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カテゴリー「6-1 思いつきエッセイ」の71件の記事

2018年12月31日 (月)

№348 2018年 私の6大ニュース【プライベート編】

 次は、プライベート編である。

【第1位】孫が大きくなり、「ジジバカ」の度合いがいっそう高じていること
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 昨年7月16日に生まれた初孫のたくちゃんは、その後順調に大きくなり、1歳5か月となった。ようやくよちよち歩きをするようになり、歯もかなり生え揃ってきた。まだ言葉は話せないが、お愛想笑いをしたり、嘘泣きをするなど、かなり高度な(笑)意思表示をするようになってきた。屈託のない笑顔に癒され、くしゃくしゃにした泣き顔にこちらも泣きそうになる。
 平均すると月に1回来るか来ないかだが、今はLINEで写真や動画を送ってもらったり、i-Phoneのフェイスタイムでテレビ電話もできるので、日々成長を楽しむことができる。
 子どもはこんなに可愛がられて大きくなるのに、なぜ学校に行くようになるといじめられたりするのだろうか。すべての子どもたちが健やかに育ち、生まれてきてよかったと思える社会になってほしい。

【第2位】フォークグループを作り公式の場で歌ったこと
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 昨年5月から高校時代の友人と後輩弁護士との3人でフォークバンド「いこらーず」を作って、月に1回程度集まって練習するようになったが、今年に入り、いこらーずとして3回、今里フォークジャンボリーに出場した。なお、(2)からメンバーに中・高の同窓生のU君が加わり4人になった。
 (1) 1月13日(今里ライブハウスにて)
   ①白い鳥にのって ②街 ③さすらい人の子守唄 ④ぼくの夢
 (2) 8月25日(今里ライブハウスにて)
   ①花嫁 ②岬めぐり ③遠い世界に
 (3) 10月7日(大阪城野外音楽堂にて)
   ②365日の紙飛行機 ②涙そうそう ③ぼくの夢

 また、いこらーず以外でも、親しい友人と一緒に、次のように歌う機会があった。
 (1) 3月5日、私の事務所のゆうあい会総会で、同じ事務所の安田知央弁護士と「翼をください」ほか4曲
 (2) 4月7日、大阪過労死家族の会総会で、寺西笑子さんと「ぼくの夢」
 (3) 6月22日、働き方ASU-NET総会で、齋藤富美代さんと「人生の扉」ほか5曲
 (4) 8月12日、中学校の同窓会で、同窓生の仲間2人と「恋人もいないのに」ほか4曲
 (5) 11月9日 友人の田中俊さんの還暦&結婚を祝う会で、中森弁護士・齋藤富美代さんと「人生の扉」「たんぽぽ」

 こうしてみると、1年間で意外と多くの場で歌うことができたことを嬉しく思う(なお、去年の8月11日の中学同窓会でも同窓生2人と「あの素晴らしい愛をもう一度」ほか3曲、年末の大阪過労死家族の会の忘年会でも寺西笑子さんと「ぼくの夢」を歌った)。
 一人での練習もグループでの練習も楽しいが、やはり人の前で歌う場があると引き締まるし、当日ミスをしたことも含めて自分の到達点がよくわかり、励みになる。
 なお、私の地元の小学校のPTAの役員をした友人たちとも近々グループを作って練習を始める予定である。
 来年はどれだけ機会があるかわからないが、楽しみながらマイペースでやっていきたいと思う。

【第3位】モンゴル旅行に行ったこと
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 7月23日~27日まで4泊5日で、お世話になっている医師の松葉先生ご夫妻と一緒にモンゴルに行った。モンゴルで快適に過ごせるのはこの時期の数か月しかないとのこと。山々や草原が美しく、また壮大なモンゴル帝国の歴史にも触れることができた。人々は人懐こく、外見も日本人とよく似ていて親近感を覚える。勧められていただいた「チンギス・ウオッカ」がとても気に入り、お土産にも買って帰国後も楽しんだ。

 このほか、札幌での過労死防止学会の翌日6月4日から7日まで、3泊4日で道東をドライブして楽しんだ(№338№339参照)。

【第4位】例年よりも多くの映画を観たこと
 なぜか今年は、映画を例年よりもたくさん観た。
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 ①3/11 北の桜守(TOHOシネマ鳳)
 ②4/22 ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文(TOHOシネマ鳳)
 ③5/6 タクシー運転手(梅田ブルク7)(№335参照)
 ④5/12 第9条(大阪弁護士会館)
 ⑤5月中旬 マルクス・エンゲルス(大阪ステーションシネマ)
 ⑥6/24 万引き家族 (TOHOシネマ鳳)
 ⑦7/29 空飛ぶタイヤ(TOHOシネマ鳳)
 ⑧11/18 華氏119(大阪ステーションシネマ)
 ⑨12/09 ボヘミアン・ラプソディ (TOHOシネマ鳳)
 どれも大変良かった。他にも1,2本観たかもしれないが、思い出せない。

【第5位】演劇やミュージカルを鑑賞したこと
 「パブリック編」の憲法ミュージカル「憲法のレシピ」のほか、次のようなものを観た。
 ①10/13 ジャンヌダルク 〜ジュテームを君に(劇団往来)
 ②11/16 よいではないか21(劇団まげもん 時代劇コメディ)
 ③12/15 鶴彬─暁を抱いて(劇団きづがわ)
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 ①・②も十分に楽しむことができたが、最後の「鶴彬─暁を抱いて」はとても良かった。恥ずかしながら、小林多喜二は知っていたが、鶴彬は知らなかった。川柳の内容だけで検挙され、獄死させられた時代があったことは、もっと広く知られるべきだと思う。主役の方をはじめ、皆さん大変お上手で、完成度の高い劇だった。

【第6位】コンサートにもいくつか行ったこと
 上記の反面、今年はコンサートに行った回数は少なかった。
 12/16 南こうせつ(NHK大阪ホール)
 12/20 ZERO(堺市西区ウェスティ)
 南こうせつさんは、歌もうまいがトークも楽しい。会場いっぱいの観客は、最初から最後まで大変なノリだった。
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 ZEROは、「冬のソナタ」に続いて2003年から2005年ころにかけて日本で爆発的にヒットした、韓流ドラマ「美しき日々」の主題歌などを歌った韓国のシンガーである。私はこのころの韓流ドラマが好きで、主題歌や挿入歌もよく聴いていたので、自宅から近いウェスティホールに来るのを知って、すぐにチケットを申し込んだ。「冬のソナタ」の主題歌を歌ったRyuもそうだが、歌の上手さがハンパではない。人柄もいい感じで好感が持てた。
 あと、1月28日に、親しい三浦直樹弁護士のグループのミニコンサートにも行った。学生時代からずっと続けているとのことだが、長髪を振り乱して演奏するピアノはプロはだしの腕前である。

 還暦を迎えて2年が過ぎた。そういつまでも楽しめるわけではないから、一つひとつの機会を大切にしながら、楽しんでいきたいと思う。

 ※画像は上から
 ①孫のたくちゃん(12月23日)
 ②大阪城野音で歌う「いこらーず」
 ③モンゴルで、松葉先生と(松葉先生ゴメンナサイ)
 ④映画「タクシー運転手」のポスター
 ⑤「鶴彬」終了後、出演者の人たちと
 ⑥ZEROさん(夢グループのサイトより)

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№347 2018年 私の10大ニュース【パブリック編】

 今年も、年末にあたって1年間を振り返っておきたいと思う。今回は、「パブリック編」(仕事面)と「プライベート編」に分けて整理したい。

【第1位】事務所のメンバーが増え、活動が量・質ともにいっそう充実したこと
 1月から井上将宏弁護士が、6月から事務局に経験豊富な石井さんが入所し、事件処理体制が大幅に強化され、事務所内の会議や委員会、研修なども充実するようになった。
 もともとアットホームな事務所であるが、いっそう明るく賑やかになったのは嬉しいことである。

【第2位】大阪と全国の「過労死110番」が30周年を迎えたこと
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 過労死110番は、私が弁護士登録した1988年4月に大阪で全国に先駆けて行われ、その反響が大きかったことから、2か月後の6月に全国8か所で実施されたのが最初である。
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 4/12に大阪で記念シンポジウム、6/13は東京で記念シンポジウムとレセプションが盛大に行われた。後者のレセプションには、夫婦デュオのダ・カーポさんが来てくれて、過労死遺児のマー君の詩をもとに作られた「ぼくの夢」などを爽やかに歌ってくれた。その後直接お話しすることもでき、昔からのダ・カーポファンの私としては、とても嬉しかった。

【第3位】過労死防止協議会の委員を2期(4年)務めたこと
 2014年11月に施行された過労死防止法に基づき、同年12月に厚労省に設置された過労死等防止対策推進協議会(20人)の委員となり、国が行う過労死防止対策に対する意見、過労死防止対策大綱の作成と改定、毎年の過労死白書の作成などに関わってきた。年に3,4回の協議会やその事前打合せへの出席、協議会での発言準備など負担は結構重いが、毎回の発言はきちんと議事録に記録され、その後の取り組みに反映されることから、いつも身の引き締まる思いで頑張っている。
 任期は慣例上2年で、また出身母体の関係などもあり毎年のように委員の交代があるが、私はこの12月から3期目に入った。ただ、今回の改選で当事者委員(過労死遺族)の西垣さん、中原さん、前川さんの3人が一気に交代され、一緒に頑張ってきた者として一抹の寂しさを覚える。

【第4位】過労死防止全国センターの事務局長も丸4年務めたこと
 過労死防止法の施行に合わせて2014年10月に結成された過労死防止全国センターの事務局長としての活動も4年が過ぎた。
 今年もいくつかの啓発シンポジウム(11/6中央会場、11/14滋賀会場、11/29山梨会場、11/30大阪会場)に出席し、中央会場以外では記念講演や報告を担当した。
 過労死防止啓発授業の取り組みでは、主として関西の講師派遣に関わっているが、今年は関西での啓発授業数が大幅に増えた。私自身も大阪府立岬高校で啓発授業を担当した(10/18)。
 その他、過労死防止北海道センターの結成総会(7/12)、東四国過労死家族の会の結成総会(10/20)でも記念講演をさせていただいた。
 札幌で開かれた過労死防止学会の第4回大会(6/2~3)(№337参照)では、1日目の第1分科会(建設関連産業の就業実態と過労死)の司会を担当させていただいた。

