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カテゴリー「6-2 イワキ君のルーツ」の14件の記事

2016年8月31日 (水)

No.293 過去への旅路

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 この表題は、私が一時ハマった韓国ドラマ「冬のソナタ」の第15話のタイトルである。
 交通事故で過去の記憶を失っていたチュンサン(ペ・ヨンジュン)は、2度目の交通事故の結果、自分がチュンサンだった記憶を取り戻し始めるが、なかなか思うように戻らないことから、恋人のユジン(チェ・ジウ)と2人で、高校時代に過ごした懐かしい場所を次々と訪れ、記憶を取り戻す旅に出るのである。

 この8月は、私にとっての「過去への旅路」が4回もあった。
①まずは8月13日(土)、中学校(現・紀の川市立打田中学校)の同窓会。1972年(昭和47年)の卒業から実に44年後、1学年4クラス160人のうち31人が集まった(「No.292 44年ぶりの再会に、最高に盛り上がった中学同窓会」)。私が中心メンバーの一人として頑張り、開催にこぎつけられたこともあって、感慨深いものだった。
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②翌週の8月20日(土)には、高校(和歌山県立那賀高校)のクラス同窓会があった。かつては4年に一度(オリンピック開催の年)だったが、最近は2年に一度開かれている。参加者は15人と、若干少なめだったが、心がくつろいだ。

 これに加えて、この夏は私にとって特別な友人2人と旧交を温めることができた。
③8月18日(木)、中学時代のクラスメートのM君(昔のニックネーム「モッカン」)と会い、妻と3人で食事をした。和歌山県紀の川市(当時は打田町)にあったM君の実家は妻の実家と数百メートルしか離れておらず、妻とは保育園時代からの幼なじみである。私は中学校に入って知り合ったが、仲がよかった。最後に会ったのは、確か私の結婚式(1982年)にM君が来てくれた時だったので、34年ぶりということになる。M君に①の中学校同窓会のことで電話をした際、同窓会には行けないが別途会おうか、ということになったのである。

 M君と私は別々の高校に進学したが(私は那賀高校の普通科、M君は隣の粉河高校で開設2年目の理数科に進んだ)、疎遠になった感じはしなかった。同じ国立大学を受験したが(学部は別)どちらも不合格。私は浪人の道を選んだが、M君は名古屋にある別の国立大学(当時は国公立大学は「一期校」「二期校」の2つを受験できたのである。)に進学した。M君は大学卒業後、巨大企業のK電力に就職。原子力発電所関係の要職を歴任し、現在は同社のトップに近い役職に就いている。
 大学卒業後は全く違う道を歩んできたが、会えば10代の頃のままだった。小学校時代から高校までの懐かしい話に花が咲いた。

④8月29日(火)には、浪人時代の友人のS君と会って会食をした。お互いに前に会ったのがいつか、はっきり覚えていなかったが、1994年前後ではないかと思われ、そうすると22年ぶりの再会である。

 私は京都で浪人時代、京都駿台予備校の上賀茂寮で生活していたが、4人部屋だったこともあり勉強に集中できなかったためか、秋の終わりころ寮を出て、当時の下宿屋に転居したのである(転居の理由も時期も、よく思い出せない)。「新井寮」と言われていたその下宿屋には、10人くらいの浪人生が下宿していただろうか。S君はその中の一人だった。
 同じ京大法学部志望ということもあって、なぜかS君とはウマが合い、短い期間だったが親しくなったが、私は合格したが彼は不合格となり、S君は中央大学の法学部に入学した(ちなみに、私も京大に合格できなければ中央大学に行く予定で、入学金も納付済みだった)。
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 S君とは大学時代もつながっていたが、S君は司法試験は受験せず埼玉新聞社に就職。Jリーグ発足前から「浦和レッズ」の担当記者となり、2005年に同社を退社してフリーランスになった後も、サッカー専門のスポーツライターとして活躍し、「浦和レッズの歴史を間近で見続けたジャーナリストの一人」として、その世界では有名になっているようである。
 あのとき、一緒に京大に合格していたらどうなっていただろうかとか、2人で中大に行ってたらとか、入れ代わっていたらどうだっただろうかなどと、ふと考えてみることもある。
 そんなS君と20数年ぶりに会い、浪人時代と大学時代から現在までの来歴について話した。続いてスナックに行き、尽きない話をし、懐かしい歌を歌った。本当に楽しいひとときだった。

