啓発授業が本格的に行われようとしている。
 そして、北村さんの死後、各地に新しい「家族の会」がいくつも結成されている。

 私は、この10年を振り返り、北村さんが広げようとした運動を全国の遺族たちが受け継いで発展させ、今の到達点があることを、改めて強く思う。
 ただ、その一方で、もし北村さんが生きて、この運動を一緒にやることができたら、今どんなに喜んでいるだろうと思うと、未だに悲しみと悔しさを振り払うことができないのである。

 ※写真は、上から順に、
 ①民事訴訟で和解が成立した日に(北村さん、上出恭子弁護士と私)(2003・4・3)
 ②大阪家族の会の一泊交流会で裏方を務める北村さん(2005・7・3)
 ③福岡地裁での金谷さん行政訴訟勝訴の日に(2006・4・12)
 ④和歌山の上田さんの勝利祝賀会の二次会にて(2006・4・15)
 ⑤名古屋の劇団希求座の劇「あの子が死んだ朝」の打ち上げ会にて(北村さんは最前列左端)(2006・11・26)
 ⑥大阪家族の会の忘年会で発言する北村さん(2006・12・20)
 ⑦民主法律協会主催「2007年権利討論集会」の懇親会にて(隣は寺西笑子さん)(2007・2・17)
 ⑧北村さんのお葬式の祭壇(2007・4・15)
 ⑨お通夜に駆けつけた人たち(2007・4・15)
 ⑩北村さんの柩(向かって奥)の傍で語り合う参列者たち(2007・4・15)
 ⑪告別式で挨拶をする私と寺西笑子さん(2007・4・16)
 ⑫北村さんが紹介された「職場砂漠」(岸 宣仁著・朝日新書)
 ⑬北村さんの三回忌にて(四天王寺)(2009・4・11)

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2016年11月13日 (日)

No.300 2人の過労自死遺族の発言に思うこと

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◆11月9日、東京の霞が関・イイノホールで、「過労死防止啓発シンポジウム中央会場」が行われた。これは、11月18日に八王子市で開かれる「東京会場」とは別に、全国的な位置づけで行われたものである。会場は満席で、後で聞くと480人を超える参加者があったとのこと。
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 主な進行次第は次のとおりである。
(1) 塩崎厚労大臣の挨拶
(2) 超党派議員連盟の世話人として出席された3人の紹介と馳浩代表世話人の挨拶(他の出席者は泉健太さん、高橋千鶴子さん)
(3) 厚労省の過労死防止対策推進室の村山誠室長から「現状の説明」
(4) 川人博弁護士から「過労死防止全国センター報告」
(5) 北里大学医学部公衆衛生学の堤明純先生から「過労死等防止のためのストレス対策」

(休憩)

(6) 金沢大学名誉教授の伍賀一道先生の「今日の働き方と過労死問題」
(7) 過労死遺族4人の体験談
 ①大学の准教授をしていた夫(当時48歳)を過労自殺で亡くした宮城県の前川珠子さん
 ②電通の新入社員であった娘(当時24歳)を過労自殺で亡くした高橋幸美さん
 ③経理の仕事をしていた長男(当時35歳)を亡くした茨城県の岩田徳昭さん
 ④老人福祉施設で働いていた夫(当時49歳)をクモ膜下出血で亡くした、和歌山県の小池江利さん
(8) 全国過労死家族の会代表の寺西笑子さんの閉会あいさつ

◆どの発言、報告も大変貴重なものであったが、すべてを紹介することはできない。
 ここでは、(7)の①・②の2人のご遺族のお話(発言の文字起こし)を紹介しておきたい(下線は私)。

【前川珠子さんのお話】ご本人のブログにも掲載されている。)

わたしは前川珠子と申します。

2012年、当時大学准教授であった夫を
過労自死で亡くしました。
享年48歳。あとには13歳の息子とわたしの2人が残されました。
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夫は仙台にある大学の工学部の工学部10年任期の准教授でした。
任期が終わるまであと四年を残し、
イレギュラーな形で、准教授だけの研究室を独立して構えておりました。
任期の終わりを4年後に控え、研究室の存続のための勝負をかけたところで、東日本大震災に被災しました。
膨大な日常業務をこなしながら、
ほぼ一人で、被災した研究室を立て直しました。

亡くなった2012年1月は、過酷な仕事が実り、仮設の研究室が整い、ようやく研究再開のめどが立った時期でした。
突然の解雇予告を受け、過労の局地にあった彼の精神はその直後に壊れました。
一週間後彼は爆発するように自ら命を絶ちました。

