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カテゴリー「6-1 思いつきエッセイ」の64件の記事

2017年1月23日 (月)

No.310 21世紀の妖怪の正体と、世界の行方(その2)

(前半「No.309 21世紀の妖怪の正体と、世界の行方(その1)」から続く)

◆過激リーダーたちの共通点──ポピュリズム
今、ヨーロッパ諸国では、EUを支持する既成のリーダー(フランス・オランド大統領、ドイツ・メルケル首相)を、過激なリーダー(フランス国民戦線ル・ペン党首、オーストリア自由党、ドイツのための選択肢、オランダ自由党)が脅かし始めている。
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そのような過激なリーダーには共通点が見られるという。

高千穂大学国際政治学 五野井郁夫教授
人々の不満や怒りを吸収して、それを票につなげていく。敵と味方を区別し、敵と見なされたものを激しく攻撃していく。こうした動きを一般にポピュリズム、大衆迎合主義という。それを先導する者のことをポピュリストと呼ぶ。」
このようなリーダーたちが手を結ぶ可能性もある。

ファラージ氏がトランプの応援演説
トランプのツイッター「是非ファラージ氏をアメリカ大使として迎えたい」
彼らが求めている世界とは何か。

(安田菜津紀)
キャンペーンでの誇張宣伝は、難民問題でも見受けられた。もともと、大国が引いた国境線こそが今のひずみを生んでしまっている。今突きつけられていることの起点を自分たちが生み出したかもしれないという当事者性を取り戻せるかどうかが問われている。一国だけで負担できる問題ではないので、門戸を閉ざせば解決できるものではない。そのひずみが別のところにシフトしていくだけではないか。

(姜)
イギリスにもかつてはファシストがいた。オズワルド・モズレー。イタリアやナチスと強いつながりを持った。EUの場合、ドイツとフランスが最後の防波堤なので、フランス大統領選挙でこれが決壊すれば、EUは崩壊するのではないか。今年の最大のテーマは、フランスでも同じことが起きるかどうか。そうなるとかなり世界が変わる。オランダ、フランス、イタリア、ドイツ。

(寺島)
イギリスには、今や金融くらいしか世界に冠たる産業はない。ロールスロイスはドイツのBMW、ジャガーはインドの自動車会社の傘下に入ってしまっている。ロンドンシティの声を12月に行って聞いてきたが、ヘッジファンドの人たちはEUの縛りを否定し、離脱を支持した。今月イギリスの最高裁がEU離脱の手続(国会の承認の要否)について判断が下ることになっているので注目したい。

(岸田)
民主主義はポピュリズムに弱い。日本でも小泉は、政治不信が高まったときに「自民党をぶっ壊す」と言って出てきて、郵政選挙で刺客まで送り込んだ。独裁体制ができてしまう。

世界の声
ロンドン ナショナリズムの行き過ぎが怖い。
ロンドン 人種差別
ロンドン テロが心配
モスクワ 第3次世界大戦

◆「成長欲求」から「退行欲求」への逆行
トランプ氏とファラージ氏の主張は共通点が多い。
他者を排除する表現
人間が壁を作ってきた歴史
得体のしれない不安に突き動かされたとき、人は壁を作る。

早稲田大学名誉教授 加藤諦三(社会心理学)
「壁を作ることは、心に壁を作ることの象徴。人とのコミュニケーションができなくなったということ。自分の価値が否定されるのが怖いし、不安だから、自分の世界に閉じこもる。人間は矛盾した存在で、基本的に「成長欲求」と「退行欲求」を持っている。成長欲求は負担を背に成長していこうということ。大変厳しいが結果として人間にとって幸せに。退行欲求は、その場の満足を求める。負担から逃れたいという小さな子どものいいとこ取り。去年(2016年)は明らかに世界は成長欲求を拒否した壁を作った。去年の流れのままそれぞれの国が退行欲求に従えば、人類が成長を拒否した流れが主流になってしまう。非常に危険な状態になる。」
世界は壁を作り続けるのか。
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パネル
成長欲求は、コミュニケーションを求める、理念を追求し負担を背負う、長期的に考えるのに対し、退行欲求は、壁を作る、内向き、敵をつくる。

(姜)
アメリカの裕福な人たちの「gated city」を世界に広げようとしている。また、異質な人たちをあぶり出そうとする。「敵は外と内にいる」といってナチスはユダヤ人をあぶり出した。それが外側と通じているとする。それが分かりやすいのが「テロリスト」。日本の幕末期にも起きていた。「外からやってくる列強と呼応する内なる分子がいるはずだ。あぶり出さないと秩序が大変なことになる。」ある種の純化思想。自分たちを純化したい。これが悲劇を生んできたことは近代でいくつもあった。非常に危険。

(目加田)イギリスのEU離脱もアメリカのトランプ政権誕生も、よもやという形で起こった事件。結果はいずれも拮抗していた。大多数が支持していたわけではない。誰かのせいにしたり壁を作ったからといって、時間稼ぎはできるかもしれないが、問題が解決するわけではないことを冷静に受け止める必要がある。

(関口)
第二次世界大戦後、人類は成長欲求の方で進めてきたのに、逆に向き出したのか。
(寺島)
75億人のうち60億人以上は未だに成長欲求の中を生きている。途上国、新興国。求められているのはリーダーの見識。日本から見れば、羅針盤がなくなり、自分で考えないといけなくなってきている。

世界の声
バンコク
イスタンブール 右傾化の恐怖のトンネル

◆強いリーダー渇望と、インターネットによる加速
今世界を動かしているもう一つの力は、強いリーダーを求める群衆のエネルギー。

法政大学(経済学)竹田茂夫教授
一連の現象は、グローバル化した金融資本主義の一つの病。グローバル化によって製造業はどんどん賃金の安い国に流れ、アメリカ国内の製造業で働いていた人たちは見捨てられる。その結果、格差は拡大し、金融資本主義のトップにいる人たちは信じられないような高額の資産・所得を得る。少し前の言葉で言えば「勝ち組」「負け組」。社会が分断され、負け組の方で結局人がバラバラにされていく。」

難民・移民の流入が職を奪うというよりも、グローバル経済が生み出す格差拡大・生活不安などのゆがみこそが、むしろ根本的な問題。
こうした人々の動きを、急速により激しく加速させる背景は、インターネットの拡大。

高千穂大学国際政治学 五野井郁夫教授
インターネットの影響が非常に大きい。リーダーの根拠のない発言やデマをネットを介してうのみにする人が出てくる。そこで憎悪や差別感情が増幅されていく。」
ネット上で流れる根拠のないフェイクニュースをそのまま信じる人々や、ヘイトクライム(憎悪犯罪)も後を絶たない。
「今まで我々は、それを言ったらおしまいという建前があったはず。それをかなぐり捨てて、本音だけをストレートに言う。そこにタブーを破ったような快感がある。ポピュリズムは“多数者による支配”。多数派の意見こそ正しいということになると、少数者、マイノリティの権利が蹂躙される恐れがある。歴史的に振り返ると“ファシズム”がこれにあたる。」

ニューヨーク州立大学名誉教授 イマニュエル・ローラースティン氏
世界の覇権をめぐる歴史研究で知られる。
「アメリカの栄光は(少数派を含む)多様性にあるが、現実のアメリカはそれほど多様性に富んでいない。経済状況が悪化する中で人々はどんどん保守的になっている。保守的になればなるほど、人々は強い政府を求める。しかし、トランプ氏を支持した人々は1年後、2年後にはがっかりするだろう。どこかの時点で人々は言い出すだろう。「おいおい、あんなに約束したはずなのに具体的成果は何も無いじゃないか」と。第二次世界大戦が終わってから25年ほど、アメリカは世界で覇権的な力を持っていた。アメリカがやりたいと思うことは95%実現することができた。しかし、2016年、2017年の今、何の前提もなくアメリカに追随する国など存在しない。どの国も自国の利益を追求するうえで最善の同盟国の組み合わせを探っている。ただ一つ確かなことは、今まで40年、50年続いてきた“システム”、そして今後も20年くらいは続くと思われる今の“システム”は存続しないということ。2040、2050年ころには我々は新たな“システム”の中で生きているだろう。だが、それがどのような“システム”か、私にも予測できない」
これまで、70年から80年感覚で大きな変化が起きてきたという歴史上のジンクスがまた繰り返されることになるのか。

◆今、世界と日本に求められること
(寺島)
今年は明治維新から150年。明治維新から70、80年経った真珠湾前後ころ、日本は大きく迷い込んだ。それは、幕末維新の動乱期に歯を食いしばって耐えた人たちが歴史の前線から消えていった。歴史の教訓が伝わらなくなった。日本も戦後70年を過ぎて、歴史の教訓をどう整理し、伝えていくのかという場面に来ている。世界的に見れば、あまりに肥大化したグローバル金融資本主義をどうやって制御していくのかということに、いよいよ踏み込まなければならない時期に来ている

(姜)
戦後は、第一次、第二次世界大戦によって影響を受けた時代だった。逆説的だが、2つの世界大戦がもたらしたのは、みんなが限りなく平等に生きられるようにという「平等」だった。それとおさらばできると思ったこの時期に、気が付くと格差が広がり、第一次大戦以前の世界に戻っている
今大切なことは、中産層を安定的に増やす。医療、保険、介護、年金など、みんなが安心して暮らせるようなものに社会的資源を配分すること。目先の成長よりも、10年先の中産層の安定を作っていかないと、アメリカやイギリスのように浮遊していく。漂白しないためのアンカーを作っていく必要がある。
日本の独自性という点では、これまで会社の中に自分たちのアイデンティティを持ってきた。日本的経営がダメになったときに、ナショナリズムに行きやすい状況にある。ボランタリーな中間集団を作って、人々がすくい上げられる必要がある。自分一人だという感覚を持たせないために、NGO、NPOなどがもっともっとできる必要がある