 この9月13日私は還暦を迎える。そんな時期に4回も過去に旅ができたのは、私にとって本当に感慨深いことだった。あとどれだけ人生が与えられているかわからないが、これまでの60年間、その時々に家族とともに友人たちがいたからこそ今の自分があるということを噛みしめながら、一日一日を大切に生きていきたいと思う。


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2016年8月15日 (月)

No.292 44年ぶりの再会に、最高に盛り上がった中学同窓会

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 8月13日、JR和歌山駅近くのホテルで、「打田中学校1972年卒業生同窓会」が行われた。
 この同窓会は、5月初めにこのブログに書いたように(「No.283 44年ぶり!の中学同窓会開催に奮闘中」)、中学卒業後44年ぶりに、初めて開いたものである。

 昨年4月ころ、中学の卒業アルバムから名簿を作り始めた時点では、1学年160人のうち10人から20人くらいしか住所がわかっていなかったが、今年4月あたりから本格的に情報を集め始め、最終的には100人以上の住所や連絡先がわかり、案内状を発送した。
 5月29日と7月24日の2回にわたり有志で準備会を行い、当日の進行や役割分担などを行って、準備万端を整えて当日を迎えたのである。
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 当日は、準備会メンバーは12時過ぎに集まって会場の設営と受付準備。12時半くらいから同窓生たちが集まりはじめるのをみんなで出迎えた。
 次々と現れる同級生たちは、すぐにわかる人もいたが、多くの場合、一瞬誰かわからない。「え~っと、どちらさんでしたっけ?」「○○です」「うわー、懐かしい!」と握手、握手、握手。
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 開会時刻には、当日参加できなくなった1人を除き、出席回答をした31人が集まった。
 クラスごとの4つのテーブルに着席してもらい、事前に用意したパンフレット(進行次第、後で歌う予定の歌詞、同窓生からの一言集を綴じたもの)と卒業アルバムのクラスごとの集合写真のコピーを配布。みんな食い入るように読んでくれていた。
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 同窓会本番は、1組のW狭さんと2組のK瀧君の司会で始まった。
 最初に私が開会あいさつとこの日までの経過報告を行ったあと、現在は和歌山市消防局の偉い人になっているという3組のD口君の音頭で、全員で乾杯。
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 続いて、和歌山の地元で様々な活動をしている3組のN谷さんが、当時体育の先生で現在もご健在で活躍されている鈴木常二先生宅を2組のU田君と一緒に訪問して聴いてきた、当時の思い出話の報告と、切り紙(折った紙にハサミを入れ、開くと美しい模様の中に「幸」という漢字が散りばめられている)と折り鶴のパフォーマンスをしてくれて、会場は一気に和やかに盛り上がった。
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 その後テーブルごとに少し食事と歓談をした後、参加者から順次自己紹介。44年間の人生を2、3分で語れるはずもないが、それでも、44年間の歳月の年輪が加わった懐かしい顔を見ながら、それぞれの来し方に思いを寄せることができた。
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 その後、テーブル間も移動しながら、さらに賑やかな歓談が続いた。

 終盤の一番の盛り上がりは、みんなで歌うコーナー。私たちが中学時代に流行った「翼をください」と「戦争を知らない子供たち」、そして最後は「打田中学校校歌」。これらは、中学校の校長を最後に退職した2組のU田君が数十年ぶりに(笑)ギターの練習をし、N谷さんも少し前から一緒にボーカルの練習をして準備してくれたものである。
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 中学校の校歌はインターネットなどでも見当たらず困っていたが、U田君のルートで、現在の打田中学校の関係者から歌詞と楽譜をもらうことができたとのことであった。
 期待どおり、大変な盛り上がりだった。
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 続いて全員で記念撮影。みんな、本当にいい顔をしていた。
 そして、最後に4組のK口君が閉会のあいさつと三本締めで、一次会はお開きとなった。
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 続いて徒歩で移動し、夕方5時半くらいから、D口君が予約してくれていたスナックを借り切って二次会が行われた。事前には、参加者は半分くらいではないかと想像していたが、当日の飛び入りも含めて、大半の23人くらいが参加。
 これも大変な盛り上がりで、耳元で大声で話してもらわないと、他の人の声が聞こえない(笑)。カラオケも次々と懐かしい歌が歌われ、本当に楽しかった。