仕事が多すぎるんだよ。
回せないんだ。
亡くなる前に言っていた言葉が
今も耳をよぎります。
あの時、どうしてすぐ仕事を辞めてと
言えなかったんだろう。

仕事が命のひとでした。
彼からその愛する仕事が奪われた状態を
わたしはどうしても想像することができなかった。

それでも、死ぬほどつらいとわかっていたら
どんなことでもしたでしょう。

どんな状態でもいい。
わたしは彼に生きていてほしかったのです。

それはいま、ここにいらっしゃるすべての遺族のみなさんも
同じ気持ちではないかと思います。

今更、なにをどうしたところで
わたしたちの大切な家族が帰ってくることはありません。
でも、わたしは思いたい。
わたしたちの家族は、無駄死にではなかったと。
彼らはその生命をかけて
働くことの意味を、日本で生きる、すべてのひとに問うているのだと。

その問いに答えるのは残されたわたしたちの、そして
生きるためにはたらく、すべてのみなさんの責任です。

想像してみてください。
ある日あなたに電話がかかってきて
昨日まで元気だった
あなたの親御さんが、伴侶が、兄弟が、子どもが
突然命を絶った、と知らされるところを。

それがわたしたち遺族に起ったことです。

わたしたちの家族が間に合わなかったように
もしかしたらあなたの大事な人が、
ある日突然死んでしまうかもしれない。
次はあなた自身かもしれない。

いのちのはかなさと尊さ、そのかけがえのなさを
わたしたちは遺族は、嫌というほど思い知りました。
それはどんな犠牲を払っても、大切にする価値があります。

わたしたちは大きな歴史の一部にすぎず、
個々に起きる不幸を止めることはできない。

それでも、過労死はいつか必ずなくすことができる。
とわたしは信じています。

わたしは夫を失いましたが
その死は労働災害として認められました。
働くことで人が命を落とすのは、理不尽なことです。
しかし、現在のように過労死が
そのすべてではないとしても、
労災として救済の対象になることは
自然に得られた制度でも、権利でもありませんでした。

高度成長期の終わりと同時に頻発するようになった過労死を問題視し、
未来のわたしたちのために失われた命の重さを
訴えてくださった遺族の先輩方、
過労死弁護団の弁護士さんをはじめとした沢山の方々のお力で
わたしはいま、過労死遺族として、ここに立っています。

大きな力を持たない一人ひとりの人々が、
共通の思いのもとに集まり、ほぼ四半世紀の歳月をかけて
過労死という概念が育ち、法律がつくられました。
このシンポジウムはその流れの途上にある。
わたしたちはいまここで、新しい歴史を創っているのです。

誰もが健康でしあわせに働くことのできる未来を、
次の世代に残していきましょう。みんなで。


【高橋幸美さんのお話】

 娘の名前は高橋まつりと言います。  娘は昨年12月25日、会社の借上げ社宅から投身し、自らの命を絶ちました。

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 3月に大学を卒業し、4月に新社会人として希望を持って入社してから、わずか9ヶ月のことでした。
 娘は高校卒業後、現役で大学に入学しました。大学3年生の時は文部科学省の試験に合格して、1年間北京の大学に国費留学しました。
 帰国後も学問に励み、その後人一倍のコミュニケーションの能力を活かして、就職活動に臨みました。そして、早い時期に内定をもらい大手広告代理店に就職しました。
 娘は、日本のトップの企業で国を動かすような様々なコンテンツの作成に関わっていきたい。自分の能力を発揮して社会に貢献したいと夢を語っていました。

 入社してからの新人研修でも積極的にリーダーシップをとり、班をまとめた様子を話してくれました。
 「私の班が優勝したんだよ。」と研修終了後にはうれしそうに話してくれました。
 「憧れのクリエイターさんに何回も褒められたのを励みに頑張るよ」と希望に満ちていました。

 5月になり、インターネット広告の部署へ配属されました。「夜中や休日も仕事のメールが来るので、対応しなければならない」と言っていました。締め切りの前日は、終電近くまで頑張っていましたが、夏頃からたびたび深夜まで残って仕事をするようになりました。
 週明けに上がってきたデータを分析して報告書を作成し、毎週クライアントに提出する仕事に加え、自宅に持ち帰って論文を徹夜で仕上げたり、企画書を作成していました。

 10月に本採用になると、土日出勤、朝5時帰宅という日もあり、「こんなにつらいと思わなかった。今週10時間しか寝てない。会社辞めたい。休職するか退職するか自分で決めるので、お母さんは口出ししないでね。」と言っていました。

 11月になって、25年前の過労自殺の記事を持ってきて、「こうなりそう」と言いました。私は「死んじゃだめ。会社辞めて」と何度も言いました。
 その頃、先輩に送ったメールに「死ぬのにちょうどいい歩道橋を探している自分に気が付きます」とあります。
 SNSにはパワハラやセクハラに個人の尊厳を傷つけられていた様子も書かれていました。
 私には、「上司に異動できるか交渉してみる。出来なかったら辞めるね」と言っていましたが、仕事を減らすのでもう少し頑張れということになったようです。