(目加田)
確実に変化が起きている。国連で核兵器禁止交渉を110カ国以上が決めた。誰が本当に変化に対応できるのか。市民社会のエネルギーが、トランプなどが出てきたために活性化する可能性がある。オキュパイやもう一つの世界は可能など、問題が明確になることによって力が結集させていく可能性もある。人道主義、人権、平等など、人類が不断の努力で築いてきた価値観が崩れてしまうかもしれないという危機感。壊すのは一瞬だが築くのは本当に大変だということに気づいたうえで、新たな価値を築いていくことが求められている。

(安田)
現在世界を覆っている不寛容さを見ると、出自や宗教や置かれた立場などによる線引きが必要以上になされ、一人一人の顔が打ち消されて集団がノッペラボーになり、攻撃しやすくなっている。争いを始めるのは権力者であっても、それを広げるのは大衆やメディア。沈黙こそが集まって、不寛容さに向かう世界を築いてしまう。人と人とをつなぎ得る言葉を紡ぎあえる1年にしたい。

(岸井)
今が歴史の転換期。今までと質的に違う。これまでの人類の文明とは何かということが突きつけられている。ルネッサンス以来の意識の転換期を迎えている。

テロの惨劇
イスタンブール、ベルリン、アンカラ、アンカラ、ブリュッセル
シリア・アレッポ、イラク・モスル、トルコ軍事クーデター、ギリシャ・マケドニア国境
混迷を深める世界、排他的な世界
日本でも同じことが起こっている。日本のヘイトデモ、沖縄・高江
他方で、地球規模の問題は置き去り
他者への思いやりを持って頑張らなければならない。

 ※画像は上から
  ①2016年~2017年の世界の政治的な動き
  ②「成長欲求」と「退行欲求」
  ③ジョン・レノン「IMAGINE」のプレート
  ④ロサンゼルスの男性のインタビュー


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2017年1月22日 (日)

No.309 21世紀の妖怪の正体と、世界の行方(その1)

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 1月8日、新年最初の「サンデーモーニング」は、新春スペシャルとして「迷える世界~日本の立ち位置~」を放映した。
 私はいつもこの番組は録画しておいて後でさらっと観るだけなのだが、今回は、昨年アメリカ大統領選挙でトランプ氏が当選し就任を目前に控えていること、ヨーロッパや日本でも大きな歴史的な転換点に来ているのではないか(もしかしたら新たな戦前になりつつあるのではないか)という危機感があることから、じっくりと放送を観た。すると、予想以上に興味深い内容だったので、自分なりに吟味するため、その要点を書き起こしてみることにした。
 以下は、私なりの要点書き起こしにすぎず、正確な再現ではないことを、お断りしておく。また、◆印の見出しは私が付したもので、下線は私が興味深く感じた部分に付したものである(前半、後半に分けて投稿する。)。

(以下、番組書き起こし・前半)
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鵺(ぬえ)という妖怪は、不吉な時代に出る。鳴く夜は不吉なことが起こると言われる。
顔が猿、胴体が狸、手足が虎、尻尾が蛇。
平安時代末期に御所に現れたが、源頼政が退治した。
現代に現れたら、誰が退治するのか。番組の象徴として掲げたい。

◆格差と貧困への苛立ちが生み出した「トランプ大統領」
トランプを選んだアメリカで何が起きているのか。
1月20日に就任式の予定。
堂々とトランプ支持を語る人々。ニューヨーク
移民に対する差別・偏見を煽る数々の発言を続けている。
トランプ旋風の吹いた2015年、KKKは支部の数が72→190と、2倍以上に増加した。
ナチスドイツ式の敬礼をする新たな極右勢力が現れた。

ペンシルベニア州のジョンズタウン
伝統的に民主党の強いところだったが、今回はトランプが勝利。それに大きく貢献したのが白人中間層の怒りだった。
ペンシルバニアを含むアメリカの中・西部一帯(ニューヨーク、ペンシルベニア、オハイオ州はラストベルト(さびついた地域)と呼ばれている。
20世紀半ばまで鉄鋼・重工業などアメリカの主要産業の拠点として栄え、それを主に白人労働者が支えてきた。しかし、自由貿易によって製造業は衰退。
ラストベルトのうちミシガン、ウィスコンシン、オハイオ、ペンシルバニア、インディアナ州でトランプが勝利(他にイリノイ、ニューヨーク)。

ジョンズタウンの元溶接工、ポール・カジミアチャックさん(58歳)。溶接工として鉄道車両工場で勤務してきたが、9年前の工場閉鎖で失業。その後アルバイトをしながら看護学校に通い、今は看護師として働いている。
「溶接工のころの方が収入は良かった。今は変わった。倹約して何とかやっている。私の周りにも仕事のない人が多くいる。」
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アメリカ全体では景気が上向きで、失業率も下がっているが、製造業の就業者はこの20年ほどでおよそ3分の2に減っている。失業者も増加するなか、取り残される白人労働者の不満・不安を取り込んでいったのがトランプだった
トランプの演説「中国や日本から雇用を取り戻す」「アメリカを再び偉大な国にする」
ポール氏はこれまで民主党を支持してきたが、今回トランプに乗り換えた。
「選挙では(ワシントンの)ロビイストたちの声ばかりが取り入れられて、私たちは置いてきぼり。トランプ氏なら言ったことを守ってくれる」

不安・不満を生み出すアメリカ社会の崩壊。それは若者の教育現場にも及ぶ。
公立大学の授業料は15年間で約2倍になった。約7割が学生ローンを利用している。10万ドル(約1170万円)以上の債務を抱えている人が約203万人もいる。次世代の中間層になるべき若者たちにも崩壊の波が押し寄せている。
ケント州立大学を去年卒業したトニー・バイルシモさん(27歳)は、現在の学生ローン残高が約650万円。その重荷から、教師への道を諦めた。
「学生から大金をむしりとる金融会社は問題です。政府は企業が若い世代に重荷を課していることを理解していない。クリントン氏を好きになれなかったのは彼女が銀行・ウォール街と結びついているから。」

今、アメリカでは富裕層と貧困層の2極化が進行中。国民の7人に1人が貧困層といわれている。
こうした貧困層に追い打ちをかける事態も起きている。
ミシガン州デトロイト市にある工場跡地。デトロイト市は自動車産業の都市として発展したが、2013年7月に財政が破綻。その影響で警察や消防などの公共サービスが低下。
デトロイトは最盛期、年間1000万台の車を生産していたが、人口は185万人(1950年)から68万人(2012年)に6割減少。税収が落ち込み、公共サービスが低下。街灯の4割が消え、公園の7割が閉鎖。警察官も人員削減され、犯罪率が上昇。一時は全米で最も危険な街とまで言われた。アメリカではこのように十分な公共サービスを受けられない自治体が少なくない。

荒廃するアメリカ社会。人々の怒りは特定の人々にも向かっている。
メキシコと国境を接するアリゾナ州。武装した住民ンが不法移民の入国を監視している。「不法移民はアメリカ国民ではない。彼らは全てを奪っていく」「国境を開くと貧困が入り込んで社会環境が悪くなる」
アメリカの不法移民は1110万人で、アメリカの根幹を揺るがしかねない事態となっている。
アメリカの白人は1960年には85%だったのに、2011年には63%、2050年には47%になるといわれている。中南米からのヒスパニックが増えると言われている。移民国家としての多様性をエネルギーに成長してきたアメリカだが、白人が多数派でなくなるかもしれないという危機感は、アメリカが持つ価値観、寛容な精神に微妙な影を落とし始めている。
「私は中流階級の市民ですが、生活費を稼ぐだけで手いっぱい」(若い女性)
「この国は苦しんでいる人がたくさんいる。不法移民を受け入れて仕事を取られてしまった。移民には来てほしくない」(中年男性)
「もともと分断していた。トランプが分断したのではなく、分断していたからトランプ氏が勝ったんだ。」(中年男性)
かつての覇権国アメリカの崩壊は、今後世界にどのような影響をもたらすのか。

◆「トランプ政権」の性格と懸念
トランプは選挙後も、国境の壁、核能力・軍拡競争、テロ事件、アメリカ製品と雇用、中国の貿易批判などをツイッターで繰り返している。

(寺島実郎)
格差や貧困に対する苛立ちがトランプを大統領にしてしまった。しかし、この政権が始まる前から、この政権の性格が次第に見えてきている。政権の主要人事は、金融・財界、軍出身者を多用。保守強硬派や脱オバマ路線の人たちも並んでいる。産業と金融の違い。製造業が急速に衰えていくアメリカ。今回のトヨタ叩きに見えてきているように、保護主義で闘っていかなければならないという宿命を背負っているが、一方で驚くほどの金融シフトで、ウオールストリートをしばるという人事になっていない。財務長官も商務長官もウオールストリートのマネーゲーマー。産業については保護主義、金融については自由主義で股裂きのような状態。時間の経過とともに、国民の中に大きな失望が生まれる時が来るだろう

(姜)
今回の大統領選の対立は本来バーニー・サンダースとトランプの争いだった。自分たちを苦しめる人を選んでしまった。民主党はサンダースを候補者にして一騎討ちにさせる方がよかった。恐れているのは、軍人とビジネスマンなので、軍事ケインズ主義(軍事産業を通じて公共的な投資をしていくこと)が台頭し、軍事介入をしたり戦争を起こすこともあり得る。それを通じて国内の雇用が出てくるならいいのではないかという意見が出てくるのを危惧する。

(岸井)
80年代レーガン政権時代にアメリカにいたが、当時はみんなアメリカンドリームを信じていた。とにかく努力すれば成功するチャンスは平等にあると。これが完全に終わった。アメリカの失速。