 カラオケが普及したのはここ20年くらいのことであり、私たちの中学・高校時代にはもちろんカラオケなどなかった。その代わり、みんなで集まってギターを弾いたりしながら歌ったりしたものである。
 それだけに、みんなカラオケをしっかり歌うのは意外だったが、その後これまで長く生きてきてるんだから(笑)、当然といえば当然かもしれない。

 この二次会の途中で、突然2組のK口君から、「みんな、白けさせて悪いけど、亡くなった友だち7人のために黙祷しようよ」という提案があり、すべての音楽もおしゃべりも止めて黙祷をした。本当なら、同窓会の本体の中で私から提案してもおかしくなかったものであり、私の至らなさを申し訳なく思うと共に、そんな風に当時の同級生の友人たちを思いやるK口君の気持ちに胸が熱くなった。K口君、ありがとう。

 二次会は約2時間くらいでお開きとなり、予定していた「公式日程」は終了。私は更にD口君が予約してくれた次の店に7、8人で行き、更におしゃべりとカラオケを楽しんだ。
 お店を出たのは午後10時半くらいで、タクシーでホテルに着いたのは11時前くらいなので、普段からすれば健全なものである(笑)。

 参加者からは、「またやろうよ」「今度はもっとたくさんの人に声をかけようよ」(いずれも実際は和歌山弁である(笑))と、口々に言われた。
 差し当たりは、2年後くらいにまた集まることになりそうである。今回一度開いたので、次回は準備も声かけもずっとやりやすいはずである。

 また、9月10日(土)午後7時から、今回の同窓会の打ち上げ会(笑)を、JR和歌山駅の東口の近くにある「中心屋 あしゃぎ店」というお店で行う予定である。準備に関わったメンバーのほか、今回の同窓会に来れなかった人、更には今回参加したが、まだ物足りない人(笑)も参加できる。人数は当日にならないとわからないが、15人から20人くらいにまで増えるかもしれない。

 この4、5か月間、この同窓会の準備に頑張ってきたので、大成功を喜ぶと共に、「祭のあと」的な寂しさもある(ちょっとした「同窓会ロス」かも(笑))。
 しかし、9月10日にはもう一度集まるし、来週8月20日には高校のクラス同窓会もあるので、これらを楽しみにしたい。

 参加者の皆さん、ありがとうございました。
 準備段階から関わってくれた皆さん、本当にお疲れさまでした。
 また、「同窓会本舗」の皆さんには、本当にお世話になりました。
 ありがとうございました。

 ※画像は上から
 ①ホテル内の会場案内
 ②受付で配布したパンフレットと折り鶴
 ③司会をしてくれたW狭さんとK瀧君
 ④私の経過報告
 ⑤乾杯あいさつをしてくれたD君
 ⑥N谷さんの切り紙パフォーマンス
 ⑦歓談する参加者の人たち
 ⑧みんなで歌ってます
 ⑨打田中学校の校歌
 ⑩閉会あいさつをするK口君
 (なお、①・②・④は、私のクラスメートであったO井君のフェイスブック投稿から拝借しました。)


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2016年3月 8日 (火)

No.276 「政治の春」を呼ぶには──谷口真由美さんをお招きして<「ゆうあい会」結成総会>

◆昨年4月に開設した「いわき総合法律事務所」の1周年を前に、3月5日、大阪天満橋のドーンセンターで「いわき総合法律事務所友の会」(愛称「ゆうあい会」)の結成総会を行った。
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 ゆうあい会は、当事務所に親しみを感じてくださる依頼者や元依頼者、友人、専門家の皆さんによる親睦団体である。日々の暮らしに役立つ講演会や相談会などを行ったり、ハイキングなどの楽しいイベントを行ったりしながら、会員同士や事務所の所員との交流・親睦を図ることを目的としている。昨年8月ころから準備を重ね、この日結成総会を迎えた次第である(なお、「ゆうあい」は、「友愛」と「You & I」と「たか・わき」の頭文字を懸けている(最後は少し苦しいが(笑))。
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 果たしてどれだけの皆さんが参加してくれるか心配であったが、続々と親しい方々、懐かしい方々が集まってくださり、50人を超え会場はほぼ満席になった。