【第5位】森岡孝二先生が亡くなられたこと
 8月1日、森岡孝二先生が突然亡くなられた。私は、弁護士登録した翌年の1989年に森岡先生と知り合い、その後、大阪過労死問題連絡会、1992年の過労死をテーマにした劇「突然の明日」、同じく2006年の過労自殺をテーマにした劇「あの子が死んだ朝」の2つの上映運動、働き方ネット大阪(その後「NPO法人働き方ASU-NET」)、過労死防止法制定実行委員会、過労死防止法の成立後は過労死防止全国センター、厚労省の過労死等防止対策推進協議会などで29年間にわたって一緒に活動してきた。私の事務所の友の会である「ゆうあい会」の会長もしてくださっていた。
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 森岡先生は経済学者であるとともに、人間の自由、働くとはどういうことか、企業はどうあるべきかなどを問い続け、自らも一市民として行動し続ける社会運動家であった。また、自然を愛し、命を慈しみ、ユーモアにもたけた自由人だった。74歳で亡くなるのは痛恨の極みである。
 森岡先生が目指したもの、目指した社会はどのようなものだったのか。それを語り合う「追悼のつどい」(追悼シンポジウムと追悼レセプション)を来る2月23日、シティプラザ大阪でを行う予定であり、また現在、追悼記念誌を作成中である。

【第6位】ゆうあい会が3年目に入り、楽しく、ためになる活動ができていること
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 いわき総合法律事務所友の会であるゆうあい会は2016年3月に結成され、現在3年目である。今年度は3月3日に総会(医師の松葉和己先生のお話など、№340参照)、7月12日屋外レクリエーション(京都嵐山散策)、12月1日お楽しみ講演会(一級建築士の木津田秀雄先生のお話など)を行った。

【第7位】過労死・過労自殺相談のための特設サイトを立ち上げたこと(№343参照)
 10月31日、「過労死・過労自殺相談ガイド」という特設サイト(ホームページ)を立ち上げた。大切なご家族や友人を過労死・過労自殺(自死)で失った方や、過労による後遺障害や精神障害で苦しんでおられるご本人などに、労災申請の手続きや弁護士に依頼するメリット、費用などについてわかりやすく解説している。

【第8位】過労死落語の本が発刊されたこと(№345参照)
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 2001年、私が「笑工房」の小林康二さんに「過労死をテーマにした落語を作ってもらえませんか」とお願いし、過労死落語「エンマの怒り」(最近の演題は「エンマの願い」)が生まれた。演じてくれた桂福車さんはその後17年間、最近では各地の過労死啓発シンポジウムなどで上演してくれていたところ、毎日新聞夕刊でこの過労死落語を題材にした記事が2017年5月から2018年9月まで34回にわたって長期連載された。桂福車さんは残念ながら2018年2月急逝したが、桂福車さんと松井宏員記者の共著の形で「過労死落語を知ってますか」という本が出版された(新日本出版社、1300円(税別))。
 12月6日、私も呼びかけ人の一人となった出版記念パーティーが開かれ、約170人もの参加があり感無量だった。福車さんの過労死落語は桂三風さんが引き継いでくれるとのことで嬉しく思っている。

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【第9位】昨年に引き続き大阪憲法ミュージカルが成功したこと
 2008年から始まった大阪憲法ミュージカル。昨年・一昨年の「無言のレクイエム」の続編として、今年は「憲法のレシピ」が9月14~17日の4日間で8公演が行われ、今回も7人の共同代表の一人として関わった。
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 「無言のレクイエム」も良かったが、今回の「憲法のレシピ」も本当に良かった。敗戦と戦後の混乱の中で日本国憲法ができていく過程を、民衆の視点から描いた作品はこれまでなかったのではないだろうか。これからもあちこちで上演してほしいと思う。

【第10位】宇賀神直先生が米寿を迎えられたこと
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 私が弁護士登録後7年間(1988年4月~1995年3月)在籍した天王寺法律事務所でお世話になった宇賀神直先生が、めでたく米寿(数え年88歳)を迎えられ、10月13日、当時在籍していた弁護士や事務局メンバー16人(宇賀神先生を含む)が、あべのルシアスの「花外楼」に集まってお祝い会をした。遠くは石垣島から藤井光男先生、広島から佐々木猛也先生も駆けつけ、まるで恩師を囲む同窓会のようだった。
 2011年にも「傘寿」を祝う会をしたが(「No.19 宇賀神 直 先生の「傘寿」を祝う」)、驚くべきことに、宇賀神先生はあの頃からほとんど老けた感じがしない。驚異的な記憶力も未だ健在である。先生の益々のご健勝を期待している。

 ※画像は上から
 ①4月12日、大阪過労死110番30周年シンポ終了後、平岡チエ子さんたちと
 ②6月13日、過労死110番30周年記念レセプションにて、ダ・カーポさんたちと
 ③2013年、京橋駅での過労死防止基本法制定の署名活動にて
 ④7月1日、ゆうあい会の嵐山散策にて
 ⑤12月6日、過労死落語の本の出版記念パーティーにて(右から松丸先生、寺西さん、小林さん、桂福団治師匠、私、桂文福さん、福車さんの娘さんの大津萌恵さん)
 ⑥「憲法のレシピ」のチラシ(表・裏)
 ⑦米寿のお祝いで花束を受け取る宇賀神先生


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2017年12月31日 (日)

No.333 2017年 私の15大ニュース(その2)

 続いて、第9位~第15位である。

【第9位】大阪憲法ミュージカル「無音のレクイエム」の再演に協力したこと
 昨年6月に行われた大阪憲法ミュージカル「無音のレクイエム」が、今年10月6日~9日に再演されることになった。随所に前年からバージョンアップした箇所が見られたが、前年の再演ということでチケット売りに難航が予想されたことから、私も呼びかけ人の一人として頑張り、50人くらいの方にチケットを買ってもらった。結果はほぼ完売、一部は立ち見が出るなどの大盛況となった(「No.328 昨年よりバージョンアップした「無音のレクイエム」に感動」)。私がお誘いした人たちも、揃って「よかった」と言ってくださり、ほっとした。

 聞くところでは、来年は新しい作品を上演する方向で、既に準備が始まっているようだ。1回の公演を実現するのは本当に大変なので、1年くらいお休みしてもいいような気もする。しかし、10月の衆院選で再び大勝した安倍政権と自民党は、いよいよ憲法改正に向かってアクセルを踏み出しており、ここ1、2年の間に憲法改正の国会発議→国民投票が行われそうな勢いである。そんな状況だけに、今の日本国憲法が大切にしてきた価値を見つめ直そうという、このミュージカルの取り組みが大きな意義を持っていることもまた事実である。
 もし、次のミュージカルが具体化したら、また協力していきたい。

【第10位】働き方ASU-NETの10周年記念誌を作成したこと
 私が森岡孝二先生と共に共同代表を務めるNPO法人「働き方ASU-NET」が2016年に10周年を迎え、10月14日に記念の「つどい」を開いたことは、昨年の年末のまとめで書いたとおりである。
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 この「10周年のつどい」には間に合わなかったが、10周年の記念誌を作って、今年3月22日の次の「つどい」で配布した。
 自画自賛だが、10年間の年表やこれまでの資料を整理していて、10年間本当に地道にいろいろなことをしてきたなあと、感慨深かった。

【第11位】事務所を改装したこと
 事務所の話題が今ごろになって出てくるが、今年1月18日から20日にかけて、事務所の中を改装した。
 主な変更点は、①これまでASU-NETに又貸ししていた部分を返してもらい(ASU-NETは6階に移転した)、そこを弁護士室にした。
 ②弁護士室だった部分を相談室にしたうえで、従前の相談室とL字型につなげられるようにした。
 ③事務室を少し広げた。
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 これで、3つの相談室をつなげると最大20人規模の会議ができるようになった。既に過労死家族の会や欠陥住宅関西ネットの事務局会議、ゴルフ預託金返還請求訴訟の弁護団会議などに活用されている。

【第12位】事務所の若手弁護士が頑張ってくれたこと
 事務所の若手弁護士の稗田隆史弁護士は大車輪の頑張りをしてくれているし、安田知央弁護士も、子育てをしながらも今年9月から通常勤務に復帰して頑張ってくれている。昨年12月に入所した元山裕晶さんは諸般の事情で8月末に退所したが、来年1月から新たに井上将宏弁護士が入所することになっている。

 私も既に人生の第4コーナーを回っており、若い人たちに何を伝え、何を残していくかを、そろそろ考えるべき段階に入っているなと思う。

【第13位】事務所開設2周年をお祝いしたこと
 この事務所を開設したのが2015年4月なので、今年4月に2周年を迎えた。まだまだ駆け出しだが、6月9日、事務所内記念イベントとして劇団四季のミュージカル「キャッツ」を観劇し、その後食事をした。
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 「キャッツ」は1998年3月末にあべの総合法律事務所の事務所旅行でニューヨークに行った際に観たことがあったが、そのときは英語で何もわからなかった(笑)。いつか観たいと思っていた劇団四季の「キャッツ」を事務所の全員で観ることができてよかった。

【第14位】事務所の親睦会「ゆうあい会」の2年目の企画が順調にいったこと
 わが事務所の親睦会である「ゆうあい会」も2年目に入った。今年は3月4日に産経新聞の小野木康雄記者をお招きして第2回総会、7月4日に神戸散策のイベントを行った。

 12月16日のお楽しみ講演会は、ソプラノ歌手・徳畑作子さんの美しい独唱で始まり、岩城弁護士が「老後を安心して生きるために」、安田弁護士が「相続にまつわるQ&A」と題してミニ講演を行った後、NPO法人生活館を運営する武内冠二さんから「高齢者の願いと現状~高齢者をサポートするNPO法人の経験から」と題して講演をいただいた。途中、同じく生活館で介護支援専門員(ケアマネージャー)として活動している清水あゆ美さんからも、介護認定の実情について、貴重なお話をいただいた。
 その後の会場の参加者を交えた質疑応答では、次々と手が挙がり、参加者の関心の高さを示した。
 詳細な報告は、年明けに発行する事務所ニュース「春告鳥」第7号に掲載されている。