(目加田説子)
大きな戦争で世界秩序を変えられる時代は終わった。共通のルールや共有できる価値観をいかに広げていけるのかが鍵になってくる。

◆EUを離脱したイギリスの場合
ニューヨークの人々の声。
イギリスでも同じような動き。
昨年6月、EU離脱をめぐる国民投票。当初の予想を覆し、離脱派が勝利した。イギリスが離脱を選んだEU欧州連合の発足の背景には、人類が過去に犯した過ちが深く関係している。有史以来戦争を繰り返してきたヨーロッパ。火種となったのは国境線。第1次世界大戦では、一般市民までが戦争に駆り出された。毒ガス兵器などで死者約3700万人。ヒトラー率いるナチス政権が台頭。世界は再び戦争の泥沼に。多くのユダヤ人が虐殺されるなど、死者は約6000万人。惨劇が再びヨーロッパで繰り返された。こうした悲惨な歴史への反省から、国境をなくすために作ったのがEU欧州連合だった。ユーロ紙幣には、開かれた共同体を示す門や窓、人と人との交流を意味する橋が描かれるなどEUの理念が刻まれている。2012年にはノーベル平和賞を受賞。平和に向けた人類の壮大な実験と呼ばれている。
なぜイギリスは離脱という選択をしたのか。

選択の裏には一人の政治家がいた。イギリス独立党の党首だったナイジェル・ファラージ氏。
ファラージ氏へのインタビュー。「誰をこの国に入れるかはその国が決めれなければならないのに、EUはそれを禁じている。誰でも日本に来られるようになったらどうする?イヤでしょう」
移民問題などで主導権を握るEUへの不満が支持を集めた。「国境を取り戻そう。イギリスへのパスポートを取り戻そう」
ドイツ メルケル首相「我々は助けを求めてヨーロッパに逃れてくる人々を尊重しなければならない」
しかし、イギリスでは東ヨーロッパからの移民が増加。生活が脅かされているとして反発が強まっている。特にその声が強かったのが、イギリス中部のボストン。75.6%がEU離脱に投票。

EU離脱に投票した作業員(45歳)
「EU諸国から多くの移民が来ていて仕事を狙っている。そのため以前より仕事が減った。最悪の時は週に1回しか仕事がない。」

このような不満を取り込んでいったのがファラージ氏だった。庶民派をアピールし、離脱に向け支持を獲得していった。
しかし、離脱が決まった後で問題が発覚。キャンペーン中、「イギリスはEUに毎週3億5000万ポンドを負担している。離脱すればその金を国営医療サービスに回せる」と宣伝したが、実際の負担は1億数千万ポンドで、誇張されたものだった。
離脱派の主張は誤りだったことを認め、突然独立党の党首を辞任。
離脱派はその後も集会を行っている。「イギリスは完全な主権国家となり、尊厳、世界での力を取り戻す」、「我々は自由で独立した国になれる」
こうした動きは、他国にも広がりを見せている。

(以下、後半「No.310 21世紀の妖怪の正体と、世界の行方(その2)」に続く)

 ※画像(上から)
 ①新春スペシャルの冒頭
 ②今回の特番の象徴とされた「鵺」(ぬえ)
 ③20年間で3分の2に減少したアメリカの製造業就業者数


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2017年1月 5日 (木)

No.305 「過労死のない社会へ、行動を」──没後10周年を前に、北村 仁さんを偲ぶ

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◆はじめに
 北村仁さん(愛称“キタジン”さん)が2007年4月13日に急死してから、今年10周年を迎える。
 「十年一昔」というとおり、10年の歳月は長い。私が関わり続けている過労死家族の会でも、北村さんのことを知らない人たちが大半となった。
 そこで、少し長くなるが(このブログの文章の中で最長のものになりそうである)、10周年を前に、北村さんの事例と、過労死遺族の運動に果たした功績について書き記しておきたい。

◆北村さんの事案と民事裁判の闘い
 北村さんは、1997年(平成9年)4月に日本通運尼崎支店に契約社員として入社したが、発症前1年間で時間外労働時間1500時間、休日わずか38日という激務を余儀なくされる中で、入社2年半後の1999年(平成11年)9月23日、自宅で急性心筋梗塞を発症し、一命はとりとめたものの心臓にペースメーカーを埋め込んだ身体障害者となった(身体障害東急1級、労災後遺障害東急7級)。
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 北村さんは2000年(平成12年)2月、尼崎労基署に労災申請をしたが、会社はその直後に契約を更新しない旨の通知書を送りつけてきた。
 同年8月、労基署は北村さんの発症を労働災害と認定するとともに、同年12月、会社に是正勧告を行ったが、会社は業務を改善しようという姿勢さえ示さなかった。

 北村さんはこのような会社に怒りを覚えていたところ、2000年(平成12年)12月に開かれた大阪過労死家族の会10周年のつどいに参加して、家族の会に加わるとともに、私たち弁護団に民事訴訟を依頼した(弁護団は私と上出恭子、中西基弁護士)。私たちは約1年間にわたる準備(証拠保全手続を含む)を経て、2001年(平成13年)12月、会社を被告として民事訴訟を提起した。
 裁判では、長時間過重労働の実態の主張立証と、中村賢治医師に医学意見書を書いていただき医学立証に努めた。2003年(平成15年)1月28日の人証調べ期日(原告本人と元上司の尋問)には、35名もの傍聴者で法廷は埋まった。
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 この人証調べの後、裁判所から和解勧告があり、3月7日と4月3日の2回の和解期日で、3300万円を会社が支払うことを内容とする和解が成立した。
 当初、和解金額は3000万円とすることで和解協議は進んでいたが、北村さんが強く求めた会社の謝罪を会社が頑なに拒否したことから、裁判所の提案で300万円が上積みされて和解となったのである。
 北村さんは「この増額分の300万円は、いわばオマケのようなものなので、過労死遺族の闘いに役立ててほしい」と申し出て、このうち200万円を拠出して、過労死遺族に労災申請や民事訴訟の費用を援助する「大阪過労死家族の会 労災・裁判支援機金」(通称“アンパンマン基金”)を設立した。この基金は、これまで多くの人たちによって活用されている。
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◆全国の過労死遺族たちをつなげた北村さんの支援活動
 これ以降北村さんは、自分の残された人生を過労死家族の会のために捧げたといっていいだろう。①大阪過労死家族の会の事務局、②家族の会のメーリングリストの運営、③大阪家族の会のホームページの開設などを積極的に引き受けるとともに、④1997年を最後に中断していた過労死遺族の交流会を2002年から復活させ、2003年からは「夏の一泊交流会」として、全国から子どもたちも同伴して参加できる一大イベントにまとめあげた。⑤のみならず、北村さんは自ら全国を走り回って過労死遺族の闘いを支援し始めた。解決金でトヨタのプリウスを購入し、支援者や遺族たちを乗せて、東京や山梨、長野、岡山、福岡など、全国の裁判の支援にかけつけるようになったのである。北村さんのこれらの活動によって、過労死遺族たちの全国的な交流と相互支援が広がった。
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 また、⑥実際にあった過労自殺事件をモデルにした名古屋の市民劇団「希求座」(当時)の劇「あの子が死んだ朝」の大阪公演(2006年11月)を実現する取り組みや、⑦当時導入されようとしていた(今もされようとしている)ホワイトカラーエグゼンプション(ある程度の年収のある労働者を労働時間の規制から外す制度)導入に反対する取り組みについても積極的に関わった。その中で、北村さんは、「遺族が過労死・過労自殺の悲惨さと、人間らしい働き方の大切さを訴える「語り部」として訴えること」の大切さを語っていた。

 さらに、北村さんは、労働者の立場に立った社会保険労務士になることを決意し、社労士試験の受験も始めたが、あとわずかのところでなかなか合格できなかった。
 北村さんは、新しい過労死遺族の支援を訴えたとき、自ら涙を抑えきれず嗚咽しながら訴えたこともあった。忘年会の二次会などで歌うカラオケは、「島人ぬ宝」や「島唄」など沖縄の歌が多かったように記憶している。まるで父親のように時には厳しく、時には優しく、人に寄り添える人だった。

◆北村さんの“遺言”となった歴史的文書
 そんな北村さんは、2007年2月、次のような一文を書いている。


    「過労死のない社会へ、行動を」─新しい段階を迎えた過労死家族の会の活動

                             大阪過労死を考える家族の会事務局 北村 仁
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1 はじめに
 「大阪過労死を考える家族の会」(以下、家族の会)が結成されたのは、1990年12月8日のことで、この12月8日は日本が、第二次世界大戦に突入した「真珠湾攻撃」の日です。労働現場が「戦場」化しつつあった当時、企業において戦死者をこれ以上出さないようにという遺族の願いで、この日に結成されたと、結成当時からの会員から聞きました。その願いも虚しく、現在の労働現場は、完全に「戦場」となっています。
 私自身は、2000年12月9日の、家族の会結成10周年「過労死を考える集い」からの参加になりますので、結成当時の事は、当時の資料あるいは結成当時から活動している遺族の方々から聞いて知っている範囲です。

 私も、働き過ぎによって命を落とすということについては無知であり、「よく働き、よく遊ぶ」ことを、男の美学と感じておりました。しかし、1999年9月23日深夜、急性心筋梗塞を発症し、生死の淵をさまようことで、人間は働き過ぎたら死ぬのだということを初めて思い知らされました。労災申請して認定された後、大阪過労死問題連絡会の先生に相談し、民事裁判を受任していただいてから、家族の会の仲間に加わり、存命の私が遺族の方々に励まされ、企業責任を問い、一定の成果を出すことが出来ました。その後、家族の会の世話人兼事務局員という形で、深く家族の会と関わるようになり、今では私のライフワークとなっています。