 しかし、12月には娘を含め、部署全員に36協定の特別条項が出され、深夜労働が続きました。その上、数回の忘年会の準備にも土日や深夜までかかりきりになりました。
 「年末には実家へ帰るからね、お母さん。一緒に過ごそうね」と言ったのに、クリスマスの朝、「大好きで大切なお母さん、さようなら。ありがとう。人生も仕事も全てがつらいです。お母さん、自分を責めないでね。最高のお母さんだから」とメールを残して亡くなりました。

 社員の命を犠牲にして業績を上げる企業が、日本の発展をリードする優良企業だと言えるでしょうか。
 有名な社訓には取り組んだら放すな。死んでも放すな。目的を完遂するまではとあります。
 命より大切な仕事はありません。娘の死は、パフォーマンスではありません。フィクションではありません。現実に起こったことです。
 娘が描いていたたくさんの夢も、娘の弾けるような笑顔も、永久に奪われてしまいました。
 結婚して子どもが産まれるはずだった未来は、失われてしまいました。

 私がどんなに訴えかけようとしても、大切な娘は二度と戻ってくることはありません。手遅れなのです。
 自分の命よりも大切な娘を突然なくしてしまった悲しみと絶望は、失った者にしかわかりません。
 だから、同じことが繰り返されるのです。
 今、この瞬間にも同じことが起きているかもしれません。
 娘のように苦しんでいる人がいるかもしれません。

 過労死過労自殺は、偶然起きるのではありません。
 いつ起きてもおかしくない状況で、起きるべくして起きているのです。

 経営者は社員の命を授かっているのです。
 大切な人の命を預かっているという責任感を持って、本気で改革に取り組んでもらいたいです。
 伝統ある企業の体質や方針は一朝一夕に変えられるものではありません。
 しかし、残業時間の削減を発令するだけでなく、根本からパワハラを許さない企業風土と業務の改善をしてもらいたいと思います。

 残業隠しが、再び起こらないように、ワークシェアや36協定の改革、インターバル制度の導入がなされることを希望します。
 そして、政府には国民の命を犠牲にした経済成長第一主義ではなく、国民の大切な命を守る日本に変えてくれることを強く望みます。
 ご清聴ありがとうございます。

◆お二人のお話から言えるのは、過労死は決して「人ごと」でないこと、にもかかわらずそれが「人ごと」だと思われているから、過労死がなくならないのだ、ということである。
 要するに想像力の問題ということだが、一人ひとりに余裕がなく、社会全体が、相手の立場になって物事を考えたり感じることができなくなってしまっているのかもしれない。パワハラやいじめがなくならないのも、共通のものがあるのではないだろうか。
 しかし、遺族のこのような体験談は、自分の夫が、息子が、娘が、親が突然倒れたり自死したらどうだろうかと、否が応でも聞く人々の想像力、共感を呼び起こさずにおかない。
 その意味で、過労死遺族の話はたまらなく辛いが、それだけに貴重なのである。
 このような辛い体験を話される遺族の皆さんに、本当に頭が下がる思いである。


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2016年6月27日 (月)

No.286 新しい「連帯」への希望

 このたび、弁護士で資格試験予備校「伊藤塾」の塾長でもある伊藤真先生が所長を務められている「法学館憲法研究所」から、同研究所のホームページの「今週の一言」欄に、今年3月19日に開いたシンポジウム(「No.278 分野・世代を超えた連帯はできる、社会は変えられる──働き方ASU-NET第24回つどい」)を題材にした「若者の連帯」についての寄稿を依頼された。

 伊藤真先生は、伊藤塾の経営や弁護士業務を行うかたわら、護憲の立場から議員定数不均衡問題や安保法制問題などで精力的に取り組んでおられ、私は大変尊敬しているので、今回の依頼は大変光栄なことである。
 以下、本日掲載された拙稿を、この私のブログでも紹介しておきたい(ただし、一部文言を追加・変更した箇所がある)。

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   新しい「連帯」への希望

第1 2つの「連帯」についての考察
1 「連帯」とは何だろうか。一般には、一定のグループや集団が共同の目的のために、気分を共有することだとされる。クラブやチーム、サークルなどの小さなグループでは、この意味の連帯はしばしば実感されるが、グループが大きくなり、更には階層や属性といったものにまで広がっていけばいくほど、連帯は難しく、希薄になっていく。
 しかし、人間が社会的動物であり、様々な集団、最終的には社会や国家の中でしか生きていけない以上、自ら快適に生きられるように社会を改善していくために、自主的に団体を作って連帯していくことは大変重要である(ここでは、これを「自主的連帯」ないし「下からの連帯」と呼びたい)。
 他方、国家や企業など有形無形の権力や権威を持った団体や集団は、その目的のために構成員を都合よく統制しようとし、そのために「上からの連帯」を組織・醸成しようとする。
 この「上からの連帯」は、外観的には下からの連帯と類似し、局部的には混合することもあるが、従わない場合に強制や処罰、排除といった不利益が付属している点で本質的な違いがあり、時には下からの連帯を抑圧・破壊する役割を果たす。