◆中田進先生の開会あいさつの後、メインの記念講演として、大阪国際大学准教授の谷口真由美さんに、「政治の春はいつ来るか?」と題してお話をしていただいた。
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 谷口先生は、人権の国際的保障や女性の権利、ジェンダー法などを専門とされ、大阪大学での「日本国憲法」の講義は名物となっているそうである。また、「全日本おばちゃん党」の代表代行をされ、「日本国憲法 大阪おばちゃん語訳」という本を出版されたことで一躍有名になり、現在はいくつものテレビ・ラジオなどでコメンテーターを務められたり、各地でご講演をされるなど、人気急上昇中である。
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 私は、谷口先生が企画の中心に関わっておられる大阪弁護士会の「市民、弁護士のための国際人権法連続講座」の中の「長時間労働と国際人権法」(2015年5月26日)で講師の一人となり、谷口先生がコーディネーターを務められてお近づきになったことから、今回ご無理をお願いしたところ、超ご多忙であるにもかかわらず快諾してくださった。
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 谷口真由美先生のお話は、とてもわかりやすく、気づかされることがたくさんあった。
・隣の人に、「どう思う?」など、疑問形で語りかけること(問題意識を持っている人は、どうしても自分ばかりがしゃべってしまいがちである)
・マスコミがいい記事を書いたらほめて、応援すること(悪い記事に批判ばかりが集中するが、良い記事をほめることが大切)
・「空気を読まない」人がいることも大事。日本社会に根強い「同調圧力」を上手に乗り越える工夫が必要
・「パーソナル イズ ポリティカル」(日常のすべてが政治につながっている)
・自分が嫌いな政治家にも、言うべきことを言うこと(嫌いな政治家であっても私たちの「代表」である)
・「春」にするには、私たちにも努力がいること
・諦めてはいけない。諦めたら終わり
などなど・・・。
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 講演後の質疑応答にも、臨機応変、縦横無尽に回答してくださった。
 本当はかなり難しい中身を、これだけ平易に、しかも関西弁テイストで話せるのはすごいと思う。これまでの解説者やコメンテーターにはいなかったタイプで、これからもっともっと要請が増えるのではないか。
 先生の著書「日本国憲法 大阪おばちゃん語訳」は、先生がサインをして下さったこともあって20冊全部が完売。一気に「谷口先生ファン」が増えたと思う。
 谷口先生はその後の懇親会、更には有志でのカラオケにまでお付き合いくださった。本当に気さくで、魅力的な方である。
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◆谷口先生に続いて、私から「依頼者に学び、依頼者とともに」と題してお話をさせていただいた。
 まず、私の生まれ育った故郷のこと、両親のこと、小学校時代から大学時代までの、私が弁護士をめざすことに影響を与えた出来事などを話させていただいた。

 続いて、私が弁護士として努めている次の3点について話した。
 ①「なぜ闘うか、どう闘うか」を依頼者と共に考える(単に経済的救済を求めるだけでなく、過去に受けた傷を回復し、未来に向かって歩きだすために闘うこともあるし、「こんなことは許せない」といった義憤・公憤から闘うこともある。そのための手段選択も重要)

 ②「汝は事実を語れ、余は法を語らん(ローマの法格言)」(これは依頼者と弁護士の役割分担でもあるし、二人三脚でもあるし、また、弁護士としての最高水準の活動が求められる)
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 ③支援者がいる場合の「依頼者・弁護士・支援者のトライアングル」(この「3本の矢」が一つになると大きな力を発揮する)
について、実際の事例を挙げながらお話しした。
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◆休憩をはさんで、ゆうあい会の規約と役員の提案をさせていただき、承認された。本当は、今後のゆうあい会の活動のイメージについて意見交換をしたかったが、時間不足でできなかったのが残念である。
 最後に、会長に就任してくださった森岡孝二先生のお礼の言葉と閉会のあいさつで、結成総会はお開きとなった。
 終了後、約50人で撮影した記念写真は壮観だった。
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◆二次会にも、「ドタ参」も含めて約40人の参加があり、谷口先生も参加してくださって、大いに盛り上がった。お互い、それまで知らない者同士だった人たちが親しくなり、話し込んでいるのを見て、私が作りたかったのはこのような会だったと、改めて嬉しく思った。
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◆終了後、まだ物足りない(笑)有志15人くらいでカラオケに繰り出した。なんと谷口先生までお付き合いくださり、振り付け付きで美声を披露してくださった。歌う人も、歌わない人も他の人に「同調圧力」を加えることなく(笑)、皆が楽しめたと思う。