2 家族の会の活動の目的
 家族の会の目的として、下記の4つのことが規約で定められています。
(1) 本会は過労で倒れた本人とその家族或いは遺族の為に、労・公災認定の早期実現を目指すと共に、労・公災補償の改善と民事賠償に取り組む。
(2) 被災者の遺・家族及び被災者及び過労死に関心のある団体・個人とが手を結び、過労死の問題を広く社会にアピールしていく。
(3) 過労死の発生する社会的背景について、企業及び監督官庁の健康・安全管理等の問題点を明らかにし、過労死発生の予防に取り組む。
(4) 「家族」相互の情報交換を密にし、支え合い励まし合って連帯の輪を広げていく。
 以上の4点を柱に、実際の活動内容を要約すると「認定、裁判支援・認定基準、訴訟知識の学習・遺族及び支援者との交流・社会、行政へのアピール発信」等を、行っています。

3 学び合い、励まし合う交流の広がり
 1990年の結成からの10年間は、労災認定が非常に難しい10年間でした。この間の苦しい活動を通じて「過労死」という問題について広く社会に認知させ、2001年12月12日に「新・認定基準」に改定させるという大きな成果を得ることが出来ました。この認定基準の改定により、更に多くの遺族が救済されるようになりました。
 しかし、この頃から「過労死」に加え「過労自死」事案が急激に増えてきました。更に、結成当時は主に40歳後半か50歳代が中心であった被災者が、若い世代(20・30歳代)においても増大し、幼い子供を抱えた遺族、究極にはお父さんに抱かれたことがない遺児まで作ってしまうような時代になったのでした。毎月1回定期的に行っている家族の会例会にも、続々と若い遺族が加わるようになりました。
 
1997年で途切れていた遺族の交流会も2002年6月8日に大阪中央区の宿泊施設において「一泊学習交流会」という形で復活させ、2003年度の東大阪市で開かれた一泊学習交流会からは子供同伴可能の交流会になりました。大阪家族の会員以外の地域の遺族にも呼びかけ毎年約60名を越す参加者で恒例行事に位置づけられ、翌2004年度からは奈良県桜井市の国民年金保養所「大和路」に会場を移し現在に至っています。遠くは新潟・群馬・福岡他全国各地からも多くの遺族が参加されるようになり、交流は深夜に及びます。

 昨年(2006年)の交流会では、1日目に東京から過労死問題の第一人者の上畑鉄之丞先生を講師にお招きして学習を、2日目は「過労死グループ」と「過労自死グループ」と2グループに分け、アドバイザーの弁護士・医師・支援者の方々にも加わっていただき、グループミーティングを初めて行い、好評を得ることが出来ました。

 時代の流れも、アナログからデジタル時代に突入し、若い世代を中心に家族の会の情報をインターネットにより求めるようになって来ました。岩城先生からの勧めで、ホームページを作成することになり、講習に出かけ初心者の私が拙いホームページを立ち上げて早3年が過ぎました。ホームページからの相談に、大阪過労死問題連絡会の先生方に協力・支援を仰ぎ、過労死の認定を得ることが出来た方からの嬉しい報告が届いた時は、ホームページを立ち上げて本当に良かったと嬉しさがこみ上げてきました。大阪過労死を考えるホームページは、大阪過労死問題連絡会のホームページと共に、全国の遺族の駆け込み寺になっています。更に、過労死家族のメーリングリストも全国の過労死遺族の重要な交流の場になっています。

 2003年6月28日には、大阪過労死を考える家族の会労災・裁判支援基金を設立しました。賛同していただいた方からの浄財カンパで運用し、認定闘争に必要な資金支援の体制も出来上がりました。
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4 過労死・過労自死をなくすために行動する会へ
 過労死の認定基準が緩和されてきたといっても、まだまだ認定されないケースがたくさんあります。また過労自死の認定基準は実態に合わず、多くの過労自死遺族が涙を飲んでいます。これを打開するには、認定基準やその運用の改善がどうしても必要です。
 また、そのような改善を勝ち取るには、過労死・過労自死に対する世間の理解をもっともっと広げる必要があります。

 そこで、認定や勝訴を勝ち取り自分の事件が終わった遺族も一緒になって、認定基準やその運用の改善を求め、また世間に広く過労死・過労自死をなくそうと訴える活動に、会として取り組み始めました。
 毎年11月に全国家族の会として行っている厚生労働省交渉には、大阪を含め全国で闘っている多くの遺族が参加し、厚労省の担当者に直接訴えをしています。
 また、2003年からは年に数回、「過労死110番」の実施に合わせ、遺族が街頭に立ちマイクを握り、過労死のない社会の実現を目指し、遺族の体験を通行人に呼びかける活動を行うようになりました。
 2006年11月24・25日に上演した劇「あの子が死んだ朝」実行委員会の活動においても、遺族が広告塔となり色々な団体に過労死・過労自死について訴えに行き、取り組みの成功に大きな役割を果たしました。
 さらに、今導入されようとしているホワイトカラーエグゼンプションは「過労死促進法」であり、これが導入されると過労死・過労自死がますます増え、また倒れても本人の自己責任とされ労災認定も難しくなるといわれていることから、過労死遺族の中でも大きな不安と反対の声が広がっています。2006年11月22日には全国過労死を考える家族の会総会において緊急アピールを発し、また大阪でも、「働き方を考える大阪ネット」に結成準備から関わり、遺族がリレートークに積極的に加わるなど、過労死・過労自殺の悲惨さと、人間らしい働き方の大切さを訴える「語り部」としての活動を行っています。

 このように、過労死・過労自死の無い社会の実現を目指す活動の中心に遺族が主体的に活動に参加するようになったのは、大きな前進であると誇らしく思っています。遺族でなければ訴えられないことを、率先して主体的に遺族が訴え、過労死撲滅の先鋒として社会にメッセージを発することが出来る団体に成熟してきたと感じています。

5 家族の会へのいっそうのご支援を
 結成以来16年間の遺族の頑張りで、大きな成果を得てきましたが全員が救済されるということはありません。裁判闘争で勝ち取った判決を積み上げ、近年増加の一途である自死事案の認定基準、労働実態に合致した過労死認定基準の改定へと前進しなければなりません。
 結成当時の初心に戻り、『過労死撲滅』に向け更に前進すると共に、遺族のネットワークを密にし、共通の悲しみを持つ仲間の集団として「運動」+「癒し」が共存できる家族の会でなければならないと私は考えています。
 今後とも皆様からの、あたたかいご支援をお願い致します。
                    (民主法律268号・2007年2月より)


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◆北村さんの急死
 ところが、上記の文書を書いたわずか2か月後の2007年(平成19年)4月13日、北村さんは入院して検査を受けていた病院で突然心筋梗塞を発症して亡くなってしまったのである。周囲の私たちはもちろん、当の本人さえ、まったく予想だにしていないことであった。
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 たまたまこの日お見舞いに行こうとしていた寺西笑子さんたち5人と、訃報を聞いてかけつけた私たち4人は言葉にならないほどの衝撃を受けたが、北村さんには交流のある親族がおられなかったことから、寺西さんが「喪主代行」となって、いわば「家族の会葬」を行うことになったのである。

 4月15日の通夜と4月16日の告別式には、全国から実に約140人もの人たちが駆けつけた。お通夜では北村さんの柩の傍で、夜を徹して北村さんの死を悼み、思い出を語り合った。
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 北村さんが生前、「自分は大阪で人間として生まれ変わったので、大阪に骨を埋めたい」と話すのを聞いた遺族がいたことから、お骨は分骨し、4月13日に本骨を故郷の三重県尾鷲市にある実家のお墓に納骨し、分骨は6月6日、大阪の四天王寺に納骨する式を執り行った。

 ここでも、これまで親族以外の他人が「施主」になる例がなかったとのことで、当日お寺側と相当揉めたとのことである(当日私は出席できなかったが、松丸正弁護士が大活躍したと聞いている)。少し大げさに言えば、四天王寺開びゃく1300年の歴史の中で初めて、親族でない他の過労死遺族が施主になって、分骨の納骨が実現したのである。
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◆亡くなる直前に取材を受け、亡くなった後に出版された本で紹介
 北村さんは、経済ジャーナリストの岸宣仁氏から取材を受けていて、北村さんが亡くなった3か月半後に「職場砂漠 働きすぎの時代の悲劇」(朝日新書、2007年7月30日第1刷発行)が出版された。
 その中の「「OB」たちが支える全国家族の会」という見出しの文章の中で、北村さんについて次のように記述されている。

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(前略)
 鈴木会長(注、当時全国家族の会の会長であった鈴木美穂さんのこと)は名古屋の会の出身だが、メンバーが多いのは大阪と東京だ。なかでも大阪の活発な活動はつとに知られている。月1回の例会や各家族の裁判の傍聴支援、過労死・過労自殺・サービス残業110番の街頭宣伝活動への参加、年1回の泊まりがけの「一泊学習交流会」‥‥。大阪家族の会で事務局を担当していた北村仁(58歳、07年4月に急死)は生前、こう話していた。
 「小さな子供を抱えた奥さんが労災申請する場合は、まず生活の心配をする必要が出てきます。遺族年金だけだと金額が少ないですから。そういう場合は一発認定を取るために、専門家らの意見を聞いて行動しなければなりません。見ていると、とっかかりでミスしている人がいるので、そういう人に適切にアドバイスするのが家族の会の役割になってきます」
 北村は、自身が日本通運でドライバーをしていて、働きすぎで心筋梗塞を発症した経験の持ち主だった。ペースメーカーをつけているため再就職は無理。「それで時間があるので、会の活動にのめりこんでいった」と謙遜していたが、自身の体験でアドバイスできることがあれば、困っている人にその知恵を伝えたいと思っていたのだろう。
 各地の家族の会で中心メンバーになっているのは、北村のような人たちがほとんどだ。自分の闘いは終わり、労災認定や裁判勝訴の経験を持つ「OB」とでも呼んでいい人たちである。(以下略)