2 この2つの意味の連帯について、戦前がどうだったのかについても興味があるが(例えば下からの連帯としての自由民権運動や労働・小作争議、上からの連帯の完成形としての大日本翼賛会など)、ここでは戦後について考えてみたい。
 戦後民主主義の普及や労働運動・市民運動の高揚の中で、1960年代から70年代にかけて、下からの連帯は大きく広がった。「国民春闘」やストライキ、安保闘争、学生運動やベトナム反戦運動など、枚挙にいとまがない。
 ところが、1973年のオイル・ショック以降、特に1980年代から本格化した新自由主義のイデオロギーと長期不況の中で、「自己責任論」や「同調圧力」が強まり、「下からの連帯」は困難になっていく。若者と中高年、労働者と自営業者、民間労働者と公務員、正規と非正規、男性と女性、既婚と未婚、障害者と健常者など、様々な属性を持つ者同士が対立させられ、自分の地位の向上や権利行使をするのでなく他の属性を持つ人々やグループを叩いて溜飲を下げる風潮が広がってきた。その結果、社会はどんどん細分化され、人々はバラバラになり、最後は「万人の万人に対する闘争」(隣の人間も敵)の心理になっていく。
 そして、そのようなプロセスにおいて、精神的な拠り所を与える「上からの連帯」を(時には不利益や同調圧力を伴って)提示されると、人々は容易にそこに組織されてしまう。
 近年のパワハラの蔓延、生活保護受給者や転落した有名人の袋叩き、ネットでの激しい攻撃や炎上、排外主義やヘイトスピーチ、少数者や障害者の排除、更には突然の無差別殺人などを見ていると、下からの連帯の衰退と関連していると感じるのは私だけではないと思う。

3 このような考察は、恐らく本来は社会学の課題であり、私はその専門ではないが、「下からの連帯」の高揚期の後半(1970年代前半)に思春期を迎え、その後約40年間にわたってその衰退と社会分裂、「上からの連帯」の強化を見てきた世代としての、体験に基づく実感である。

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第2 新しい若者たちの「連帯」を探る企画
1 これに対し、特に憲法9条を中心とする日本国憲法の改正圧力の強化(これ自体が草の根的に組織されている)に抗して2004年に「九条の会」が結成され、また2011年の東日本大震災と福島原発事故を契機とした反原発運動など、草の根の市民運動の広がりがあったが、とりわけこの1年余りの間に、最初は若者の分野で、続いてこれに触発される形で他の世代や階層、様々な分野で、新しい自主的連帯の動きが生まれてきた。集団的自衛権を認める閣議決定や安保法制の強引な国会可決に反対する運動団体として作られた「SEALDs(シールズ)」や「ママの会」や「大学人の会」などがその典型であるが、とりわけ若者の中での運動はSEALDsにとどまるものではなく、劣悪化の進む若者の労働の分野でも、いくつもの団体や運動が生まれている。

2 そこで、私が共同代表の一人を務める「NPO法人働き方ASU-NET」(「働き方」をキーワードに若者と中高年が手をつなぐ労働者・市民のネットワーク)は2016年3月16日、「未来を切り開く連帯~若者たちの運動から学び会う」と題するシンポジウムを大阪市内で行った。関心の高さを反映してか、会場は145人の参加者で埋まった。
 特段基調講演といったものはなく、第1部で7つの団体から7人のパネラーを出してもらい、各団体の紹介と主な活動、訴えたいことなどを報告していただいたうえで、第2部のパネルディスカッションで質疑・交流を行う、というものであった。

3 第1部の7つの団体のパネラーからの報告の要旨は、以下のとおりである(なお、要旨は私がまとめたものであり、文責は私にある。)。

①労働相談に取り組みブラック企業を社会問題化した「NPO法人POSSE」の坂倉昇平さん
 年間1500件の労働相談に取り組み、起こっていることを社会的に発信して、社会問題化し政策課題としていくことを重視している。最近では美容・塾など大手企業において、業界全体に影響を与える取り組みを強めている。

②アルバイト学生を組織し団体交渉も行っている「関西学生アルバイトユニオン」の北村諒さん
 今の学生には奨学金が重くのしかかっている。ブラックバイトで泣き寝入りする状況を変えていきたい。学生が相談しやすいのは学生であり、"耐える力を変える力に"をモットーにして、働くこと・学ぶことを問い直している。

③労働相談と団体交渉で成果を上げる個人加盟労組「地域労組おおさか青年部」の北出茂さん
 一人でも入れる地域ユニオンとして、20代~30代を中心に労働相談から企業との交渉も行い、解決まで取り組んでいる。パワハラや職場の労働条件の劣化と闘う若者に"正しくキレよう"を合い言葉に学習・交流に取り組んでいる。