◆このようにして誕生したゆうあい会が、参加者が「楽しかった。勉強になった。参加してよかった」と言ってくれる会になっていくよう、所員一同、世話人の皆さんと力をあわせて頑張っていきたい。

 ※画像は上から、
 ①開会あいさつをする中田進先生
 ②司会をする寺西笑子さんと岩城陽さん
 ③谷口真由美さんの「日本国憲法 おばちゃん語訳」の本の表紙
 ④会場の様子
 ⑤講演する谷口真由美さん
 ⑥谷口真由美さんに花束贈呈
 ⑦講演する岩城弁護士
 ⑧「3本の矢」のイラスト
 ⑨閉会あいさつをする森岡孝二先生
 ⑩二次会の乾杯
 ⑪翌日誕生を迎える谷口真由美さんにサプライズでお贈りしたバースデーケーキ(とっても喜んでくださいました)

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2014年10月12日 (日)

No.212 皆既月食と「月の思い出」

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 10月8日(水)の午後6時台から9時台にかけて、3年ぶりの皆既月食が見られた。大阪でも今回は天候がよく、淀屋橋の橋の上では、仕事帰りのたくさんの人たちがスマホやデジカメで写真を撮っていた。
私もi-Phoneで何枚も撮ってみたが、ピンボケで全然ダメだった。
スマホや安物のデジカメは、昼間の写真はかなりきれいに写るが、夜間の写真(しかも景色など)は、なかなかうまく写らないのが実情ではなかろうか。

 そこで、たまたまフェイスブックを見ていたら、私の元依頼者でITのシステムエンジニアであったNさん(長時間労働とノルマでうつ病を発症し、会社に民事訴訟を提訴、1審で勝訴し高裁で和解した。)が撮影した写真がアップされていた。ご本人の了解を得たので、紹介させていただく。
 また、月面の地図も、インターネットから借用させていただいた。

 月といえば、小学5年のころ、自宅で講読していた学研の「科学」という雑誌の付録の「天体望遠鏡」で、月を大写しに見て感動した記憶がある。
この「科学」は「学習」と並んで、小学生向けの学習雑誌だったが、その記事もさることながら、毎回付いてくる付録がいいのである。磁石、ラジオ、顕微鏡など、実際に実験や体験に使えるものが多く、内容も豊富だった。
この望遠鏡は、自分で買ってきた画用紙を丸めて本体を作り、その両側にレンズをはめ込むという単純なものだったと思うが、自分で作った望遠鏡で観た月の感激は忘れない。
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 私がその後、中学校で「科学部」に入ったり(10円玉に銀メッキをして遊んだりした記憶がある(笑))、ブルーバックスシリーズの本を読んだり、京大の入試科目の理科で「地学」を選択したのも(当時京大では、国語、英語、数学のほか、社会科と理科でそれぞれ2科目ずつ選択しないといけなかった。私は社会科は日本史と世界史、理科は生物と地学を選んだ。)、この影響が大きかったと思う。
 私が中学1年だった1969年7月、アメリカの「アポロ11号」に乗った3人が人類史上初めて月面に降り立ち、「月の石」を持ち帰った時も、胸がわくわくしたことを覚えている。
 船長のアームストロング氏は、月から次のような言葉を送信してきたという。

I'm going to step off the LM now.
これより着陸船から足を踏み降ろす。
That's one small step for (a) man, one giant leap for mankind.
これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。

この「月の石」は、1970年の大阪万博で「アメリカ館」で展示されたが、待ち時間が5時間とかで観ることができなかった。

 そんなことをいろいろと思い出した、今回の皆既月食であった。

 ※画像(上から)
 ①Nさんの撮影した写真(フェイスブックより)。Nさんの説明には、「皆既月食でした。食分が最大の頃。300mm F4反射+EOS KissX5」と記載されている。

 ②月面の地図の説明。アストロアーツというサイトから借用させていただいた。

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2014年9月12日 (金)

No.207 「一人」を楽しみながら深夜まで勉強──「深夜放送」の思い出

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 昭和31年(1956年)生まれの私の小学校高学年~高校時代(1960年代終わり~1970年代前半)は、「深夜放送」の全盛期だった。
 関西では、朝日放送の「ABCヤングリクエスト」(通称「ヤンリク」)と、毎日放送の「MBSヤングタウン」(通称「ヤンタン」)が圧倒的な聴取率を誇っていたと思われる(関東では「セイ!ヤング」や、今もある「オールナイトニッポン」などが有名だったが、関西ではほとんど聴くことができなかった)。