 著者の岸氏は、北村さんの急死を知って、驚いていたという。
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◆北村さん没後の10年を振り返って
 そんな北村さんが亡くなってから、10年が経とうとしている。
 北村さんの上記の「行動文書」は、まるで残された私たちへの遺言のように思われた。
 厚労省交渉など過労死家族の会の活動が全国で力強く広がり、全国的な交流も進んだ。
 2009年11月には寺西笑子さんが原告となって「過労死を出した企業名の公表を求める訴訟」を提起した(地裁では勝訴するも高裁・最高裁で敗訴)。

 更に2010年(平成22年)10月、全国過労死家族の会が主催して「過労死防止基本法の制定を求める院内集会」を行い、これを受けて2011年(平成23年)11月、「ストップ!過労死 過労死防止法制定実行委員会」を結成した。その後55万を超える署名、143に及ぶ地方自治体の意見書採択などの大運動を経て、ついに2014年(平成24年)6月、衆参両院の全員一致で「過労死等防止対策推進法」が可決・成立、同年11月に施行されたことは、周知のとおりである。
 その後、過労死防止大綱が制定され、先日は初めての過労死白書が発表された。全国のほとんどの都道府県で国主催の過労死防止シンポジウムが行われ、高校や大学での過労死防止の啓発授業が本格的に行われようとしている。
 そして、北村さんの死後、各地に新しい「家族の会」がいくつも結成されている。

 私は、この10年を振り返り、北村さんが広げようとした運動を全国の遺族たちが受け継いで発展させ、今の到達点があることを、改めて強く思う。
 ただ、その一方で、もし北村さんが生きて、この運動を一緒にやることができたら、今どんなに喜んでいるだろうと思うと、未だに悲しみと悔しさを振り払うことができないのである。

 ※写真は、上から順に、
 ①民事訴訟で和解が成立した日に(北村さん、上出恭子弁護士と私)(2003・4・3)
 ②大阪家族の会の一泊交流会で裏方を務める北村さん(2005・7・3)
 ③福岡地裁での金谷さん行政訴訟勝訴の日に(2006・4・12)
 ④和歌山の上田さんの勝利祝賀会の二次会にて(2006・4・15)
 ⑤名古屋の劇団希求座の劇「あの子が死んだ朝」の打ち上げ会にて(北村さんは最前列左端)(2006・11・26)
 ⑥大阪家族の会の忘年会で発言する北村さん(2006・12・20)
 ⑦民主法律協会主催「2007年権利討論集会」の懇親会にて(隣は寺西笑子さん)(2007・2・17)
 ⑧北村さんのお葬式の祭壇(2007・4・15)
 ⑨お通夜に駆けつけた人たち(2007・4・15)
 ⑩北村さんの柩(向かって奥)の傍で語り合う参列者たち(2007・4・15)
 ⑪告別式で挨拶をする私と寺西笑子さん(2007・4・16)
 ⑫北村さんが紹介された「職場砂漠」(岸 宣仁著・朝日新書)
 ⑬北村さんの三回忌にて(四天王寺)(2009・4・11)

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2016年12月31日 (土)

No.304 2016年 私の15大ニュース(その2)

 続いて、後半(8~15位)である。

【第8位】「COLAP6」会議参加のためにネパールを訪問したこと
 6月17日(金)~19日(日)、ネパールのカトマンズで開かれた「COLAP6」という国際会議に参加してきた(「No.287 アジア・太平洋の22か国の法律家がネパールに集う」)。「COLAP」というのは、“Conference of lawyers in Asia Pacific”(アジア太平洋法律家会議)のことで、アジア・太平洋地域の国々の法律家団体が、5年に1回程度、各地で開いているものである。私はこれまで南アジアの国に行ったことがなく、ネパールは行きたい国だったので、行けてよかった。

【第9位】「和歌山ひまわり会過労死事件」が勝利して終わったこと
 和歌山県有田郡広川町の介護老人福祉施設で事務責任者として勤務していた小池修司さん(当時49歳)が2010年、宿直勤務中にクモ膜下出欠を発症し、死亡した事件で、今年2月29日、大阪高裁で①1審判決を上回る解決金の支払、②原告らに対する謝罪、③和解内容の施設内掲示などを内容とする完全勝利和解が成立した。

 妻の小池江利さんは、民事訴訟と並行して過労死防止法の制定運動にも取り組み、和歌山県、和歌山市、有田川町の3つの議会で「過労死防止基本法の制定を求める意見書」の採択を実現し、過労死防止法制定の大きな力となった(「No.159 「過労死防止基本法の制定を求める意見書」を和歌山県と和歌山市が同時採択!」)。また、4月からは大阪過労死家族の会の代表に就任し、過労死の救済と予防のために広く活動を続けている。
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 10月8日、江利さんご家族、弁護団、支援者による裁判報告集会が、大阪の堂島ホテルで開かれた。艶やかな着物姿で御礼の言葉を述べるEさんと3人の子どもさんの姿を見て、この5年あまりの裁判の闘いと過労死防止防止の取り組みが重なり、万感胸に迫るものがあった。

【第10位】「欠陥住宅全国ネット」が結成20周年を迎え、12年ぶりの金沢大会に参加したこと
 阪神大震災の翌年1996年12月14日、被災地神戸で結成された欠陥住宅全国ネット(欠陥住宅被害全国連絡協議会)が、今年20周年を迎えた。
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 私は結成総会から関わり、1997年10月から99年2月まで欠陥住宅関西ネットの事務局長、1999年5月から2007年11月までの8年半にわたって欠陥住宅全国ネットの事務局長を務めたことから、同ネットが20周年を迎えたことに大きな感慨を覚える。
 6月4~5日には大阪で第40回記念大会が行われ、また11月26~27日には12年ぶりに金沢で開かれた第41回大会にも参加した。

【第11位】共同代表を務める「働き方ASU-NET」が結成10周年を迎えたこと
 2006年9月、当時第一次安倍政権が導入しようとしていた「ホワイトカラーエグゼンプション」(一定の年収があるサラリーマンには労基法の労働時間規制の対象から外す制度)に反対するため、「ストップ・ザ・エグゼンプション-働き方を考える大阪ネット」(働き方ネット大阪)を結成し、私は事務局長となった。その後働き方ネット大阪はユニークな活動を続け、2013年7月にはNPO法人「働き方ASU-NET」に以降し、私は森岡孝二先生と共同代表になった。
 2016年、ASU-NETは結成10周年を迎え、10月14日、10周年記念のつどいを開催した。現在、この10年間の活動をまとめた記念誌を作成しているところである。
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【第12位】ボブ・ディランを含めて4つのコンサートに行ったこと
 今年は珍しく、4回もコンサートに行った。玉置浩二(2月24日)、坂本冬美(4月1日)、ボブ・ディラン(4月11日)、高橋真梨子(7月14日)の4人である。いずれも前から行きたかったコンサートだった。
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 特にボブ・ディランは、もしかすると最後の日本公演になるかもしれないと思ったので奮発したが、10月13日、ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞することが発表され驚いた。もし発表された後のコンサートであればチケットは買えなかっただろう。

【第13位】3つの映画を観たこと
 映画も3つ観た。「シン・ゴジラ」(8月28日)、「君の名は。」(9月18日、No.295参照)、「この世界の片隅に」(12月25日、No.302参照)。
 ゴジラの映画は、2014年8月にも「GODZILLA ゴジラ」を観たが(No.202参照)、今回の方がはるかによかった。いろいろなメッセージが込められているようで、議論するのも楽しい。ちなみに、NPO法人POSSEの親しいSさんは「シン・ゴジラ」を5回も観たと言っていた。

【第14位】「RI●AP」に行ったが結果にコミットできなかったこと(笑)
 今だからこそ言うが、6月28日から8月23日までの約2か月間、あの有名なマンツーマントレーニングジム「RI●AP」に通った。週2回×8週間で全16回休まず行ったが、残念ながら落ちこぼれの生徒だったうえ、ほぼリバウンドしてしまった。
 「RI●AP」のダイエット法は、①週2回の筋トレ、②食事制限(特に炭水化物)、③サプリメントの服用、の3つの組み合わせであるが、特に②が難しかった。もともと丼物など米飯(ライス)やめん類(うどんやラーメン)が好きなうえに、ライスに代わるものがほとんど売っていないからである(私の場合は、豆腐をライスの代わりにすることが多かった。また、豆腐でできたソーメンもよく食べた)。そのため、体重は3~4㎏くらいしか減らなかったが、それでも、BMIも多少下がり、一時はウェストもはっきりわかるくらい細くなった。数十年ぶりに腹筋もちょっとだけ割れた(笑)。
 しかし、ジム通いが終わると食生活も、運動量も元に戻り、ほぼ以前と同じ状態に戻ってしまった。「結果にコミット」できなかったのは自己責任です(笑)。

【第15位】その他書けないことも含めていろいろあったこと(何のこっちゃ)
 その他、今年は(今年も)良いことも悪いことも、いろいろあった。事件でいえば、勝った事件もあるし、残念ながら負けてしまった事件もある。どれも全力を尽くしてきたものばかりである。
 また、それ以外で、ここに書けないこともいろいろあった。ずっと書けないこともあるし、いずれ書ける時期が来るものもある。

 改めて、1年というのは本当に長く、いろんなことがあると思う。
 そんな1年も、あと何回送ることができるのだろうか。
 来年は、これまで以上に、1日1日を大切にしていきたいと思う、年の瀬である。

 ※写真は上から
 ①10月5日、小池さんの祝賀会で、江利さんと弁護団(林裕悟、舟木一弘両弁護士と)
 ②1996年12月14日、欠陥住宅全国ネット結成総会の後、神戸ルミナリエにて(当時40歳、若い!)