【第15位】5回のコンサートに行ったこと
 今年は、5回のコンサートに行った。①加山雄三(1月13日)、②青木まり子(3月31日)、③「君と歩いた青春2017」(9月17日)、④沢田研二(10月31日)、そして⑤サム・トゥッ・ソリ(11月17日)である。
 ②については「No.317 昭和の香りが漂うお店で、懐かしい歌に浸る──青木まり子さん“弾き語りLIVE”」で、また③については「No.326 5年ぶりの「君と歩いた青春2017」で書いた。
 ①の加山雄三さんは、私のほぼ一世代上で、「若大将」として一世を風靡し、今も根強いファンがいる。
 ④の沢田研二さんは、グループサウンズ全盛期から「ジュリー」の愛称でスーパースターとして活躍してきた人であるが、還暦を過ぎたあたりからパワーあふれるコンサートを続け、今や「中高年の星」のような大人気である。かつての貴公子のイメージはなく、小太りだがワイルドな風貌、それでいて意外とひょうきんな感じも受けているのではないか。何よりも、少ししわがれたが声量が半端でない。
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 ⑤のサム・トゥッ・ソリは、日本のうたごえ運動との音楽交流の中で生まれた、韓国の実力はアーティストによる特別編成ユニットで、「生・志・歌」の意味だそうである。
 ある方の熱心なお勧めで初めて聴きに行ったが、その歌の上手さと迫力に感動した。
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 韓国では昔からの民主化運動の中で生まれた歌が、新しい歌とともに民衆の運動の中にしっかりと根付いている。日本にもかつて労働歌や革命歌があり、また60年代から70年代にカレッジフォークが流行したが、今ではナツメロになってしまっている。今後日本でも社会運動が盛り上がるためには、こういった歌が生まれてくる必要があるのではないか。そんなことを感じたコンサートだった。

 以上が、私の2017年の15大ニュースだった。他にもいろいろあるが、書き出すときりがないので、これをもって1年間のまとめとしたい。
 これらのどれをとっても、周囲の皆さんのご協力がなかったら実現しなかったものばかりである。
 改めて、お世話になったすべての皆さんに、御礼を申し上げたい。ありがとうございました。

 ※画像は上から
 ①働き方ASU-NET10周年記念誌の表紙
 ②改装後の事務所内の様子
 ③ミュージカル「キャッツ」のパンフレットより
 ④サム・トゥッ・ソリのメンバーからのコメント(当日配布されたパンフレットより)
 ⑤「ふたたび光化門で」の歌詞

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2017年12月30日 (土)

No.332 2017年 私の15大ニュース(その1)

 一昨年、昨年に続いて、私にとって大きな出来事だったことを整理しておきたい。今回も、前半(第1位~第8位)と後半(第9位~第15位)に分けて書くことにする。

【第1位】弁護士登録30年目を迎えたこと
 私は1988年に弁護士登録したので、今年は30年目の節目の年であり、9月30日には、司法研修所第40期30周年記念大会」という名の大同窓会が福岡で行われた。これについては「No.327 30年前の修習時代に一気にタイムスリップ──司法研修所第40期30周年記念大会に参加して」で書いたが、この時に30年ぶりに会い、4次会まで旧交を温め合ったT君が、12月26日に急死されたとの訃報が届いた。私と同じ61歳、あまりに早すぎる。
 もう、私たちはそういう年代に入っていることを自覚し、健康維持に努めたい。

【第2位】初孫が生まれたこと
 7月16日、長男夫婦に、私たち夫婦にとっては初孫にあたる男の子(今は「たくちゃん」と呼ばれている)が生まれた(「No.324 「孫はなぜかわいいか」についての一考察」)。
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 生まれて1週間後から39日間、我が家で過ごしてくれたが、その後お宮参り(9月10日)、お食い初め(10月22日)でも来てくれ、そしてこの年末年始も来てくれている。生後5か月半となり、倍くらいの大きさになった。まだ「アウ、アウ」くらいしか言えないが、よく笑うし、うつ伏せになっても大丈夫なくらい首もしっかりしてきた。上野動物園のパンダの「シャンシャン」はたくちゃんの1か月ほど前の6月12日に生まれたが、既にもうおてんば娘となって走り回っているが、人間は大きくなるのに何とも時間がかかるんだなあと、改めて思う。

【第3位】フォークギターで歌を始めたこと
 2年前の1月5日の投稿で、「ただカラオケに行ったりパソコンやi-Podで音楽を聴くだけでなく、演奏も含めて、何かしてみたいと思う今日この頃であるが、仲間もいないし、特に演奏できる楽器もない。誰か誘ってくれないかなあ。」と書いたが(「No.268 歌は楽しい。Let's sing together!」)、ついに一歩を踏み出した。
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 1月末にあったある会で、同じ事務所だった後輩弁護士のN君に、「フォークギターで歌うグループ作らへん?」と提案したところ、「僕、キーボードできるんですよ。やりましょか」と言ってくれた。次に、私の高校時代の友人の女性に声をかけてみたところ、こちらもOKしてくれたのである。
 3月に顔合わせをして今後の進め方について相談し、その後ほぼ月1回のペースで練習してきた。ここまでの感想は、「意外といい線いってるけど、人様に聴いてもらえるまでになるのは大変。でも、何より楽しい」というところだろうか。
 実は、1月13日に開催予定の「今里フォークジャンボリー」に、思い切って参加を申し込んでいるので、この日が私たちのデビューの日になる予定である。私の知り合いの方は、来なくていいです(笑)。

【第4位】6つの過労死防止啓発シンポジウムに参加したこと
 今年は、①高松(3月6日、No.315参照)、②大阪(11月2日、No.329参照)、③中央(11月8日)、④和歌山(11月29日)、⑤鹿児島(12月2日)の5つの過労死防止啓発シンポジウムに参加した(①以外は国主催、①・④・⑤では私も講演者の一人)。
 未開催で残っていた5県(福島、高松、高知、鹿児島、沖縄)が平成28年度に自主開催にこぎつけたことから、平成29年度はついに全47都道府県+中央会場の合計48会場で、国主催で啓発シンポジウムが実現した。過労死防止法制定後、過労死防止全国センターとしてこれを目指してきたので、本当に嬉しい。
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 鹿児島シンポでは、過労死110番の第1号事件の原告だった平岡チエ子さんと、過労死したNHKの女性記者佐戸美和さんのお母様の佐戸恵実子さん、息子さんを過労自死で亡くし私が担当して宮崎地裁で闘った桐木弘子さんが揃い踏みで遺族発言を行ったことは感慨深かった。

【第5位】5回の過労死防止啓発授業を担当したこと
 今年は、私も高校での過労死防止啓発授業を5回担当した(和泉総合高校(1月10日、No.307参照)、藤井寺工科高校(2月6日)、西野田工科高校(2月8日と12月22日)、四條畷学園(3月2日))。
 私が担当したのは、卒業して社会に出る直前の夜間高校生が多かった。厳しい労働環境の中、働きすぎ・働かされ過ぎで命を亡くしたり心身の健康を害することがないように願うばかりである。

【第6位】過労死遺児交流会(かいじゅうの会)に委員として参加したこと
 8月8日~10日の2泊3日で、長野県の池の平(白樺湖畔)で行われた過労死遺児交流会(愛称かいじゅうの会)に企画委員として関与し、当日も参加してきた。詳細は別稿(No.322)を参照されたい。

【第7位】過労死遺児マー君の「ぼくの夢」が歌になったこと
 これも、別稿で投稿したが(「No.330 マー君の詩「ぼくの夢」が歌になりました」)、私にとって大変嬉しいことだった。
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 上記【第3位】で述べたように、ギターと歌を始めた私は、ぜひこの歌も歌いたいと思って練習し、12月15日にあった大阪過労死家族の会の忘年会で、寺西笑子さんと2人で歌うことができた。また、来年1月13日の今里フォークジャンボリーの初ステージでも歌いたいと考えている。

【第8位】過労死をテーマにした落語第2弾「ケンちゃんの夢」の制作に協力したこと
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 昨年、過労死をテーマにした落語「エンマの願い」(No.298参照)を書いた落語作家の小林康二さんが、第2作となる「ケンちゃんの夢」を作り、各地の啓発シンポジウムで桂福車さん、笑福亭松枝さん、桂三風さんらによって上演されている。
 これについても、私は過労死遺族の平岡チエ子さんや寺西笑子さんとともに、制作段階で意見を述べたり議論に参加した。
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 なお、この2つの過労死落語の制作過程について、現在毎日新聞の夕刊の「晴レルデ」のコーナーで「エンマの願い」のタイトルで長期連載が続いている(ただし、①以外はいずれも有料記事)。
過労死、落語で問いかける(2017年05月20日)
②言い合い重ねネタ昇華(2017年06月03日)
③遺族の思い込めて(2017年06月17日)
④本気の語りに遺族も涙(2017年07月01日)
⑤落語の力で世論動かす(2017年07月15日)
⑥堅い用語を軟らかく(2017年07月29日)
⑦滅私奉公に異を唱え(2017年08月12日)
⑧今も悔いは消えない(2017年08月26日)
⑨哀しみに友という明かり(2017年09月09日)
⑩闘いは一人よりみんなで(2017年09月30日)
⑪国連巻き込み必死のパッチ(2017年10月14日)
⑫国会動かした遺族の粘り(2017年10月28日)
⑬労組の責任問う新作(2017年11月11日)
⑭オチに思いを落語の色を(2017年11月25日)
⑮競争あおって三者三様(2017年12月09日)

(以下「その2」に続く)

 ※写真は上から
 ①たくちゃん(12月18日撮影)
 ②お食い初めの日の食事会にてギター披露(10月22日)
 ③鹿児島シンポにて、佐戸美恵子さんの訴え(12月2日)
 ④大阪家族の会忘年会で、寺西笑子さんと「ぼくの夢」を歌う(12月15日)
 ⑤鹿児島シンポで「ケンちゃんの夢」を上演する桂三風さん(12月2日)
 ⑥私の事務所で小林さん、福車さん、寺西さんと「ケンちゃんの夢」の打合せ(11月11日付け毎日新聞夕刊)

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2017年10月 2日 (月)