④民主主義を原点に戦争法の廃止を訴える「SEALDs KANSAI(シールズ関西)」の寺田ともかさん
 与党は国会で何でもやれてしまう3分の2の議席を占め、憲法を改正しようと目論んでいる。今止めなければという思いで野党間の結集を求め、「統一候補を立ててください」と地方でもテーブルを設けてきた。また、大学に投票場を設ける運動もしてきた。3・11の原発事故やイラク戦争などを通じて政府や報道に疑問を持ったことが声をあげる活動に参加するきっかけとなった。

⑤戦争法に反対し街頭での対話活動に取り組む「SADL(サドル)」の中村研さん
 サドルは大阪都構想の取り組みから生まれた。単に賛成か反対かではなく不安に思っている人との対話を大事にしてきた。サドルの特色はそれぞれのライフワークでつながり、一人ひとりの背景を活用し、何ができるかを持ち寄って街の雰囲気を変え、国会の内と外をつなげようとしている。「チャット」をするように該当で対話するのはその手段であり、イメージは井戸端会議。政治のハードルを下げていきたい。

⑥堺市で戦争法廃止の署名活動をする「ANTS(アンツ)」の磯田圭介さん
 堺市で戦争法を廃止させることを目標に地域に根差して結成した。気軽に集まり戦争法反対の声を上げるゆるい組織。昨年6月から毎月1回のデモや駅前でのスタンディングに取り組んできた。SNSで呼びかけるので常に新しい人が参加し、中学生たちも「カッコいい!」と署名を集めてくれ、お母ちゃんたちから差入れもある。署名活動は心意気。

⑦最低賃金1500円への引き上げを求める「AEQUITAS(エキタス)京都」の橋口昌治さん

 「最賃1500円」「中小企業に金をまわせ」「経済にデモクラシーを!」がスローガン。運動で引き上げさせていくことに意義がある。街頭・路上での活動が中心になっている。しかし、最賃は本来労働組合の重要な課題でもあるはずである。

4 第2部のパネルディスカッションでは、私がコーディネーターとなって「各組織のコミュニケーションの取り方」「デモやサウンドの形態」「各団体の苦労や悩み」「民主主義やサイレントマジョリティの受け止め方」といったことについて質問し、興味深い議論がなされた。
 最後に「社会は変えられるのか」と質問したところ、「社会は絶対変えられる。しかし、今まで政治の話をしなかった人たちに働きかけない限り変わらない。変えることをみんなでやりたい。」「社会は変わっている。自分も変わった。展望と希望を持つことで今では他の人を変えたいという気持ちになった。」「今の若者の動きを労働者階級全体に広げることが大事。」「『野党は協力』という、今まで考えられなかったことができている。社会は変えようと思えば変えられる。」「全ての人が安心して働ける方向に変えられる。人生の先輩の皆さんは、もっと私たちに成功した話だけでなく失敗した話も教えてほしい。」「戦争法反対の大きなうねりが労働相談に来る若者たちの変化につながっている。『助けてほしい』から『職場を変えたい』と言う人が出てきている。」など、率直で前を見据えた発言が次々となされた。

5 7つの団体は大きくいって「労働系」と「平和系」に分けることができると思うが(①~③は労働系、④~⑥は平和系、⑦は両方にまたがっているといえる)、共通するのは若者が主体となって民主主義を志向しているということである。1、2部を通して、どの団体もとても個性的で、困難を抱えながらも、生き生きと活動していることがわかった。デモのサウンド一つをとっても古い世代とはずいぶん違うが、若者が声を上げ始め、柔軟で多様性がある活動を展開していることを知り、参加した若者同士も盛り上がり、また中高年の参加者たちも元気と勇気をもらって、熱気の中で閉会した。二次会にも若者を中心に30人以上が参加し、分野を超えて更に交流を深めた。

6 このような若者の自主的連帯の動きに対し、様々な攻撃も行われている。また、当然のことながら、若さゆえの間違いや行き過ぎも出てくるかもしれない。しかし、このような新しい下からの連帯の動きは、大きく見れば半世紀ぶりのことであり、また、その柔軟さや多様性において過去に例のないものである。折しも18歳・19歳の若者に選挙権が広げられ、若者の政治・社会への積極的参加が期待される中、日本国憲法を日本社会に内実化させ、日本社会全体が豊かに発展していくために、これらの動きや交流を大切に育てていきたい(共に育ちあいたい)と願っている。