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2016年12月30日 (金)

No.303 2016年 私の15大ニュース(その1)

 昨年(No.267)に続いて、私にとって大きな出来事だったことを整理しておきたい。昨年は「10大ニュース」だったが、今年は第15位まで書いておきたい。
 前半(1~7位)と、後半(8~15位)の2つに分けて書くことにする。
 まずは、前半から──

【第1位】還暦(60歳)を迎え、お祝い会をしてもらったこと
 9月中旬、還暦(60歳)を迎えた。それが直ちにどうということはないが、人生が仮に80歳までだとすると、第4コーナーを回ったということになる。「残された人生で何ができるか、何がしたいか」を、自分の体力や気力とも相談しながら、逆算的に考えていくべき段階に来ているのだろう。
 9月3日、後輩の弁護士たちが私たち夫婦のために還暦を祝う会を開いてくれたのは、大変嬉しく、光栄なことだった(「No.294 人生60年目の光栄と至福──後輩の仲間たちによる還暦祝賀会」)。改めて感謝申し上げたい。

【第2位】「ゆうあい会」(いわき総合法律事務所友の会)を結成し、計3回のイベントを行ったこと
 3月5日、わが「いわき総合法律事務所」の親睦会である「ゆうあい会」の結成総会を、大阪国際大学の谷口真由美先生をお招きして行った(「No.276 「政治の春」を呼ぶには──谷口真由美さんをお招きして<「ゆうあい会」結成総会>」)。
 依頼者や関係者、お世話になっている専門家の皆さんと当事務所の弁護士・所員が互いに交流し学びあうこのような会は、私がずっと思い描いていたものだったので、盛大に結成総会を開くことができたことは、本当に嬉しかった。
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 その後、ゆうあい会として、7月9日には第1回レクリエーション企画として万博公園「ニフレル」(水族館)とアサヒビール工場見学を行い、また、12月3日には全盲の落語か桂福点さんの落語と中田進先生の講演をセットにした「お楽しみ公演」を行った。
 いずれも大変好評で、参加者の皆さんと交流と親睦を深めることができた。
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【第3位】2人の新人弁護士が入所してくれたこと
 2月1日、安田知央弁護士が事務所に入所。安田さんは、先に入所した稗田隆史弁護士と同期で、稗田弁護士と同じく私が司法修習で指導担当弁護士を務めたことが縁で入所してもらうことになった。
 また、つい最近の12月16日、元山裕晶弁護士も入所した。元山君は2013年2月から3月にかけて約1か月間、京大ロースクールのエクスターンシップで私に付いて研修したことがあった。その後京大ローを卒業して司法試験に合格し、神戸での1年間の修習を経て、入所してくれることになったのである。
 若い弁護士が事務所に入ると、事務所が明るくなる。私も彼らからエネルギーをもらいながら、頑張っていきたい。

【第4位】44年ぶりの中学同窓会を実現したこと
 8月13日、私が卒業した和歌山県紀の川市の打田中学校の学年全体の同窓会を行った。1972年の卒業以来、実に44年ぶりの開催だった(「No.292 44年ぶりの再会に、最高に盛り上がった中学同窓会」)。中学校の当時の卒業アルバムの不十分な住所(字(あざ)までしか記載がない)しかない中で、半年以上にわたって情報を集め、準備しただけに(「No.283 44年ぶり!の中学同窓会開催に奮闘中」)、30人を超える参加があったことは、本当に嬉しかった。
 また、この夏は、2年に一度開いている高校の同窓会のほか、中学時代のクラスメートのM君と、浪人時代の友人のS君とも会って、旧交を温め合った(「No.293 過去への旅路」)。
 ちょうど還暦を迎えた年にこのような機会を持てたことは、忘れられない思い出になるだろう。

【第5位】5年ぶりの「大阪憲法ミュージカル」に実行委員長として関わったこと
 6月2日~5日、大阪で5年ぶりの憲法ミュージカル「無音のレクイエム」が開かれることになり、7公演で3000人近い観客があり大成功した(「No.260 大阪で5年ぶりに「憲法ミュージカル」開催決定!」、「No.269 5年ぶり開催の「大阪憲法ミュージカル」が大きく新聞報道」、「No.282 大阪憲法ミュージカル、上演まであと1か月──準備も練習もいよいよ佳境に」、「No.285 すばらしかった憲法ミュージカル「無音のレクイエム」」)。私はほとんど名ばかりであるが実行委員長として準備段階から関わるという、貴重な経験をさせていただいた。
 今回の成功を受けて、来年秋にまた憲法ミュージカルをやろうという動きが出ているようである。次はどんな形で関わるかわからないが、私なりに応援していきたいと思う。

【第6位】厚労省の過労死等防止対策推進協議会委員の一人として、初めての「過労死白書」の作成に関与したこと
 2014年12月から2年間の任期で、過労死防止法に基づいて厚労省に設置された過労死等防止対策推進協議会の委員になっているが、2年目になる今年は、厚労省が初めて作成した「過労死白書」の作成作業に関わった。12本のコラムのうち8本を過労死防止全国センターが受けもった。

【第7位】3会場の「過労死防止啓発シンポジウム」で講演し、また過労死落語「エンマの願い」の公演に貢献したこと
 過労死防止法と大綱に基づいて全国各地で行われる、国主催の過労死防止啓発シンポジウムは、今年は42都道府県43会場(1か所は中央会場)まで広がった。私は中央会場(11月9日)に出席するとともに、大阪(11月11日)、徳島(11月12日)、和歌山(12月9日)の3会場でのシンポジウムで講演者の1人として参加した。
 また、今年は、桂福車師匠による過労死をテーマにした落語「エンマの願い」が、奈良(11月10日)、大阪(11月11日)、岡山(11月12日)、兵庫(11月22日)、福岡(12月3日)の5会場で上演された(「No.298 過労死防止啓発シンポジウム、今年は全国43か所で開かれる──「過労死落語」も目玉の一つに」)。私は、この取り組みを応援し、また、制作の過程で意見を述べるなどしたことから、上演で好評を得たことはとても嬉しかった。

 ※写真は上から
 ①ゆうあい会のレクリエーション企画(7月9日)で、アサヒビール工場にて(試飲中!この頃はちょっと痩せてますよね→第14位参照)
 ②ゆうあい会の「お楽しみ公演」(12月3日)で、古典落語を公演する桂福点さん


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2016年12月15日 (木)

No.301 遅ばせながら、ついに「パワポ」に挑戦!

 「フン、今頃か」なんて笑われそうだが、今、初めてパワーポイント(パワポ)に挑戦している。

 私は、司法修習2年目の1987年ころにワープロ、弁護士8年目の1996年ころからパソコン、1999年ころからはホームページ(大阪過労死問題連絡会や欠陥住宅全国ネット、当時所属していたあべの総合法律事務所の3つのホームページを「ホームページビルダー」というホームページ作成ソフトで拙いながらも自分で作るなどしてきた)、そして2011年からはこのブログ、2013年からはフェイスブックも開始した。

 世代的には間違いなくアナログ世代であるが、その中では比較的、IT化に乗り遅れずについてきた方だと、自分では思っているのである。

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 しかし、会議や講演でのプレゼンテーション用のスライド作成ソフトであるパワーポイント(パワポ)だけは、きちんと取り組み始めるタイミングがないまま、今日に至っていた。

 それに、私の場合、後で役立ててほしいという気持ちから、体系的で詳細なレジュメと資料を配布することが多いので、聴きやすく視覚に訴えやすいパワポには馴染みにくいのではないかという気持ちもあった。

 2011年から過労死防止法制定の取り組みの中で、講演やプレゼンの機会が増え、法律の制定後はいっそうその機会が増えたため、「そろそろ本格的に始めた方がいいんだろうなあ」と感じていた。

 加えて、この冬から、国が過労死防止の啓発事業の一環として、高校等での啓発授業への講師派遣を本格的に開始することになり、私も来年1月以降、いくつかの高校に出かけて出前授業を行うことになったのである。
 単に1クラスだけならレジュメだけの方がよいかもしれないが、50人以上で体育館やホールで話すとなると、レジュメだけでは、みんな下を向いてばかりになってしまうのではないか。
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 そこで、一大決心をして、この年末年始にパワポのスライド作成に挑戦することにしたのである。

 まずは、この間大阪、徳島、和歌山の各会場での過労死防止啓発シンポジウムで使ったレジュメを元に、試作してみた。
 すると、元来「凝り性」の私なので、写真やイラスト、表を入れてみたり、文字のフォントを変えたりカラフルにしてみるなど、結構楽しい。
 いずれは、画面に記述が付け加わっていったり、文字列やイラストが移動するなど、聴衆の方々が楽しめ、印象に残るものをめざしていきたい。

 それに、このようなパワポ作成の過程で、自分自身も講演のポイントがよく整理・理解できることもわかった。
 既にパワポに習熟されている皆さん、いろいろと教えてください。

 ※画像は、私が初めて試作した、過労死防止啓発シンポジウム和歌山会場で配布したレジュメをパワポに作り替えたものです。出来はいかがですか?