No.327 30年前の修習時代に一気にタイムスリップ──司法研修所第40期30周年記念大会に参加して

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◆9月30日、博多にある「ヒルトン福岡シーホーク」で「司法研修第40年30周年記念大会」が開かれた。
 司法試験の合格者(私たちの頃は約500人)は、司法研修所に入所し、2年間(現在は1年間に短縮)司法修習を受ける。修習は①「前期修習」、②各地に配属されて行う「実務修習」、③「後期修習」の3段階であるが、①と③は各4か月ずつ、当時文京区の湯島にあった司法研修所に通い(現在は埼玉県和光に移転)、大学のような講義を受ける。また、その間、私のような地方出身者の多くは、当時千葉県松戸にあった「松戸寮」に入居して通った。
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 研修所での授業は高度なうえ、一日かけて行う「即日起案」、そして最後は卒業試験(「二回試験」と言われていた)もあるなど厳しかったが、当時は国家公務員に準じた給与が支給されていたこともあり、落ち着いて修習を受けることができた。
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 様々な飲み会や教官宅訪問、自主的な研究会、就職を目的としない法律事務所訪問、更には寮祭などもあり、特に前期は、相当程度自由な雰囲気があった。昔の旧制高等学校はこんな感じだったのかなあと、当時思った。
 二回試験に合格すると、裁判官、検察官、弁護士(法曹三者といわれる)となって巣立っていく。
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◆研修所を卒業してからは、節目節目で「記念大会」という大同窓会が開かれる。10周年は熱海、20周年は京都。そこからは5年毎になり、私たち40期の場合は25周年は金沢(加賀温泉)、そして今回の30周年が福岡で開かれたというわけである。なお、5年前の金沢大会については、このブログに書いていた(No.90 法曹になって四半世紀の重み──司法研修所第40期25周年記念大会)。
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 今回の参加者数は、ざっとみたところ、1組から10組までの各クラス15~25人前後で、合計でほぼ前回と同じ200人くらいだったようだ。物故者や廃業者もいる中で、同期500人中200人というのは相当な数だと思う。そんな中でも、我が1組はクラスメート25人、教官5人中3人の合計28人で、一番参加者が多かったと聞いた。
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◆大会は、①記念式典、②クラス別写真撮影、③全体懇親会(立食)、④クラス別懇親会の順で行われた。
 ①の記念式典では、冒頭にこの5年間の間に亡くなられた方(教官11人、同期生7人)に全員で黙祷。続いて、教官を代表して、我が1組の民事裁判教官であった大石忠生先生が祝辞を述べられた。
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 ③の全体懇親会は、今回は立食形式であったため、他のクラスの友人たちとも言葉をかわすことができてよかった。大阪で弁護士をしていたり各種の弁護士団体で顔を見る人は別にして、30年振りに会った人も多く、懐かしかった。
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 ④のクラス別懇親会は、貸し切りバスでクラス毎に移動。我が1組は、福岡で弁護士をしているY君の尽力により、「割烹よし田」というお店で会席料理をいただきながら、懐かしい話に花が咲いた。
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 卒業後30周年ともなると、裁判官になった人は各地の地裁の部総括(裁判長)、検察官になった人は各地検の検事正クラスになっている人が多く、弁護士になった人も、各地の弁護士会の会長や日弁連の役員などの重責を担っている人も多い。大病を患ったが奇跡的に快復したクラスメートもいた。
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◆この後、Y君に無理をいって、二次会で雰囲気のいいラウンジで水割りを、さらに三次会でおしゃれなスナックでワインを飲みながら語り合い、最後は中洲の屋台村に出かけ、ラーメンと焼酎まで行ってしまったのは4人だった(写真のうちY君は、道案内して帰った)。この「グダグダ感」こそ、修習生時代のあの雰囲気である(笑)。
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 お互いに、当時のニックネームや「○○君」と気さくに呼び合える仲間との語らいは、30年前にタイムスリップするに十分だった。
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 次回は札幌?はたまた仙台?といった話も出ていた。5年後にもまた元気で顔を合わせたい。大変なお世話をいただいた世話人の皆さんをはじめ、関係者の皆さんに心から感謝の言葉を申し上げたい。
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2017年8月31日 (木)

No.324 「孫はなぜかわいいか」についての一考察

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 7月16日、長男夫婦に、私たち夫婦にとっては初孫にあたる男の子(たっくん)が生まれ、お母さん(お嫁さん)と一緒に1週間後の7月22日から我が家で過ごしてくれた。妻は、これまで事実上使っていなかった和室をきれいにし、私も小さなベッドを組み立てるのを手伝ったりして迎えた。
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 この間、授乳、入浴、あやし、寝かしつけから、「ウンチが出ていない」「おならをした」などなど、我が家は本当に賑やかだった。義母も「総監督」として大活躍(笑)。私はまったく大したことはしていないが、それでも、入浴を手伝ったり、泣いているときは「じいじの出番だよ」と言われてあやしに行ったり、私の下手な歌とギターを聴いてもらったりした(不思議と泣き止んだ(笑))。毎朝仕事に行く前や、仕事から帰って来た時に起きていれば、抱いたりあやしたりさせてもらった。
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 まだ目も見えていないし、言葉もわからないが、光や声に反応するし、ここ最近では、時々笑うようになっていた。
 見ていて飽きないし、本当にいとおしく思う。頬ずりしたくなるし、いたいけさにふと涙が出そうになったこともある。自分の2人の子の時もかわいいとは思っていたが、これほどまでの感覚になったことはなかった。
 私の周りの同世代以上の人たちも、口を揃えて「孫はかわいいでしょう。目の中に入れても痛くないでしょう」と言うが、本当にそのとおりだ。
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 その理由を、私なりに考えてみた。
①よく、「自分の子の時は責任を負っていたが、孫の場合は責任がないから」と言われる。もちろんそれ自体は事実だが、責任がないことと、かわいさ、いとおしさは直接の関係がないように思う。
②自分の子のときは、仕事や日々の生活に追われ、ちゃんと見ていなかったが、今は多少の時間も心の余裕もあり、まじまじと子どもの様子を見ることができる。これは一理ある。ただ、そうだとすれば、それは自分の子だからとか孫だからという問題ではないということになろう。最近増えているという「イクメン」の男性たちが、子育てと格闘しながらも、子に愛情を持って楽しんでいるということが少しだけ理解できた気がする。私は、恐らく人生で大きな損をしたのだろう。
③もう一つの大きな理由は、自分が老年期を迎え、人生の終盤に近づきつつあり、生というものにいとおしさを感じるようになってきているだけに、自分の「直系」である新しい生に対して、格段にいとおしさを感じるということである。これを一番しみじみと感じる。
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 しかし、いつまでもという訳にはいかない。我が家に来て39日後の8月29日、たっくんとお母さんは、長男に連れられて自宅に帰っていった(妻も一緒に送っていき、部屋の掃除などをしたとのこと)。再び我が家は静かになったが、寂しさは否定できない。
 妻は、自分が前日、たっくんとお母さんを自宅まで送っていったのに、「今朝、たっくんの泣き声がしたので起きてしまった。おかしいなと思って耳を澄ませたら、外で鳴いているカラスの声だった」と言っていた(笑)。間違いなく「たっくんロス」状態である。
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 39日間も楽しませてくれた、たっくんと長男夫婦(長男は車で何度も通ってくれた。)に心から「ありがとう」と言いたい。そして、家は奈良県で少し離れてはいるけれど、時々は顔を見せに来てほしい。

 ※写真は上から、
 ①7月17日、生まれた翌日、病院にて
 ②自宅のテーブルに置いてあった「育じぃ、育ばぁ」の本(笑)
 ③7月22日、我が家に来訪
 ④7月31日、心地よく入浴中
 ⑤8月5日、入浴後なのに、何がそんなに悲しいのか(笑)
 ⑥8月28日、K、N弁護士からいただいた「ガオガオタオル」にくるまれて
 ⑦8月29日、主のいなくなったベビーベッド
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2017年8月14日 (月)

No.321 始まりの場所に戻ってきた私たち──打田中学校第2回同窓会

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 8月11日、私が1972年に卒業した和歌山県打田町立(現在は紀の川市立)打田中学校の同窓会があった。昨年、卒業後初めて、44年ぶりに同窓会を行ったが(No.292 44年ぶりの再会に、最高に盛り上がった中学同窓会)、今年も続けてやろうということになったのである。
 参加者数は、昨年と結果的に同じ31人であったが、11人が入れ替わっていて、45年ぶりに会う人も多く、新鮮だった。
 昨年と比較して特筆すべきは、以下のような点である。
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(1) 昨年は和歌山市内のホテルだったが、今年は打田中学校の西側にある「いわき」という居酒屋(私の名前と同じだが、親戚関係はない)を借り切って、広い畳の部屋でくつろいで過ごすことができた。打田中学校は数年前に全面建替えがなされ、残念ながら当時の校舎は残っていないが、懐かしいグラウンドと道路を挟んで向かいの会場で、45年前に思いっきりタイムスリップすることができた。

(2) 昨年は午後1時30分~午後4時30分までの3時間で、今年も正午から午後3時までの3時間の予定だったが、お店のご厚意で事実上1時間延長して、4時間もさせていただいた。だいたい30人以上になると、全員とそれなりに話し込むのは困難だが、4時間近くあったおかげで、ほとんど全員とゆっくり話すことができた。言葉で表せないような苦労をされた人も何人もいた。
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(3) 冒頭のU田君の開会挨拶の後、私が乾杯の挨拶をしたのだが、その中で、中学時代に英語を教えてもらったU谷先生(結婚されて現在はN村姓となっている)からのメッセージを読み上げて紹介し、また送っていただいた近影の写真を回覧した。
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 U谷先生は教師になったばかりの新人で、とってもきれいだったが、今も十分におきれいである。先生からの欠席ハガキに書かれていた先生のメールアドレスに私からメールを送ったところ回答をくださり、電話でも長時間話した。先生によれば、先生は私たちが中学を卒業したのと同時に退職して結婚され、神奈川で暮らすようになったとのこと。今年古稀になられるという先生は、今回の同窓会の案内で45年振りにつながることができて、本当に嬉しかったとおっしゃってくださった。
 メッセージを読み上げると、悪ガキだったK口君が、「そういえばあの頃、先生をからかっていろいろイタズラしたなあ」と言っていたが、その詳細はここでは書けない(笑)。
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(4) 最後に、昨年に続いて当時の懐かしい歌を歌ったのであるが、今年は、昨年のU田君(元大阪府立大学軽音楽部で、中学校の校長先生まで務めたが今は退職している。今回の同窓会の幹事代表として引っ張ってくれた)とN谷さん(女性)に加え、私もフォークギターを持って参加した。
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 曲は「あの素晴らしい愛をもう一度」、「花嫁」、「打田中学校校歌」、そしてオマケで「岬めぐり」。実は、今回の同窓会は、私の45年ぶりのフォークギター再開のデビューの場となったのである。
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 3人で音合わせをしたのは同窓会の始まる1時間前だったが、参加者の皆さんが盛り上げてくれたこともあって、自分としては予想以上の出来だったように思う。参加者のK・I君か誰かが「昭和やなあ」と言い、U田君が「昭和の歌で元気をつけて、明日からの平成を生きていきましょう」と返したのが印象的だった。
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(5) 二次会は、昨年はD口君の馴染みのスナックを借り切ったが、隣の人の声も聞こえないほどの賑やかさだった。今年はカラオケボックスに行き、ステージ付きの巨大なパーティルームを借りたので、好きなだけ話したり歌ったりすることができた。これも大正解だったと思う。みんな思い思いに懐かしい歌を歌い、最後は円陣になって「あの素晴らしい愛をもう一度」と「岬めぐり」を歌ってお開きとなった(私が参加するカラオケでは、最後はだいたいいつもこうなる(笑))。

 私は最初の乾杯挨拶で、「私たちの人生は、打田中学校のあるこの場所から始まったが、今、還暦を過ぎて、またここに戻ってきた。これからもう一度親交を深めましょう」というようなことを言った。平凡な田舎の公立中学校だが、そこを苗床にして共に育った仲間たちは、お互いにとって宝物だと、今回改めて思った。

 さて、来年もまた(3年連続で)やるのかな~。皆さん、どうします?