◆岩城 穣(いわき ゆたか)さんのプロフィール

 1988年弁護士登録(大阪弁護士会)、いわき総合法律事務所所長。
 弁護士登録の直後から、過労死問題にライフワークとして取り組む。
 現在、大阪過労死問題連絡会事務局長、過労死弁護団全国連絡会議事務局次長、NPO法人働き方ASU-NET共同代表、過労死等防止対策推進全国センター事務局長、厚生労働省過労死等防止対策推進協議会委員。
 また、1995年の阪神大震災を契機に結成された欠陥住宅被害全国連絡協議会(欠陥住宅全国ネット)の事務局長・副幹事長などを歴任し、現在は欠陥住宅関西ネット代表幹事。

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2016年1月28日 (木)

No.270 未来を切り開く連帯~若者たちの運動から学びあう~

 すごい企画が実現することになった。
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 いま、全国で若者たちの新しい社会運動が始まっている。
 誰から押しつけられたわけでもなく、自分たちの頭で考え、SNSなどを駆使しながら、街頭に出て、社会に訴えている。
 しかし、私たちだってそうである以上に、彼らに悩みや模索がないはずはない。そんな彼らの、生の声を聴いてみたい。また、分野や目的も異なる彼ら同士の議論も聴いてみたい。
 そんな思いを彼らに持ちかけたところ、なんと7つの若者たちの団体のメンバーが集まってくれることになったのである。
 分野も、世代も超えた連帯は可能なのかを考え学び会う、本当に貴重な場になることは間違いない。
 私はリレートークのコーディネーターをさせていただくことになっている。ちょっと緊張するが(笑)、頑張りたい。
 皆様のご参加を、心からお待ちしています。

NPO法人 働き方ASU-NET 第24回つどい

未来を切り開く連帯
 ~若者たちの運動から学びあう~

 若者の働き方や平和問題については、今年も厳しい状況が予想されます。  
 ASU-NETは若者たちの自発的な労働運動や市民運動に注目してきました。
 若者たちはどんな思いで行動を起こしたのか。また、どんな苦労に直面し、どんな展望を持っているのか。活躍する分野は違っても、そこには共通する思いがあるのでは。互いに理解を深め、ネットワークを広げながら民主主義と社会変革を語るつどいにできればと考えています。ディスカッションでは、会場参加者さまからの質問にも率直に答えていただきます。若者から学び、世代を超えて連帯を考えるつどいにできればと思います。多くの皆さんのご参加をお待ちしています。

日時 2016年3月16日(水)18時30分~20時45分
会場 エルおおさか南館10階1023号(開場18時)
    地下鉄谷町線「天満橋」駅より西へ300m
    地下鉄堺筋線「北浜」駅より東へ500m

第1部 代表者によるリレートーク
 坂倉 昇平 さん  NPO法人POSSE 雑誌POSSE編集長
 寺田ともか さん  SEALDs KANSAI(シールズ関西)
 中村  研 さん  SADL(サドル)
 磯田 圭介 さん  ANTS (アンツ)
 北村  諒 さん  関西学生アルバイトユニオン
 橋口 昌治 さん  AEQUTAS KYOTO(エキタス京都)
 北出  茂 さん  地域労組おおさか青年部 書記長

第2部 報告者によるパネルディスカッション
 コーディネータ-:岩城 穣 弁護士(NPO法人働き方ASU-NET代表理事)

資料代:500円

主催 NPO法人・働き方ASU-NET
〒530-0047 大阪市北区西天満4丁目4-18梅ヶ枝中央ビル7階
TEL:06-6809-4926 FAX:06-6809-4927
E-mail:info@hatarakikata.net  URL:http://hatarakikata.net/


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2015年12月10日 (木)

No.262 「時の人」2人によるツイン講演とビッグ対談──働き方ASU-NET 第23回つどい

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 今年、『雇用身分社会』(岩波新書)を著した森岡孝二さんと、『下流老人』(朝日新書)を著した藤田孝典さんのお二人の講演と対談が、2015年12月9日、働き方ASU-NET第23回つどい「これでええんか!雇用と貧困 『雇用身分社会』と『下流老人』」で実現した。

 開場には、140人を超える人たちが詰めかけ、大変な盛況となった。

 第1報告 森岡孝二さん 「雇用身分社会」を問う~働きづらさと生きづらさの正体~
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 この27年間で非正規労働者(パート、アルバイト、契約、嘱託、派遣など)が17%から40%に増加。若者と中高年では50%を超える。名ばかり正社員、請負労働者、個人請負を含めると50%を超える。
 年収200万円以下が1800万人もおり、うち1500万人が非正規。非正規を中心に、労働者の貧困化が進んでいる。
 現代のブラック企業は、『職工事情』に書かれた戦前の暗黒工場での働かせ方と極めて似ている。
 非正規の増大の結果、年収150万円未満の若者が激増している。
 雇用身分社会から抜け出す鍵は、①労働者派遣制度の根本的見直し、②非正規労働者の比率の引き下げ、③雇用・労働の規制緩和との決別、④最低賃金の引き上げ、⑤8時間労働制の確率、⑥性別賃金格差の解消である。