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2016年10月29日 (土)

No.299 「みっともない!」の正体──「電車内での化粧はマナー違反」キャンペーンについて

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 東急電鉄が9月中旬から10月末まで、電車内で化粧する女性を「みっともない」と批判する広告を大々的に行っていることについて、ネット上で激しい論争が起こっている。

 問題となっているポスターや動画を観た(→動画はこちら)。
 「都会の女はみんなキレイだ。でも時々、みっともないんだ」の手書きのキャッチコピー。そして、若い女性が突然、座席に座って化粧する女性2人の前で踊りだす。BGMの歌詞は「教養ないない」「みっともないない」「あなたの変身見られてます」「あなたはマナーができてない」‥‥。

 私は4年前にこのブログでこの問題について書いたことがあったので(「No.97 電車内の化粧が不快な理由」)、この論争を興味深く読んでいるが、賛否それぞれの根拠について、必ずしも噛み合っていないように思う。
 私は弁護士なので、基本的人権や権利の観点を踏まえつつ、問題点を整理してみたい。

①物理的被害を周囲にもたらす化粧は、論外である。
 人は、他の人の権利を侵害しない限り自由に行動できるのであり(憲法第13条)、電車内での「化粧の自由」も幸福追求権に含まれる人権であるといえる。
 しかし、ファンデーションの粉が舞ったり、強い臭いによって他の乗客に物理的な被害を及ぼす場合は、他人の人権を侵害するものであり、許されないことは当然である。乗客の中には化学物質過敏症の人もいるかもしれない。
 ただ、これは、電車の混み具合や化粧の内容にもよるので、どんな化粧も絶対にダメだという根拠にはならない。この点では、動画の電車内は比較的空いていることから、「いったい誰に迷惑をかけているのか」という批判はもっともである。
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②他の乗客に不快感を与えるのは、化粧に限らないという批判がある。
 車内で大声で会話する、酔っぱらって騒ぐ、イヤホンから音漏れさせながら音楽を聴く、スポーツ紙のポルノ紙面をこれ見よがしに広げる、混んでいるのに足を広げて座ったり荷物を置いたりして座席を独占する、などである。
 これは、多かれ少なかれ他人の権利を侵害するものである。車内には静かに過ごしたいと思ったり考え事をしている人もいるし(特に、単なる騒音ではなく嫌でも中身を聴いてしまう、会話や音楽などの「意味騒音」は不快感が大きい)、ポルノ紙面を広げるのは明らかな「環境セクハラ」だし、座席には平等に座る権利がある。だからこそ東急も他の公共交通機関でも、これらの迷惑行為はやめましょうとキャンペーンをしているのである。

③「見たくないものを見せられたくない」という周囲の乗客の感受性は尊重されるべきである。
 電車内の化粧は、①のような物理的被害を与える場合は別にして、直ちに誰かの権利を侵害しているわけではなく、与えているのは純粋な「不快感」である。

 私が前回のブログで書いたのは、この点である。


 そもそも、化粧は文字どおり「化ける」ことであり、自分を実際以上に見栄えよく見せるために行うものである。見栄えよく見せるのは、公的な場(役者であれば舞台や撮影の場)であり、化粧は「楽屋裏」で行うものだろう。電車の中は、「舞台の上」なのか、「楽屋裏」なのか。
 「私は役者ではなく普通の個人なんだから、関係ない」と言うかもしれない。だったら、その人は、自分の恋人やその両親、会社の上司、男性の同僚、取引先の担当者を前にして、化粧するだろうか。しないとしたら、それはなぜだろうか。
 そう考えてくると、その女性が私の前で堂々と化粧をするのは、その人が私のことを「恥ずかしいところを見られても構わない、どうでもいい人間」と判断しているからである。
 私が不愉快になるのは、「私の大切な人には見られたくないけど、あんたなんか私と関係ない「石ころ」みたいなものだから、見られても全然構わない」というメッセージを感じるからなのである。

④多様な人がいてよいという社会全体の包容力、他人のマナーへの許容度が低下しているのではないか、という議論がある。
 その例として、ベビーカーを押して乗る母親や、車いすに乗った障害者、泣き叫ぶ赤ちゃんを連れた親に対する冷淡な態度が引き合いに出されることもある。しかし、これらの社会的ハンディキャップを負った人たちも公共交通機関を利用する権利があり、これを許容することは社会の責任であるが、電車内の化粧はこれと同じ性格の問題だろうか。
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⑤女性に対して、より美しさや身だしなみを強要するのはおかしいのではないか、「オッサン目線」からの批判ではないかという意見もある。
 そのような風潮があることは否定しないが、だからといって、電車内の化粧を直ちに正当化するのは飛躍があるように思う。
 また、電車内の化粧に対しては男性より女性の方が批判的である(日本民営鉄道協会の2015年度のアンケートでは、電車で迷惑と感じる行為の第8位が車内化粧だったが、男女別では男性は第9位、女性は第7位であった)。

⑤仮にマナーの改善を図るにしても、上から目線の攻撃的なキャンペーンをするのはおかしいのではないか。
 私が最も違和感を感じるのは、この点である。いくら広告用の動画とはいえ、化粧中の女性の前に立って見下ろしながら、「みっともないない」「教養ないない」と声を張り上げて踊るというのは、他人をバカにするもので、一種のイジメに近いものを感じる。
 「オッサンのパワハラ的なもの」を感じるとすれば、この点ではないだろうか。

 以上のように、戦わされている議論は、「ミソもクソも一緒」になされているきらいがある。「人は、他の人の権利を侵害しない限り自由に行動できるが、他人の権利や正当な利益を侵害してはならない」、「権利と権利が衝突したときは、どのように調整するかを考えなければならない」という、憲法第13条の「公共の福祉」の考え方に立ち返って議論されるべきであり、それによって建設的な議論が可能になると思う。
 広告キャンペーンは、泣いても笑ってもあと3日ほどである。
 見ていない人は、ぜひ見ていただいて、一緒に考えてみませんか。

 ※画像は上から
 ①東急電鉄の今回のポスター
 ②東急電鉄の今回の動画より
 ③東京メトロのマナーポスター(私が一番見たくないのは、これをしているところです(^_^;)

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2016年9月 3日 (土)

No.294 人生60年目の光栄と至福──後輩の仲間たちによる還暦祝賀会

 こんなに幸せなことがあってよいものだろうか。
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 9月2日、四天王寺の「トラットリア・イル・カンポ・ダ・シゲ」という(一度では覚えられない名前だが)とっても素敵なイタリア料理のお店を借り切って、私たち夫婦の還暦を祝う会を開いてくださった。
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 あべの総合法律事務所の同僚だった上出さん、中森さんが、過労死問題や欠陥住宅問題などで一緒に頑張ってきた後輩の弁護士や、現在の事務所のメンバーなどに声をかけてくれたのである。忙しい人たちばかりなのに、24人もの人たちが集まってくれた。
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 乾杯のあいさつをしてくれた田中俊さんをはじめ、参加者一人ひとりが、時にはスパイスを効かせながらも、心のこもったお祝いの言葉をくださった。
 また、今回参加できなかった方から寄せられた、温かいメッセージも読み上げられた。
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 弁護士になってからの28年半は、私の生きてきた60年間のほぼ半分にあたる。
 この間、過労死問題や欠陥住宅問題などを中心に、微力ながら、様々な活動や事件に取り組んできた。日本全体や世界から見れば取るに足りないささやかな歩みであるが、それができたのは、ここに集まってくれた仲間たちがいてくれたからこそだと、改めて嬉しく思う。
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 お皿にチョコレートで文字を書いたお祝いのケーキのほか、Aさんから美しいバラエティーの花束、もとあべの総合の後輩で今は広島にいるSさんからは真っ赤な花束、そして参加してくれた皆さん全員からペアのグラスをいただいた。
 本当にありがとう。
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 約半数の人たちで、JR天王寺駅の北口にあるジャンカラに移って、カラオケで二次会。
 ここも、すごい盛り上がりだった。ここですべてがご紹介できないのが残念である(笑)。
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 しばらくは、この余韻を楽しみたいと思う。
 こんな楽しい会なら、何度でもやりたい(笑)。
 ご参加くださった皆さん、ありがとうございました。
 また、参加できなかったが温かいメッセージを送ってくださった皆さん、ありがとうございました。
 そして、何よりも、企画と準備をしてくれた上出さん、中森さん、本当にありがとう。
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 ※写真は上から
 ①乾杯あいさつをする田中俊さん
 ②乾杯
 ③会の呼びかけをしてくれた上出さん、中森さん
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 ④~⑦ スナップ
 ⑧いただいたケーキ
 ⑨いただいたグラス
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 ⑩寄せ書きを胸に
 ⑪私のお礼のあいさつ
 ⑫全員の写真
 ⑬二次会のカラオケにて
 ⑭いただいた花束1
 ⑮いただいた花束2


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2016年8月31日 (水)

No.293 過去への旅路

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 この表題は、私が一時ハマった韓国ドラマ「冬のソナタ」の第15話のタイトルである。
 交通事故で過去の記憶を失っていたチュンサン(ペ・ヨンジュン)は、2度目の交通事故の結果、自分がチュンサンだった記憶を取り戻し始めるが、なかなか思うように戻らないことから、恋人のユジン(チェ・ジウ)と2人で、高校時代に過ごした懐かしい場所を次々と訪れ、記憶を取り戻す旅に出るのである。

 この8月は、私にとっての「過去への旅路」が4回もあった。
①まずは8月13日(土)、中学校(現・紀の川市立打田中学校)の同窓会。1972年(昭和47年)の卒業から実に44年後、1学年4クラス160人のうち31人が集まった(「No.292 44年ぶりの再会に、最高に盛り上がった中学同窓会」)。私が中心メンバーの一人として頑張り、開催にこぎつけられたこともあって、感慨深いものだった。
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②翌週の8月20日(土)には、高校(和歌山県立那賀高校)のクラス同窓会があった。かつては4年に一度(オリンピック開催の年)だったが、最近は2年に一度開かれている。参加者は15人と、若干少なめだったが、心がくつろいだ。

 これに加えて、この夏は私にとって特別な友人2人と旧交を温めることができた。
③8月18日(木)、中学時代のクラスメートのM君(昔のニックネーム「モッカン」)と会い、妻と3人で食事をした。和歌山県紀の川市(当時は打田町)にあったM君の実家は妻の実家と数百メートルしか離れておらず、妻とは保育園時代からの幼なじみである。私は中学校に入って知り合ったが、仲がよかった。最後に会ったのは、確か私の結婚式(1982年)にM君が来てくれた時だったので、34年ぶりということになる。M君に①の中学校同窓会のことで電話をした際、同窓会には行けないが別途会おうか、ということになったのである。