 ※画像は上から
 ①・②JR和歌山線からの風景。①について、同窓生のK瀧君は、「タイトルとJR和歌山線の画像がマッチしていいですね。ジブリみたい」と言ってくれました。
 ③U田君の開会あいさつ
 ④私の乾杯あいさつ
 ⑤~⑧歌う3人組(紀の川市のピーター・ポール&マリーという説も?)

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2017年1月23日 (月)

No.310 21世紀の妖怪の正体と、世界の行方(その2)

(前半「No.309 21世紀の妖怪の正体と、世界の行方(その1)」から続く)

◆過激リーダーたちの共通点──ポピュリズム
今、ヨーロッパ諸国では、EUを支持する既成のリーダー(フランス・オランド大統領、ドイツ・メルケル首相)を、過激なリーダー(フランス国民戦線ル・ペン党首、オーストリア自由党、ドイツのための選択肢、オランダ自由党)が脅かし始めている。
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そのような過激なリーダーには共通点が見られるという。

高千穂大学国際政治学 五野井郁夫教授
人々の不満や怒りを吸収して、それを票につなげていく。敵と味方を区別し、敵と見なされたものを激しく攻撃していく。こうした動きを一般にポピュリズム、大衆迎合主義という。それを先導する者のことをポピュリストと呼ぶ。」
このようなリーダーたちが手を結ぶ可能性もある。

ファラージ氏がトランプの応援演説
トランプのツイッター「是非ファラージ氏をアメリカ大使として迎えたい」
彼らが求めている世界とは何か。

(安田菜津紀)
キャンペーンでの誇張宣伝は、難民問題でも見受けられた。もともと、大国が引いた国境線こそが今のひずみを生んでしまっている。今突きつけられていることの起点を自分たちが生み出したかもしれないという当事者性を取り戻せるかどうかが問われている。一国だけで負担できる問題ではないので、門戸を閉ざせば解決できるものではない。そのひずみが別のところにシフトしていくだけではないか。

(姜)
イギリスにもかつてはファシストがいた。オズワルド・モズレー。イタリアやナチスと強いつながりを持った。EUの場合、ドイツとフランスが最後の防波堤なので、フランス大統領選挙でこれが決壊すれば、EUは崩壊するのではないか。今年の最大のテーマは、フランスでも同じことが起きるかどうか。そうなるとかなり世界が変わる。オランダ、フランス、イタリア、ドイツ。

(寺島)
イギリスには、今や金融くらいしか世界に冠たる産業はない。ロールスロイスはドイツのBMW、ジャガーはインドの自動車会社の傘下に入ってしまっている。ロンドンシティの声を12月に行って聞いてきたが、ヘッジファンドの人たちはEUの縛りを否定し、離脱を支持した。今月イギリスの最高裁がEU離脱の手続(国会の承認の要否)について判断が下ることになっているので注目したい。

(岸田)
民主主義はポピュリズムに弱い。日本でも小泉は、政治不信が高まったときに「自民党をぶっ壊す」と言って出てきて、郵政選挙で刺客まで送り込んだ。独裁体制ができてしまう。

世界の声
ロンドン ナショナリズムの行き過ぎが怖い。
ロンドン 人種差別
ロンドン テロが心配
モスクワ 第3次世界大戦

◆「成長欲求」から「退行欲求」への逆行
トランプ氏とファラージ氏の主張は共通点が多い。
他者を排除する表現
人間が壁を作ってきた歴史
得体のしれない不安に突き動かされたとき、人は壁を作る。

早稲田大学名誉教授 加藤諦三(社会心理学)
「壁を作ることは、心に壁を作ることの象徴。人とのコミュニケーションができなくなったということ。自分の価値が否定されるのが怖いし、不安だから、自分の世界に閉じこもる。人間は矛盾した存在で、基本的に「成長欲求」と「退行欲求」を持っている。成長欲求は負担を背に成長していこうということ。大変厳しいが結果として人間にとって幸せに。退行欲求は、その場の満足を求める。負担から逃れたいという小さな子どものいいとこ取り。去年(2016年)は明らかに世界は成長欲求を拒否した壁を作った。去年の流れのままそれぞれの国が退行欲求に従えば、人類が成長を拒否した流れが主流になってしまう。非常に危険な状態になる。」
世界は壁を作り続けるのか。
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パネル
成長欲求は、コミュニケーションを求める、理念を追求し負担を背負う、長期的に考えるのに対し、退行欲求は、壁を作る、内向き、敵をつくる。

(姜)
アメリカの裕福な人たちの「gated city」を世界に広げようとしている。また、異質な人たちをあぶり出そうとする。「敵は外と内にいる」といってナチスはユダヤ人をあぶり出した。それが外側と通じているとする。それが分かりやすいのが「テロリスト」。日本の幕末期にも起きていた。「外からやってくる列強と呼応する内なる分子がいるはずだ。あぶり出さないと秩序が大変なことになる。」ある種の純化思想。自分たちを純化したい。これが悲劇を生んできたことは近代でいくつもあった。非常に危険。

(目加田)イギリスのEU離脱もアメリカのトランプ政権誕生も、よもやという形で起こった事件。結果はいずれも拮抗していた。大多数が支持していたわけではない。誰かのせいにしたり壁を作ったからといって、時間稼ぎはできるかもしれないが、問題が解決するわけではないことを冷静に受け止める必要がある。

(関口)
第二次世界大戦後、人類は成長欲求の方で進めてきたのに、逆に向き出したのか。
(寺島)
75億人のうち60億人以上は未だに成長欲求の中を生きている。途上国、新興国。求められているのはリーダーの見識。日本から見れば、羅針盤がなくなり、自分で考えないといけなくなってきている。

世界の声
バンコク
イスタンブール 右傾化の恐怖のトンネル

◆強いリーダー渇望と、インターネットによる加速
今世界を動かしているもう一つの力は、強いリーダーを求める群衆のエネルギー。

法政大学(経済学)竹田茂夫教授
一連の現象は、グローバル化した金融資本主義の一つの病。グローバル化によって製造業はどんどん賃金の安い国に流れ、アメリカ国内の製造業で働いていた人たちは見捨てられる。その結果、格差は拡大し、金融資本主義のトップにいる人たちは信じられないような高額の資産・所得を得る。少し前の言葉で言えば「勝ち組」「負け組」。社会が分断され、負け組の方で結局人がバラバラにされていく。」

難民・移民の流入が職を奪うというよりも、グローバル経済が生み出す格差拡大・生活不安などのゆがみこそが、むしろ根本的な問題。
こうした人々の動きを、急速により激しく加速させる背景は、インターネットの拡大。

高千穂大学国際政治学 五野井郁夫教授
インターネットの影響が非常に大きい。リーダーの根拠のない発言やデマをネットを介してうのみにする人が出てくる。そこで憎悪や差別感情が増幅されていく。」
ネット上で流れる根拠のないフェイクニュースをそのまま信じる人々や、ヘイトクライム(憎悪犯罪)も後を絶たない。
「今まで我々は、それを言ったらおしまいという建前があったはず。それをかなぐり捨てて、本音だけをストレートに言う。そこにタブーを破ったような快感がある。ポピュリズムは“多数者による支配”。多数派の意見こそ正しいということになると、少数者、マイノリティの権利が蹂躙される恐れがある。歴史的に振り返ると“ファシズム”がこれにあたる。」

ニューヨーク州立大学名誉教授 イマニュエル・ローラースティン氏
世界の覇権をめぐる歴史研究で知られる。
「アメリカの栄光は(少数派を含む)多様性にあるが、現実のアメリカはそれほど多様性に富んでいない。経済状況が悪化する中で人々はどんどん保守的になっている。保守的になればなるほど、人々は強い政府を求める。しかし、トランプ氏を支持した人々は1年後、2年後にはがっかりするだろう。どこかの時点で人々は言い出すだろう。「おいおい、あんなに約束したはずなのに具体的成果は何も無いじゃないか」と。第二次世界大戦が終わってから25年ほど、アメリカは世界で覇権的な力を持っていた。アメリカがやりたいと思うことは95%実現することができた。しかし、2016年、2017年の今、何の前提もなくアメリカに追随する国など存在しない。どの国も自国の利益を追求するうえで最善の同盟国の組み合わせを探っている。ただ一つ確かなことは、今まで40年、50年続いてきた“システム”、そして今後も20年くらいは続くと思われる今の“システム”は存続しないということ。2040、2050年ころには我々は新たな“システム”の中で生きているだろう。だが、それがどのような“システム”か、私にも予測できない」
これまで、70年から80年感覚で大きな変化が起きてきたという歴史上のジンクスがまた繰り返されることになるのか。

◆今、世界と日本に求められること
(寺島)
今年は明治維新から150年。明治維新から70、80年経った真珠湾前後ころ、日本は大きく迷い込んだ。それは、幕末維新の動乱期に歯を食いしばって耐えた人たちが歴史の前線から消えていった。歴史の教訓が伝わらなくなった。日本も戦後70年を過ぎて、歴史の教訓をどう整理し、伝えていくのかという場面に来ている。世界的に見れば、あまりに肥大化したグローバル金融資本主義をどうやって制御していくのかということに、いよいよ踏み込まなければならない時期に来ている

(姜)
戦後は、第一次、第二次世界大戦によって影響を受けた時代だった。逆説的だが、2つの世界大戦がもたらしたのは、みんなが限りなく平等に生きられるようにという「平等」だった。それとおさらばできると思ったこの時期に、気が付くと格差が広がり、第一次大戦以前の世界に戻っている
今大切なことは、中産層を安定的に増やす。医療、保険、介護、年金など、みんなが安心して暮らせるようなものに社会的資源を配分すること。目先の成長よりも、10年先の中産層の安定を作っていかないと、アメリカやイギリスのように浮遊していく。漂白しないためのアンカーを作っていく必要がある。
日本の独自性という点では、これまで会社の中に自分たちのアイデンティティを持ってきた。日本的経営がダメになったときに、ナショナリズムに行きやすい状況にある。ボランタリーな中間集団を作って、人々がすくい上げられる必要がある。自分一人だという感覚を持たせないために、NGO、NPOなどがもっともっとできる必要がある

(目加田)
確実に変化が起きている。国連で核兵器禁止交渉を110カ国以上が決めた。誰が本当に変化に対応できるのか。市民社会のエネルギーが、トランプなどが出てきたために活性化する可能性がある。オキュパイやもう一つの世界は可能など、問題が明確になることによって力が結集させていく可能性もある。人道主義、人権、平等など、人類が不断の努力で築いてきた価値観が崩れてしまうかもしれないという危機感。壊すのは一瞬だが築くのは本当に大変だということに気づいたうえで、新たな価値を築いていくことが求められている。