 第2報告 藤田孝典さん 「下流老人」の現状と対策~知っておきたい知識とノウハウ~
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 皆さん、まずは今日、絶望してください。
 日本の国民の貧困率(相対的貧困率)は16.1%(6人に1人)で、OECD加盟国34か国中6番目に高い数値。高齢者(65歳以上)では22%で、4~5人に1人となる。
 下流老人とは、生活保護基準(さいたま市の場合12万7000円程度)以下で暮らしている、又はその恐れがある高齢者で、現在700万人いると推計される。
 下流老人の特徴は、①収入が少ない、②十分な貯蓄がない、③頼れる人がいない、の3つの「ない」である。
 下流老人になるパターンは、①病気や事故による医療費負担、②子どものパラサイトによる共倒れ、③熟年離婚による資産分与、④認知症による防衛力の低下。
 若者で年収400万円以下は下流化のリスクが高く、非正規雇用は下流老人に直結する。
 下流化を防ぐには、①生活保護制度の正しい理解、②社会保障・福祉制度の活用、③プライドを捨てること、④可能な限り貯蓄すること、⑤地域社会への積極的参加(自治会、市民団体、NPO法人、老人クラブ、各種の生涯学習教室など)、⑥「受援力」を身につけること、である。
 下流老人を増やさないためには、自虐的な貧困観から脱し、ソーシャルアクション(ITの活用を含む)を続けることである。
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 休憩を挟んで、私の司会で、2人に壇上対談を行っていただいた。
 いろいろ愉快な掛け合いも含めて、大変盛り上がったと思う。
 会場から、全大阪生活と健康を守る会の大口耕吉郎さんと、関西学生アルバイトユニオンの青木克也さんが、生々しい報告をしてくださった。

 最後に、「集会宣言」(案)が、満場一致の拍手で採択された。

 確かに、今回のつどいは衝撃的な内容だった。これまでは若者の非正規化や貧困が語られてきたが、藤田さんのお話は、これまで終身雇用の中できちんと年金保険料を納め、そこそこの退職金も受け取って「逃げきり」を果たしたと思われている高齢者の中で「下流老人化」が進んでいるというものである。とすると、現在の中年も若者も含めてほとんどの国民が下流老人になることが避けられないことになる。

 その意味で、事態は余りにも深刻である。しかし、一方で、その深刻な危機感を共有することによって、新しい社会連帯も生まれてくるのではないか。そして、制度(政治)によって生み出された現状は、政治を変えることによって変えられるはずである。今回のつどいでは、そんな希望や展望も共有できたのではないだろうか。

 終了後、エルおおさかの隣の「多氣」で行った懇親会も、お2人を囲んで大いに盛り上がったことは言うまでもない。

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2015年10月 3日 (土)

No.257 44年ぶりの「和歌山国体」に思う

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◆9月26日(土)~10月6日(火)の11日間の日程で、第70回国民体育大会が、「紀の国わかやま国体」と銘打って和歌山県で行われている。スローガンは「躍動と歓喜、そして絆」。11日間で全国から22,000人が参加予定という。
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 9月26日に和歌山市の紀三井寺競技場で盛大に行われた開会式には、天皇・皇后両陛下も出席された。

◆国体が和歌山県で行われるのは、今回が2回目である。1回目は、今から実に44年前の1971年(昭和46年)の秋、「黒潮国体」として開催された。
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 この年のスローガンは、「明るく・豊かに・たくましく」。夏季大会(9月5日~8日)に約3,600人、秋季大会(10月24日~29日)に約16,700人、合計約20,300人が参加したとのことである(ウィキペディアより)。

 この大会には、現在の天皇である皇太子殿下が出席して、あいさつをされている。
 若いお姿が、44年間の歳月の長さを感じさせる。
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 この当時、私は、和歌山県那賀郡打田町(現・紀の川市打田)にある打田中学校の3年生だった。打田中学校はハンドボールの競技会場になり、開始式でブラスバンド部であった私も、トランペットを演奏しながら行進した(多分、写真の前列左から2番目が私である。)。
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 この年は、和歌山県内は国体の話で持ちきりだった。国鉄(現在はJR)和歌山駅から紀三井寺までの県道が美しく整備され、「国体道路」と言われるなど、インフラの整備も大きく進んだ。

◆このときの国体には、実は悲しい思い出がある。
 私の妻は、当時同じ打田中学校で私と同じクラスだったのであるが、妻のお父さん(柳瀬勲さん)が、この年の12月17日に亡くなったのである。
 もともと高校で生物と体育の教師をされていた勲さんは、この年に和歌山で国体が開かれるということで県教委に異動となり、大会役員として国体の開催準備や運営に関わったが、大会終了後1か月半ほど経ったころ、突然亡くなったのである。妻のお母さんによれば、連日連夜激務が続き、「しんどい、しんどい」と言っていたとのことである。