 M君と私は別々の高校に進学したが(私は那賀高校の普通科、M君は隣の粉河高校で開設2年目の理数科に進んだ)、疎遠になった感じはしなかった。同じ国立大学を受験したが(学部は別)どちらも不合格。私は浪人の道を選んだが、M君は名古屋にある別の国立大学(当時は国公立大学は「一期校」「二期校」の2つを受験できたのである。)に進学した。M君は大学卒業後、巨大企業のK電力に就職。原子力発電所関係の要職を歴任し、現在は同社のトップに近い役職に就いている。
 大学卒業後は全く違う道を歩んできたが、会えば10代の頃のままだった。小学校時代から高校までの懐かしい話に花が咲いた。

④8月29日(火)には、浪人時代の友人のS君と会って会食をした。お互いに前に会ったのがいつか、はっきり覚えていなかったが、1994年前後ではないかと思われ、そうすると22年ぶりの再会である。

 私は京都で浪人時代、京都駿台予備校の上賀茂寮で生活していたが、4人部屋だったこともあり勉強に集中できなかったためか、秋の終わりころ寮を出て、当時の下宿屋に転居したのである(転居の理由も時期も、よく思い出せない)。「新井寮」と言われていたその下宿屋には、10人くらいの浪人生が下宿していただろうか。S君はその中の一人だった。
 同じ京大法学部志望ということもあって、なぜかS君とはウマが合い、短い期間だったが親しくなったが、私は合格したが彼は不合格となり、S君は中央大学の法学部に入学した(ちなみに、私も京大に合格できなければ中央大学に行く予定で、入学金も納付済みだった)。
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 S君とは大学時代もつながっていたが、S君は司法試験は受験せず埼玉新聞社に就職。Jリーグ発足前から「浦和レッズ」の担当記者となり、2005年に同社を退社してフリーランスになった後も、サッカー専門のスポーツライターとして活躍し、「浦和レッズの歴史を間近で見続けたジャーナリストの一人」として、その世界では有名になっているようである。
 あのとき、一緒に京大に合格していたらどうなっていただろうかとか、2人で中大に行ってたらとか、入れ代わっていたらどうだっただろうかなどと、ふと考えてみることもある。
 そんなS君と20数年ぶりに会い、浪人時代と大学時代から現在までの来歴について話した。続いてスナックに行き、尽きない話をし、懐かしい歌を歌った。本当に楽しいひとときだった。

 この9月13日私は還暦を迎える。そんな時期に4回も過去に旅ができたのは、私にとって本当に感慨深いことだった。あとどれだけ人生が与えられているかわからないが、これまでの60年間、その時々に家族とともに友人たちがいたからこそ今の自分があるということを噛みしめながら、一日一日を大切に生きていきたいと思う。


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2016年8月15日 (月)

No.292 44年ぶりの再会に、最高に盛り上がった中学同窓会

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 8月13日、JR和歌山駅近くのホテルで、「打田中学校1972年卒業生同窓会」が行われた。
 この同窓会は、5月初めにこのブログに書いたように(「No.283 44年ぶり!の中学同窓会開催に奮闘中」)、中学卒業後44年ぶりに、初めて開いたものである。

 昨年4月ころ、中学の卒業アルバムから名簿を作り始めた時点では、1学年160人のうち10人から20人くらいしか住所がわかっていなかったが、今年4月あたりから本格的に情報を集め始め、最終的には100人以上の住所や連絡先がわかり、案内状を発送した。
 5月29日と7月24日の2回にわたり有志で準備会を行い、当日の進行や役割分担などを行って、準備万端を整えて当日を迎えたのである。
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 当日は、準備会メンバーは12時過ぎに集まって会場の設営と受付準備。12時半くらいから同窓生たちが集まりはじめるのをみんなで出迎えた。
 次々と現れる同級生たちは、すぐにわかる人もいたが、多くの場合、一瞬誰かわからない。「え~っと、どちらさんでしたっけ?」「○○です」「うわー、懐かしい!」と握手、握手、握手。
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 開会時刻には、当日参加できなくなった1人を除き、出席回答をした31人が集まった。
 クラスごとの4つのテーブルに着席してもらい、事前に用意したパンフレット(進行次第、後で歌う予定の歌詞、同窓生からの一言集を綴じたもの)と卒業アルバムのクラスごとの集合写真のコピーを配布。みんな食い入るように読んでくれていた。
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 同窓会本番は、1組のW狭さんと2組のK瀧君の司会で始まった。
 最初に私が開会あいさつとこの日までの経過報告を行ったあと、現在は和歌山市消防局の偉い人になっているという3組のD口君の音頭で、全員で乾杯。
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 続いて、和歌山の地元で様々な活動をしている3組のN谷さんが、当時体育の先生で現在もご健在で活躍されている鈴木常二先生宅を2組のU田君と一緒に訪問して聴いてきた、当時の思い出話の報告と、切り紙(折った紙にハサミを入れ、開くと美しい模様の中に「幸」という漢字が散りばめられている)と折り鶴のパフォーマンスをしてくれて、会場は一気に和やかに盛り上がった。
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 その後テーブルごとに少し食事と歓談をした後、参加者から順次自己紹介。44年間の人生を2、3分で語れるはずもないが、それでも、44年間の歳月の年輪が加わった懐かしい顔を見ながら、それぞれの来し方に思いを寄せることができた。
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 その後、テーブル間も移動しながら、さらに賑やかな歓談が続いた。

 終盤の一番の盛り上がりは、みんなで歌うコーナー。私たちが中学時代に流行った「翼をください」と「戦争を知らない子供たち」、そして最後は「打田中学校校歌」。これらは、中学校の校長を最後に退職した2組のU田君が数十年ぶりに(笑)ギターの練習をし、N谷さんも少し前から一緒にボーカルの練習をして準備してくれたものである。
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 中学校の校歌はインターネットなどでも見当たらず困っていたが、U田君のルートで、現在の打田中学校の関係者から歌詞と楽譜をもらうことができたとのことであった。
 期待どおり、大変な盛り上がりだった。
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 続いて全員で記念撮影。みんな、本当にいい顔をしていた。
 そして、最後に4組のK口君が閉会のあいさつと三本締めで、一次会はお開きとなった。
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 続いて徒歩で移動し、夕方5時半くらいから、D口君が予約してくれていたスナックを借り切って二次会が行われた。事前には、参加者は半分くらいではないかと想像していたが、当日の飛び入りも含めて、大半の23人くらいが参加。
 これも大変な盛り上がりで、耳元で大声で話してもらわないと、他の人の声が聞こえない(笑)。カラオケも次々と懐かしい歌が歌われ、本当に楽しかった。

 カラオケが普及したのはここ20年くらいのことであり、私たちの中学・高校時代にはもちろんカラオケなどなかった。その代わり、みんなで集まってギターを弾いたりしながら歌ったりしたものである。
 それだけに、みんなカラオケをしっかり歌うのは意外だったが、その後これまで長く生きてきてるんだから(笑)、当然といえば当然かもしれない。

 この二次会の途中で、突然2組のK口君から、「みんな、白けさせて悪いけど、亡くなった友だち7人のために黙祷しようよ」という提案があり、すべての音楽もおしゃべりも止めて黙祷をした。本当なら、同窓会の本体の中で私から提案してもおかしくなかったものであり、私の至らなさを申し訳なく思うと共に、そんな風に当時の同級生の友人たちを思いやるK口君の気持ちに胸が熱くなった。K口君、ありがとう。

 二次会は約2時間くらいでお開きとなり、予定していた「公式日程」は終了。私は更にD口君が予約してくれた次の店に7、8人で行き、更におしゃべりとカラオケを楽しんだ。
 お店を出たのは午後10時半くらいで、タクシーでホテルに着いたのは11時前くらいなので、普段からすれば健全なものである(笑)。

 参加者からは、「またやろうよ」「今度はもっとたくさんの人に声をかけようよ」(いずれも実際は和歌山弁である(笑))と、口々に言われた。
 差し当たりは、2年後くらいにまた集まることになりそうである。今回一度開いたので、次回は準備も声かけもずっとやりやすいはずである。

 また、9月10日(土)午後7時から、今回の同窓会の打ち上げ会(笑)を、JR和歌山駅の東口の近くにある「中心屋 あしゃぎ店」というお店で行う予定である。準備に関わったメンバーのほか、今回の同窓会に来れなかった人、更には今回参加したが、まだ物足りない人(笑)も参加できる。人数は当日にならないとわからないが、15人から20人くらいにまで増えるかもしれない。

 この4、5か月間、この同窓会の準備に頑張ってきたので、大成功を喜ぶと共に、「祭のあと」的な寂しさもある(ちょっとした「同窓会ロス」かも(笑))。
 しかし、9月10日にはもう一度集まるし、来週8月20日には高校のクラス同窓会もあるので、これらを楽しみにしたい。

 参加者の皆さん、ありがとうございました。
 準備段階から関わってくれた皆さん、本当にお疲れさまでした。
 また、「同窓会本舗」の皆さんには、本当にお世話になりました。
 ありがとうございました。

 ※画像は上から
 ①ホテル内の会場案内
 ②受付で配布したパンフレットと折り鶴
 ③司会をしてくれたW狭さんとK瀧君
 ④私の経過報告
 ⑤乾杯あいさつをしてくれたD君
 ⑥N谷さんの切り紙パフォーマンス
 ⑦歓談する参加者の人たち
 ⑧みんなで歌ってます
 ⑨打田中学校の校歌
 ⑩閉会あいさつをするK口君
 (なお、①・②・④は、私のクラスメートであったO井君のフェイスブック投稿から拝借しました。)


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