(安田)
現在世界を覆っている不寛容さを見ると、出自や宗教や置かれた立場などによる線引きが必要以上になされ、一人一人の顔が打ち消されて集団がノッペラボーになり、攻撃しやすくなっている。争いを始めるのは権力者であっても、それを広げるのは大衆やメディア。沈黙こそが集まって、不寛容さに向かう世界を築いてしまう。人と人とをつなぎ得る言葉を紡ぎあえる1年にしたい。

(岸井)
今が歴史の転換期。今までと質的に違う。これまでの人類の文明とは何かということが突きつけられている。ルネッサンス以来の意識の転換期を迎えている。

テロの惨劇
イスタンブール、ベルリン、アンカラ、アンカラ、ブリュッセル
シリア・アレッポ、イラク・モスル、トルコ軍事クーデター、ギリシャ・マケドニア国境
混迷を深める世界、排他的な世界
日本でも同じことが起こっている。日本のヘイトデモ、沖縄・高江
他方で、地球規模の問題は置き去り
他者への思いやりを持って頑張らなければならない。

 ※画像は上から
  ①2016年~2017年の世界の政治的な動き
  ②「成長欲求」と「退行欲求」
  ③ジョン・レノン「IMAGINE」のプレート
  ④ロサンゼルスの男性のインタビュー


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2017年1月22日 (日)

No.309 21世紀の妖怪の正体と、世界の行方(その1)

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 1月8日、新年最初の「サンデーモーニング」は、新春スペシャルとして「迷える世界~日本の立ち位置~」を放映した。
 私はいつもこの番組は録画しておいて後でさらっと観るだけなのだが、今回は、昨年アメリカ大統領選挙でトランプ氏が当選し就任を目前に控えていること、ヨーロッパや日本でも大きな歴史的な転換点に来ているのではないか(もしかしたら新たな戦前になりつつあるのではないか)という危機感があることから、じっくりと放送を観た。すると、予想以上に興味深い内容だったので、自分なりに吟味するため、その要点を書き起こしてみることにした。
 以下は、私なりの要点書き起こしにすぎず、正確な再現ではないことを、お断りしておく。また、◆印の見出しは私が付したもので、下線は私が興味深く感じた部分に付したものである(前半、後半に分けて投稿する。)。

(以下、番組書き起こし・前半)
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鵺(ぬえ)という妖怪は、不吉な時代に出る。鳴く夜は不吉なことが起こると言われる。
顔が猿、胴体が狸、手足が虎、尻尾が蛇。
平安時代末期に御所に現れたが、源頼政が退治した。
現代に現れたら、誰が退治するのか。番組の象徴として掲げたい。

◆格差と貧困への苛立ちが生み出した「トランプ大統領」
トランプを選んだアメリカで何が起きているのか。
1月20日に就任式の予定。
堂々とトランプ支持を語る人々。ニューヨーク
移民に対する差別・偏見を煽る数々の発言を続けている。
トランプ旋風の吹いた2015年、KKKは支部の数が72→190と、2倍以上に増加した。
ナチスドイツ式の敬礼をする新たな極右勢力が現れた。

ペンシルベニア州のジョンズタウン
伝統的に民主党の強いところだったが、今回はトランプが勝利。それに大きく貢献したのが白人中間層の怒りだった。
ペンシルバニアを含むアメリカの中・西部一帯(ニューヨーク、ペンシルベニア、オハイオ州はラストベルト(さびついた地域)と呼ばれている。
20世紀半ばまで鉄鋼・重工業などアメリカの主要産業の拠点として栄え、それを主に白人労働者が支えてきた。しかし、自由貿易によって製造業は衰退。
ラストベルトのうちミシガン、ウィスコンシン、オハイオ、ペンシルバニア、インディアナ州でトランプが勝利(他にイリノイ、ニューヨーク)。

ジョンズタウンの元溶接工、ポール・カジミアチャックさん(58歳)。溶接工として鉄道車両工場で勤務してきたが、9年前の工場閉鎖で失業。その後アルバイトをしながら看護学校に通い、今は看護師として働いている。
「溶接工のころの方が収入は良かった。今は変わった。倹約して何とかやっている。私の周りにも仕事のない人が多くいる。」
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アメリカ全体では景気が上向きで、失業率も下がっているが、製造業の就業者はこの20年ほどでおよそ3分の2に減っている。失業者も増加するなか、取り残される白人労働者の不満・不安を取り込んでいったのがトランプだった
トランプの演説「中国や日本から雇用を取り戻す」「アメリカを再び偉大な国にする」
ポール氏はこれまで民主党を支持してきたが、今回トランプに乗り換えた。
「選挙では(ワシントンの)ロビイストたちの声ばかりが取り入れられて、私たちは置いてきぼり。トランプ氏なら言ったことを守ってくれる」

不安・不満を生み出すアメリカ社会の崩壊。それは若者の教育現場にも及ぶ。
公立大学の授業料は15年間で約2倍になった。約7割が学生ローンを利用している。10万ドル(約1170万円)以上の債務を抱えている人が約203万人もいる。次世代の中間層になるべき若者たちにも崩壊の波が押し寄せている。
ケント州立大学を去年卒業したトニー・バイルシモさん(27歳)は、現在の学生ローン残高が約650万円。その重荷から、教師への道を諦めた。
「学生から大金をむしりとる金融会社は問題です。政府は企業が若い世代に重荷を課していることを理解していない。クリントン氏を好きになれなかったのは彼女が銀行・ウォール街と結びついているから。」

今、アメリカでは富裕層と貧困層の2極化が進行中。国民の7人に1人が貧困層といわれている。
こうした貧困層に追い打ちをかける事態も起きている。
ミシガン州デトロイト市にある工場跡地。デトロイト市は自動車産業の都市として発展したが、2013年7月に財政が破綻。その影響で警察や消防などの公共サービスが低下。
デトロイトは最盛期、年間1000万台の車を生産していたが、人口は185万人(1950年)から68万人(2012年)に6割減少。税収が落ち込み、公共サービスが低下。街灯の4割が消え、公園の7割が閉鎖。警察官も人員削減され、犯罪率が上昇。一時は全米で最も危険な街とまで言われた。アメリカではこのように十分な公共サービスを受けられない自治体が少なくない。

荒廃するアメリカ社会。人々の怒りは特定の人々にも向かっている。
メキシコと国境を接するアリゾナ州。武装した住民ンが不法移民の入国を監視している。「不法移民はアメリカ国民ではない。彼らは全てを奪っていく」「国境を開くと貧困が入り込んで社会環境が悪くなる」
アメリカの不法移民は1110万人で、アメリカの根幹を揺るがしかねない事態となっている。
アメリカの白人は1960年には85%だったのに、2011年には63%、2050年には47%になるといわれている。中南米からのヒスパニックが増えると言われている。移民国家としての多様性をエネルギーに成長してきたアメリカだが、白人が多数派でなくなるかもしれないという危機感は、アメリカが持つ価値観、寛容な精神に微妙な影を落とし始めている。
「私は中流階級の市民ですが、生活費を稼ぐだけで手いっぱい」(若い女性)
「この国は苦しんでいる人がたくさんいる。不法移民を受け入れて仕事を取られてしまった。移民には来てほしくない」(中年男性)
「もともと分断していた。トランプが分断したのではなく、分断していたからトランプ氏が勝ったんだ。」(中年男性)
かつての覇権国アメリカの崩壊は、今後世界にどのような影響をもたらすのか。

◆「トランプ政権」の性格と懸念
トランプは選挙後も、国境の壁、核能力・軍拡競争、テロ事件、アメリカ製品と雇用、中国の貿易批判などをツイッターで繰り返している。

(寺島実郎)
格差や貧困に対する苛立ちがトランプを大統領にしてしまった。しかし、この政権が始まる前から、この政権の性格が次第に見えてきている。政権の主要人事は、金融・財界、軍出身者を多用。保守強硬派や脱オバマ路線の人たちも並んでいる。産業と金融の違い。製造業が急速に衰えていくアメリカ。今回のトヨタ叩きに見えてきているように、保護主義で闘っていかなければならないという宿命を背負っているが、一方で驚くほどの金融シフトで、ウオールストリートをしばるという人事になっていない。財務長官も商務長官もウオールストリートのマネーゲーマー。産業については保護主義、金融については自由主義で股裂きのような状態。時間の経過とともに、国民の中に大きな失望が生まれる時が来るだろう

(姜)
今回の大統領選の対立は本来バーニー・サンダースとトランプの争いだった。自分たちを苦しめる人を選んでしまった。民主党はサンダースを候補者にして一騎討ちにさせる方がよかった。恐れているのは、軍人とビジネスマンなので、軍事ケインズ主義(軍事産業を通じて公共的な投資をしていくこと)が台頭し、軍事介入をしたり戦争を起こすこともあり得る。それを通じて国内の雇用が出てくるならいいのではないかという意見が出てくるのを危惧する。

(岸井)
80年代レーガン政権時代にアメリカにいたが、当時はみんなアメリカンドリームを信じていた。とにかく努力すれば成功するチャンスは平等にあると。これが完全に終わった。アメリカの失速。

(目加田説子)
大きな戦争で世界秩序を変えられる時代は終わった。共通のルールや共有できる価値観をいかに広げていけるのかが鍵になってくる。

◆EUを離脱したイギリスの場合
ニューヨークの人々の声。
イギリスでも同じような動き。
昨年6月、EU離脱をめぐる国民投票。当初の予想を覆し、離脱派が勝利した。イギリスが離脱を選んだEU欧州連合の発足の背景には、人類が過去に犯した過ちが深く関係している。有史以来戦争を繰り返してきたヨーロッパ。火種となったのは国境線。第1次世界大戦では、一般市民までが戦争に駆り出された。毒ガス兵器などで死者約3700万人。ヒトラー率いるナチス政権が台頭。世界は再び戦争の泥沼に。多くのユダヤ人が虐殺されるなど、死者は約6000万人。惨劇が再びヨーロッパで繰り返された。こうした悲惨な歴史への反省から、国境をなくすために作ったのがEU欧州連合だった。ユーロ紙幣には、開かれた共同体を示す門や窓、人と人との交流を意味する橋が描かれるなどEUの理念が刻まれている。2012年にはノーベル平和賞を受賞。平和に向けた人類の壮大な実験と呼ばれている。
なぜイギリスは離脱という選択をしたのか。