 私が初めて深夜放送の「ヤンリク」を聴いたのは、小学校6年生の時、初めて買った小さな「トランジスタラジオ」(これは、新聞配達でもらった給料で買ったもので、当時で1000円くらいした。)で聴いたのが最初だった。

 昔は、テレビもラジオも、深夜までは放送していなかった。そんな中で、真夜中に一人でイヤホンで密やかに深夜放送を聴くのは、何かしら大人になったような気がしたものである。

 「ヤンタン」は、吉本系などの若いタレントが集まってワイワイと騒ぐパターンが多く、楽しいが、これを聴き始めると勉強にならなかった。これに対して「ヤンリク」は、しっとりとした番組で、BGM的に音楽やトークを聴きながら勉強することができたので、私は「ヤンリク」を聴くことが多かった。

 「ヤンリク」の開始時間は午後11時25分だったと思う。イヤホンを挿して小さなジョグダイヤルを回すと、周波数1008kHz(昔は1010だったように思う)で耳に入ってくる「ハガキで当てよう!車と1万円」の掛け声に続いて、流れてくるテーマソング。歌い手は、初代はあの奥村チヨさん、その後岡本リサさんという女性に変わった。

♪ 夜があなたに ささやく夜も 小窓に雨が 降る夜も  お届けしましょう 若い歌 あなたのおハガキ リクエスト  聴きましょう 夢のリクエスト あなたと2人の クイズと夢のプレゼント  Oh,ABC ヤングリクエスト♪

 この番組は、歌や音楽ばかりでなく、決まった時間に多彩なコーナーがあった。例えば「ミッドナイト寄席」、笑福亭仁鶴の「頭のマッサージ」、「心の旅 遠くへ行きたい」、「スタジオ貸します」などなど。

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 私は実家が英語塾だったので、英語だけは父の授業に無料で(笑)出さされていたが、それ以外はほとんど塾に行ったり家庭教師にお世話になったりしたことはなかった。中学までは、参考書を文字どおり参考にしながら、教科書の予習・復習、高校時代は通信添削で勉強する(当時は「Z会」と並んで双璧をなしていた「オリオン」という通信添削をしていた。)など、基本的に独学で勉強していた。

 そんな孤独な(?)勉強の友が、深夜放送だった。
 住んでいたのが和歌山県の田舎なので、たいした高校受験もなかったが、全国模試や県レベルの模試はあり、結構一生懸命勉強した。

 番組が終わる午前3時まで勉強をすることはあまりなかったが、時々時間を忘れて3時まで聴いていると、エンディングテーマが流れてくる。

♪夜が優しく あなたの胸に 素敵な夢を 運びます  おやすみなさい 明日の夜も 2人の幸せ 歌いましょう  聴きましょう 夢のリクエスト 明日も2人の クイズと夢のプレゼント  Oh,ABC ヤングリクエスト♪

 ヤンリクを一番聴いていたのは、中学時代だった。高校に入っても聴いてはいたが、集中が必要な時にはスイッチを切ることが多くなった。また、高3になると「大学受験ラジオ講座」を聴くことが増え、自然と深夜放送から離れていった。
 そして、浪人時代はほとんど聴かなくなり、大学に入ると、もちろん聴かなくなった。

 私にとって、中学・高校時代、家で一人で遅くまでやった勉強は、深夜放送と一体だった。今でも、ヤンリクのテーマソングや各種コーナーを、昨日のことのように覚えている。
 時々、真夜中に窓を開けて遠くを見たときの、あの何ともいえない不安と切なさみたいな感覚が、私の青春時代のイメージだったような気がする。

 ※画像(上)は、インターネットの無料イラストから拝借しました。
    (下)は、ウィキペディアの「銀河鉄道の夜」のページから拝借しました。
 ※テーマソングは、1曲目が奥村チヨさん、2曲目が岡本リサさんです(YouTube)。
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2014年8月22日 (金)