 私は、この当時(3年生の2学期)はクラスの学級委員長をしていたので、クラスメートを代表してお葬式に参列した。ずっと泣き続けていた妻のお母さん(当時は37歳だったと思う)と、じっと涙をこらえてうつむいていた妻の姿を、今でもはっきりと記憶している。

 今から思えば、過労死ではないかと思う。しかし、公務災害の申請など思いも及ばず、その後、お母さんは相当なご苦労をされたようである。当時中学校3年の私には何もわからなかったが、時空を超えて、一抹の悔しさを禁じ得ないのである。

 そう、妻のお母さんも、妻も、過労死遺族なのである。
 妻は、もう長年にわたって大阪過労死家族の会の事務局のお手伝いをしているが、何かの会合での自己紹介の際、その理由の一つにはお父さんのことも関係していると、本人が涙ぐみながら話したことがある。

 このような国民的なイベントの陰で、過労死などが起こらないことを願わずにいられない。

 ※なお、和歌山国体の現在のホームページに、1971年の和歌山国体の動画があります。
  ハンドボールについての紹介は、7分割中6番目の3:24~3:47に、少しだけ入っています。

 ※画像は、上から
 ①今年の和歌山国体のステッカー
 ②開会式に出席される天皇・皇后両陛下(NNNニュースより)
 ③44年前の大会であいさつをされる当時の皇太子殿下(上記動画より)
 ④ハンドボール会場となった打田中学校での競技開始式(中学校の卒業アルバムより)
 ⑤競技開始式で行進するブラスバンド(同)


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2014年12月30日 (火)

No.225 「週刊ダイヤモンド」が労基署・労働問題を特集!

 少し紹介が遅くなってしまったが、「週刊ダイヤモンド」12月20日号が、「労基署がやってくる!」と題する特集を、34ページにわたって組んでいる。
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 章立てと概要は、以下のとおりである。

 「プロローグ 初調査!上場237社の労務実態」
 上場企業743社に対してアンケート調査を行い、回答のあった237社からの回答を集計している。2009年以降に臨検監督を受けた会社は180社(76%)、是正勧告を受けたのは135社(57%)に及ぶという。

 「Part 1 知られざる労基署大解剖」
 現役の労働基準監督官4人の取材や、「ダンダリン」の原作者と現役監督官の覆面座談会を紹介している。

 「Part 2 あなたの会社も狙われる」
 ワタミの是正勧告の概要や、「三大労務訴訟判決」(東芝うつ事件〔メンタルヘルス〕、リコー事件〔追い出し部屋〕、阪急トラベルサポート事件〔みなし労働〕)を紹介するなどしている。

 「Part 3 最強の対労基署マニュアル」
 労基署から是正勧告を受け32億円もの巨額の未払残業代を支払ったのを機に、徹底した労働時間管理と長時間労働の削減に取り組んでいる大和ハウス工業の取り組みを紹介するほか、最新の労基署対策、訴訟対策、労務トラブル対策などについて考察している。

 「エピローグ 労働サービス後進国ニッポン 監督行政のひずみ」
 労働基準行政の2つの問題点として、監督官のマンパワー欠如と、労働関係法令の複雑さと硬直的な監督指導体制を挙げている。

 特集のタイトルからもわかるように、基本的には会社側の立場から書かれたものだが、①労基署を悪者扱いせず、②コンプライアンス(法令順守)を良とし、③アンケート結果や最新の判例を紹介する(過労死防止法も「時代を映すキーワード」として紹介されている)など、全体としては好感の持てる記事である。

 もっとも、「新しい労働時間制度」(ホワイトカラーエグゼンプション)について、「労働者が多様な働き方を模索している時代に、硬直的な監督指導体制では行き詰まる。そうなればしわ寄せがくるのは労働者であり、日本が労働サービス後進国から脱却できる日は遠い。」と述べるなど、大半の労働者を労基法による労働時間規制、労基署による監督行政の対象から外すという新制度の狙いを見誤っている点は容認できない。
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 ところで、「Part 2」の中の「労働者の賢い闘い方を伝授」のコーナーで、「頼れる労働者側弁護士20人」のリスト中に、私も入れていただいている。
 労働事件で先駆的に闘い、成果を挙げておられる弁護士はたくさんおられ、どのような基準で私が選ばれたのかわからないが、選んでいただいたことは光栄である(事前の取材も連絡もなかった)。
 また、この中に、よく知っている方々も多く含まれているのも、嬉しいことである。これも励みにして、これからも頑張っていきたいと思う(ちなみに、「頼れる使用者側弁護士20人」のリストも掲載されている)。

 ※なお、書店で既に売り切れの場合でも、kindle(キンドル)では購入できるようです。

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