選択の裏には一人の政治家がいた。イギリス独立党の党首だったナイジェル・ファラージ氏。
ファラージ氏へのインタビュー。「誰をこの国に入れるかはその国が決めれなければならないのに、EUはそれを禁じている。誰でも日本に来られるようになったらどうする?イヤでしょう」
移民問題などで主導権を握るEUへの不満が支持を集めた。「国境を取り戻そう。イギリスへのパスポートを取り戻そう」
ドイツ メルケル首相「我々は助けを求めてヨーロッパに逃れてくる人々を尊重しなければならない」
しかし、イギリスでは東ヨーロッパからの移民が増加。生活が脅かされているとして反発が強まっている。特にその声が強かったのが、イギリス中部のボストン。75.6%がEU離脱に投票。

EU離脱に投票した作業員(45歳)
「EU諸国から多くの移民が来ていて仕事を狙っている。そのため以前より仕事が減った。最悪の時は週に1回しか仕事がない。」

このような不満を取り込んでいったのがファラージ氏だった。庶民派をアピールし、離脱に向け支持を獲得していった。
しかし、離脱が決まった後で問題が発覚。キャンペーン中、「イギリスはEUに毎週3億5000万ポンドを負担している。離脱すればその金を国営医療サービスに回せる」と宣伝したが、実際の負担は1億数千万ポンドで、誇張されたものだった。
離脱派の主張は誤りだったことを認め、突然独立党の党首を辞任。
離脱派はその後も集会を行っている。「イギリスは完全な主権国家となり、尊厳、世界での力を取り戻す」、「我々は自由で独立した国になれる」
こうした動きは、他国にも広がりを見せている。

(以下、後半「No.310 21世紀の妖怪の正体と、世界の行方(その2)」に続く)

 ※画像(上から)
 ①新春スペシャルの冒頭
 ②今回の特番の象徴とされた「鵺」(ぬえ)
 ③20年間で3分の2に減少したアメリカの製造業就業者数


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2017年1月 5日 (木)

No.305 「過労死のない社会へ、行動を」──没後10周年を前に、北村 仁さんを偲ぶ

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◆はじめに


 北村仁さん(愛称“キタジン”さん)が2007年4月13日に急死してから、今年10周年を迎える。


 「十年一昔」というとおり、10年の歳月は長い。私が関わり続けている過労死家族の会でも、北村さんのことを知らない人たちが大半となった。


 そこで、少し長くなるが(このブログの文章の中で最長のものになりそうである)、10周年を前に、北村さんの事例と、過労死遺族の運動に果たした功績について書き記しておきたい。


◆北村さんの事案と民事裁判の闘い


 北村さんは、1997年(平成9年)4月に日本通運尼崎支店に契約社員として入社したが、発症前1年間で時間外労働時間1500時間、休日わずか38日という激務を余儀なくされる中で、入社2年半後の1999年(平成11年)9月23日、自宅で急性心筋梗塞を発症し、一命はとりとめたものの心臓にペースメーカーを埋め込んだ身体障害者となった(身体障害等級1級、労災後遺障害等級7級)。


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 北村さんは2000年(平成12年)2月、尼崎労基署に労災申請をしたが、会社はその直後に契約を更新しない旨の通知書を送りつけてきた。


 同年8月、労基署は北村さんの発症を労働災害と認定するとともに、同年12月、会社に是正勧告を行ったが、会社は業務を改善しようという姿勢さえ示さなかった。


 北村さんはこのような会社に怒りを覚えていたところ、2000年(平成12年)12月に開かれた大阪過労死家族の会10周年のつどいに参加して、家族の会に加わるとともに、私たち弁護団に民事訴訟を依頼した(弁護団は私と上出恭子、中西基弁護士)。私たちは約1年間にわたる準備(証拠保全手続を含む)を経て、2001年(平成13年)12月、会社を被告として民事訴訟を提起した。


 裁判では、長時間過重労働の実態の主張立証と、中村賢治医師に医学意見書を書いていただき医学立証に努めた。2003年(平成15年)1月28日の人証調べ期日(原告本人と元上司の尋問)には、35名もの傍聴者で法廷は埋まった。


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 この人証調べの後、裁判所から和解勧告があり、3月7日と4月3日の2回の和解期日で、3300万円を会社が支払うことを内容とする和解が成立した。


 当初、和解金額は3000万円とすることで和解協議は進んでいたが、北村さんが強く求めた会社の謝罪を会社が頑なに拒否したことから、裁判所の提案で300万円が上積みされて和解となったのである。


 北村さんは「この増額分の300万円は、いわばオマケのようなものなので、過労死遺族の闘いに役立ててほしい」と申し出て、このうち200万円を拠出して、過労死遺族に労災申請や民事訴訟の費用を援助する「大阪過労死家族の会 労災・裁判支援機金」(通称“アンパンマン基金”)を設立した。この基金は、これまで多くの人たちによって活用されている。


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◆全国の過労死遺族たちをつなげた北村さんの支援活動


 これ以降北村さんは、自分の残された人生を過労死家族の会のために捧げたといっていいだろう。①大阪過労死家族の会の事務局、②家族の会のメーリングリストの運営、③大阪家族の会のホームページの開設などを積極的に引き受けるとともに、④1997年を最後に中断していた過労死遺族の交流会を2002年から復活させ、2003年からは「夏の一泊交流会」として、全国から子どもたちも同伴して参加できる一大イベントにまとめあげた。⑤のみならず、北村さんは自ら全国を走り回って過労死遺族の闘いを支援し始めた。解決金でトヨタのプリウスを購入し、支援者や遺族たちを乗せて、東京や山梨、長野、岡山、福岡など、全国の裁判の支援にかけつけるようになったのである。北村さんのこれらの活動によって、過労死遺族たちの全国的な交流と相互支援が広がった。


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 また、⑥実際にあった過労自殺事件をモデルにした名古屋の市民劇団「希求座」(当時)の劇「あの子が死んだ朝」の大阪公演(2006年11月)を実現する取り組みや、⑦当時導入されようとしていた(今もされようとしている)ホワイトカラーエグゼンプション(ある程度の年収のある労働者を労働時間の規制から外す制度)導入に反対する取り組みについても積極的に関わった。その中で、北村さんは、「遺族が過労死・過労自殺の悲惨さと、人間らしい働き方の大切さを訴える「語り部」として訴えること」の大切さを語っていた。


 さらに、北村さんは、労働者の立場に立った社会保険労務士になることを決意し、社労士試験の受験も始めたが、あとわずかのところでなかなか合格できなかった。


 北村さんは、新しい過労死遺族の支援を訴えたとき、自ら涙を抑えきれず嗚咽しながら訴えたこともあった。忘年会の二次会などで歌うカラオケは、「島人ぬ宝」や「島唄」など沖縄の歌が多かったように記憶している。まるで父親のように時には厳しく、時には優しく、人に寄り添える人だった。


 


◆北村さんの“遺言”となった歴史的文書


 そんな北村さんは、2007年2月、次のような一文を書いている。



    「過労死のない社会へ、行動を」─新しい段階を迎えた過労死家族の会の活動


                             大阪過労死を考える家族の会事務局 北村 仁


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1 はじめに


 「大阪過労死を考える家族の会」(以下、家族の会)が結成されたのは、1990年12月8日のことで、この12月8日は日本が、第二次世界大戦に突入した「真珠湾攻撃」の日です。労働現場が「戦場」化しつつあった当時、企業において戦死者をこれ以上出さないようにという遺族の願いで、この日に結成されたと、結成当時からの会員から聞きました。その願いも虚しく、現在の労働現場は、完全に「戦場」となっています。

 私自身は、2000年12月9日の、家族の会結成10周年「過労死を考える集い」からの参加になりますので、結成当時の事は、当時の資料あるいは結成当時から活動している遺族の方々から聞いて知っている範囲です。


 私も、働き過ぎによって命を落とすということについては無知であり、「よく働き、よく遊ぶ」ことを、男の美学と感じておりました。しかし、1999年9月23日深夜、急性心筋梗塞を発症し、生死の淵をさまようことで、人間は働き過ぎたら死ぬのだということを初めて思い知らされました。労災申請して認定された後、大阪過労死問題連絡会の先生に相談し、民事裁判を受任していただいてから、家族の会の仲間に加わり、存命の私が遺族の方々に励まされ、企業責任を問い、一定の成果を出すことが出来ました。その後、家族の会の世話人兼事務局員という形で、深く家族の会と関わるようになり、今では私のライフワークとなっています。


2 家族の会の活動の目的


 家族の会の目的として、下記の4つのことが規約で定められています。

(1) 本会は過労で倒れた本人とその家族或いは遺族の為に、労・公災認定の早期実現を目指すと共に、労・公災補償の改善と民事賠償に取り組む。


(2) 被災者の遺・家族及び被災者及び過労死に関心のある団体・個人とが手を結び、過労死の問題を広く社会にアピールしていく。

(3) 過労死の発生する社会的背景について、企業及び監督官庁の健康・安全管理等の問題点を明らかにし、過労死発生の予防に取り組む。


(4) 「家族」相互の情報交換を密にし、支え合い励まし合って連帯の輪を広げていく。

 以上の4点を柱に、実際の活動内容を要約すると「認定、裁判支援・認定基準、訴訟知識の学習・遺族及び支援者との交流・社会、行政へのアピール発信」等を、行っています。


3 学び合い、励まし合う交流の広がり


 1990年の結成からの10年間は、労災認定が非常に難しい10年間でした。この間の苦しい活動を通じて「過労死」という問題について広く社会に認知させ、2001年12月12日に「新・認定基準」に改定させるという大きな成果を得ることが出来ました。この認定基準の改定により、更に多くの遺族が救済されるようになりました。

 しかし、この頃から「過労死」に加え「過労自死」事案が急激に増えてきました。更に、結成当時は主に40歳後半か50歳代が中心であった被災者が、若い世代(20・30歳代)においても増大し、幼い子供を抱えた遺族、究極にはお父さんに抱かれたことがない遺児まで作ってしまうような時代になったのでした。毎月1回定期的に行っている家族の会例会にも、続々と若い遺族が加わるようになりました。


 

1997年で途切れていた遺族の交流会も2002年6月8日に大阪中央区の宿泊施設において「一泊学習交流会」という形で復活させ、2003年度の東大阪市で開かれた一泊学習交流会からは子供同伴可能の交流会になりました。大阪家族の会員以外の地域の遺族にも呼びかけ毎年約60名を越す参加者で恒例行事に位置づけられ、翌2004年度からは奈良県桜井市の国民年金保養所「大和路」に会場を移し現在に至っています。遠くは新潟・群馬・福岡他全国各地からも多くの遺族が参加されるようになり、交流は深夜に及びます。


 昨年(2006年)の交流会では、1日目に東京から過労死問題の第一人者の上畑鉄之丞先生を講師にお招きして学習を、2日目は「過労死グループ」と「過労自死グループ」と2グループに分け、アドバイザーの弁護士・医師・支援者の方々にも加わっていただき、グループミーティングを初めて行い、好評を得ることが出来ました。


 時代の流れも、アナログからデジタル時代に突入し、若い世代を中心に家族の会の情報をインターネットにより求めるようになって来ました。岩城先生からの勧めで、ホームページを作成することになり、講習に出かけ初心者の私が拙いホームページを立ち上げて早3年が過ぎました。ホームページからの相談に、大阪過労死問題連絡会の先生方に協力・支援を仰ぎ、過労死の認定を得ることが出来た方からの嬉しい報告が届いた時は、ホームページを立ち上げて本当に良かったと嬉しさがこみ上げてきました。大阪過労死を考えるホームページは、大阪過労死問題連絡会のホームページと共に、全国の遺族の駆け込み寺になっています。更に、過労死家族のメーリングリストも全国の過労死遺族の重要な交流の場になっています。


 2003年6月28日には、大阪過労死を考える家族の会労災・裁判支援基金を設立しました。賛同していただいた方からの浄財カンパで運用し、認定闘争に必要な資金支援の体制も出来上がりました。


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4 過労死・過労自死をなくすために行動する会へ


 過労死の認定基準が緩和されてきたといっても、まだまだ認定されないケースがたくさんあります。また過労自死の認定基準は実態に合わず、多くの過労自死遺族が涙を飲んでいます。これを打開するには、認定基準やその運用の改善がどうしても必要です。

 また、そのような改善を勝ち取るには、過労死・過労自死に対する世間の理解をもっともっと広げる必要があります。


 そこで、認定や勝訴を勝ち取り自分の事件が終わった遺族も一緒になって、認定基準やその運用の改善を求め、また世間に広く過労死・過労自死をなくそうと訴える活動に、会として取り組み始めました。


 毎年11月に全国家族の会として行っている厚生労働省交渉には、大阪を含め全国で闘っている多くの遺族が参加し、厚労省の担当者に直接訴えをしています。

 また、2003年からは年に数回、「過労死110番」の実施に合わせ、遺族が街頭に立ちマイクを握り、過労死のない社会の実現を目指し、遺族の体験を通行人に呼びかける活動を行うようになりました。


 2006年11月24・25日に上演した劇「あの子が死んだ朝」実行委員会の活動においても、遺族が広告塔となり色々な団体に過労死・過労自死について訴えに行き、取り組みの成功に大きな役割を果たしました。

 さらに、今導入されようとしているホワイトカラーエグゼンプションは「過労死促進法」であり、これが導入されると過労死・過労自死がますます増え、また倒れても本人の自己責任とされ労災認定も難しくなるといわれていることから、過労死遺族の中でも大きな不安と反対の声が広がっています。2006年11月22日には全国過労死を考える家族の会総会において緊急アピールを発し、また大阪でも、「働き方を考える大阪ネット」に結成準備から関わり、遺族がリレートークに積極的に加わるなど、過労死・過労自殺の悲惨さと、人間らしい働き方の大切さを訴える「語り部」としての活動を行っています。


 このように、過労死・過労自死の無い社会の実現を目指す活動の中心に遺族が主体的に活動に参加するようになったのは、大きな前進であると誇らしく思っています。遺族でなければ訴えられないことを、率先して主体的に遺族が訴え、過労死撲滅の先鋒として社会にメッセージを発することが出来る団体に成熟してきたと感じています。


5 家族の会へのいっそうのご支援を


 結成以来16年間の遺族の頑張りで、大きな成果を得てきましたが全員が救済されるということはありません。裁判闘争で勝ち取った判決を積み上げ、近年増加の一途である自死事案の認定基準、労働実態に合致した過労死認定基準の改定へと前進しなければなりません。

 結成当時の初心に戻り、『過労死撲滅』に向け更に前進すると共に、遺族のネットワークを密にし、共通の悲しみを持つ仲間の集団として「運動」+「癒し」が共存できる家族の会でなければならないと私は考えています。


 今後とも皆様からの、あたたかいご支援をお願い致します。

                    (民主法律268号・2007年2月より)



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◆北村さんの急死


 ところが、上記の文書を書いたわずか2か月後の2007年(平成19年)4月13日、北村さんは入院して検査を受けていた病院で突然心筋梗塞を発症して亡くなってしまったのである。周囲の私たちはもちろん、当の本人さえ、まったく予想だにしていないことであった。


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 たまたまこの日お見舞いに行こうとしていた寺西笑子さんたち5人と、訃報を聞いてかけつけた私たち4人は言葉にならないほどの衝撃を受けたが、北村さんには交流のある親族がおられなかったことから、寺西さんが「喪主代行」となって、いわば「家族の会葬」を行うことになったのである。


 


 4月15日の通夜と4月16日の告別式には、全国から実に約140人もの人たちが駆けつけた。お通夜では北村さんの柩の傍で、夜を徹して北村さんの死を悼み、思い出を語り合った。


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 北村さんが生前、「自分は大阪で人間として生まれ変わったので、大阪に骨を埋めたい」と話すのを聞いた遺族がいたことから、お骨は分骨し、4月13日に本骨を故郷の三重県尾鷲市にある実家のお墓に納骨し、分骨は6月6日、大阪の四天王寺に納骨する式を執り行った。


 


 ここでも、これまで親族以外の他人が「施主」になる例がなかったとのことで、当日お寺側と相当揉めたとのことである(当日私は出席できなかったが、松丸正弁護士が大活躍したと聞いている)。少し大げさに言えば、四天王寺開びゃく1300年の歴史の中で初めて、親族でない他の過労死遺族が施主になって、分骨の納骨が実現したのである。


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◆亡くなる直前に取材を受け、亡くなった後に出版された本で紹介


 北村さんは、経済ジャーナリストの岸宣仁氏から取材を受けていて、北村さんが亡くなった3か月半後に「職場砂漠 働きすぎの時代の悲劇」(朝日新書、2007年7月30日第1刷発行)が出版された。


 その中の「「OB」たちが支える全国家族の会」という見出しの文章の中で、北村さんについて次のように記述されている。


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(前略)


 鈴木会長(注、当時全国家族の会の会長であった鈴木美穂さんのこと)は名古屋の会の出身だが、メンバーが多いのは大阪と東京だ。なかでも大阪の活発な活動はつとに知られている。月1回の例会や各家族の裁判の傍聴支援、過労死・過労自殺・サービス残業110番の街頭宣伝活動への参加、年1回の泊まりがけの「一泊学習交流会」‥‥。大阪家族の会で事務局を担当していた北村仁(58歳、07年4月に急死)は生前、こう話していた。


 「小さな子供を抱えた奥さんが労災申請する場合は、まず生活の心配をする必要が出てきます。遺族年金だけだと金額が少ないですから。そういう場合は一発認定を取るために、専門家らの意見を聞いて行動しなければなりません。見ていると、とっかかりでミスしている人がいるので、そういう人に適切にアドバイスするのが家族の会の役割になってきます」


 北村は、自身が日本通運でドライバーをしていて、働きすぎで心筋梗塞を発症した経験の持ち主だった。ペースメーカーをつけているため再就職は無理。「それで時間があるので、会の活動にのめりこんでいった」と謙遜していたが、自身の体験でアドバイスできることがあれば、困っている人にその知恵を伝えたいと思っていたのだろう。


 各地の家族の会で中心メンバーになっているのは、北村のような人たちがほとんどだ。自分の闘いは終わり、労災認定や裁判勝訴の経験を持つ「OB」とでも呼んでいい人たちである。(以下略)


 


 著者の岸氏は、北村さんの急死を知って、驚いていたという。


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◆北村さん没後の10年を振り返って


 そんな北村さんが亡くなってから、10年が経とうとしている。


 北村さんの上記の「行動文書」は、まるで残された私たちへの遺言のように思われた。


 厚労省交渉など過労死家族の会の活動が全国で力強く広がり、全国的な交流も進んだ。


 2009年11月には寺西笑子さんが原告となって「過労死を出した企業名の公表を求める訴訟」を提起した(地裁では勝訴するも高裁・最高裁で敗訴)。


 


 更に2010年(平成22年)10月、全国過労死家族の会が主催して「過労死防止基本法の制定を求める院内集会」を行い、これを受けて2011年(平成23年)11月、「ストップ!過労死 過労死防止法制定実行委員会」を結成した。その後55万を超える署名、143に及ぶ地方自治体の意見書採択などの大運動を経て、ついに2014年(平成24年)6月、衆参両院の全員一致で「過労死等防止対策推進法」が可決・成立、同年11月に施行されたことは、周知のとおりである。


 その後、過労死防止大綱が制定され、先日は初めての過労死白書が発表された。全国のほとんどの都道府県で国主催の過労死防止シンポジウムが行われ、高校や大学での過労死防止の啓発授業が本格的に行われようとしている。


 そして、北村さんの死後、各地に新しい「家族の会」がいくつも結成されている。


 


 私は、この10年を振り返り、北村さんが広げようとした運動を全国の遺族たちが受け継いで発展させ、今の到達点があることを、改めて強く思う。


 ただ、その一方で、もし北村さんが生きて、この運動を一緒にやることができたら、今どんなに喜んでいるだろうと思うと、未だに悲しみと悔しさを振り払うことができないのである。


 ※写真は、上から順に、


 ①民事訴訟で和解が成立した日に(北村さん、上出恭子弁護士と私)(2003・4・3)


 ②大阪家族の会の一泊交流会で裏方を務める北村さん(2005・7・3)


 ③福岡地裁での金谷さん行政訴訟勝訴の日に(2006・4・12)


 ④和歌山の上田さんの勝利祝賀会の二次会にて(2006・4・15)


 ⑤名古屋の劇団希求座の劇「あの子が死んだ朝」の打ち上げ会にて(北村さんは最前列左端)(2006・11・26)


 ⑥大阪家族の会の忘年会で発言する北村さん(2006・12・20)


 ⑦民主法律協会主催「2007年権利討論集会」の懇親会にて(隣は寺西笑子さん)(2007・2・17)


 ⑧北村さんのお葬式の祭壇(2007・4・15)


 ⑨お通夜に駆けつけた人たち(2007・4・15)


 ⑩北村さんの柩(向かって奥)の傍で語り合う参列者たち(2007・4・15)


 ⑪告別式で挨拶をする私と寺西笑子さん(2007・4・16)


 ⑫北村さんが紹介された「職場砂漠」(岸 宣仁著・朝日新書)


 ⑬北村さんの三回忌にて(四天王寺)(2009・4・11)


 


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