No.204 「老い支度」の始まりを思う──高校クラス同窓会

 8月16日、JR和歌山駅に隣接する「ホテルグランヴィア和歌山」で、2年ぶりの高校同窓会があった。
 かつては4年に1回、オリンピックが開かれる年に行われていたが、たしか2008年ころから、そろそろ2年に1回くらいした方がいいんじゃないか、ということになり、その後は2年に1回行われている(前回の同窓会については「No.88 37年前にタイムスリップ──那賀高校27期G組同窓会」で書いている)。
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 今回集まったのは、担任の阪口巌先生を含めて16人。毎回2、3人が入れ替わるが、だいたいこのくらいの人数で推移している。
 ただ、今回は、幹事のMさん(旧姓Yさん)が、これまで長年不参加だった人の実家にまで行くなどして調べてくれたおかげで、不参加の人からも近況を書いた回答ハガキがたくさん届いていて、懐かしかった。

 1人ひとりの近況報告を聞いていると、私のクラスは教師になった人が10人(男子5人、女子5人)もいるのだが(もしかしたら男子にはもう少しいるかもしれない)、そのうちの女子5人全員が、60歳の定年まで2年以上残して早期退職していた。
 クラスメート同士で結婚して夫婦で教師をしているSさん・旧姓Tさん夫婦も、奥さんは親の介護のために先に退職。旦那は教頭をしているが、最近はかつての教え子の子どもを教える「2周目」になり、いつまでこの仕事を続けるか悩み始めているとのことだった。

 有名な一部上場企業に勤めているN君は、今年は最後の勝負の年で、このチャンスで結果を出せなければ、事実上子会社に出される、というようなことを言っていた。
 我が学年で成績ダントツで慶応大学医学部に現役で入り、卒業して慶応病院に長年勤めてきたY君は、数年前に系列病院の副院長となり、「将来は和歌山に帰って、生まれ故郷に貢献しようかなあ」みたいなことを言っていた。

 そうか、私たちは、そろそろ定年も近づいてきて、これから早期退職も含めて、「老い支度」を始める年令なのか。私の場合はどうなんだろうか。そんなことを考えさせられた今回の同窓会であった。

 担任の坂口先生は近況報告で、原発の再稼働や、憲法をないがしろにして戦争ができるようにされていることに不安を感じていると話された。やっぱり、先生のような年代の人の方が、強い危機感を感じているのである。
 私は、ようやく過労死防止法が成立したことを、署名への協力のお礼とあわせて報告した。新聞報道や私の事務所の事務所ニュースなどで知っている人もいて、坂口先生をはじめ、何人もの人が「よかったね」と言ってくれた。

 二次会は、和歌山県庁に勤めるK君御用達のスナックへ。途中から事実上の貸し切り状態となり、懐かしい歌のオンパレード。
 深夜0時を過ぎ、更に三次会へ行く人と、和歌山ラーメンを食べて帰ろうというグループに分かれた。私はやっぱり前者だった(笑)。

 みんな、元気だった。他の人も言っていたが、何の利害関係もない、お互いに包み隠しも競争もない。まだ自分がゼロだった頃を共に過ごした友人たち。今もここに来ると、何か安らぐものがある。

                  ☆     ☆    ☆

 私の場合、同窓会があるのはこの高校のクラス同窓会だけで、小学校も中学校も大学も、同窓会が行われていなくて、ちょっと寂しい。そろそろ他の同窓会もあったらいいなあと思う。
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 しかし、誰かが言い出しっぺにならないといけない。そこで、差し当たりは来年くらいに、中学の同窓会の開催を働きかけてみたいと思い、中学の同窓生でもあるMさん(旧姓Yさん)とTさん(旧姓Wさん)、そして私の妻も加わって話し合っている。
 私の卒業した中学校は地元の打田(うちた)町(現在は紀ノ川市の一部)立の打田中学校。昭和47年(1972年)卒業なので、来年会うとすると、実に43年ぶりである。今からちょっとワクワクしている。

  ※右の画像は打田中学校。ウィキペディアからお借りしました。

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2013年6月24日 (月)

No.124 ボウリングにはまっていた日々

 ボウリングが最初にブームになったのは、私が中学生だった1970年(昭和45年)頃のようである。高度経済成長の中で、私のいた和歌山の田舎まで、ボウリング場が広がってきた。
 当時、女子プロ第1号の中山律子さんという人が、「さーわーやーかー律子さん♪」のメロディの花王のシャンプーのCMに出て、大ヒットしたのを覚えている人も多いのではないか。
 私も、隣町(岩出町)にできたボウリング場に、友人たちと何度か出かけた記憶がある。当時はスコアは、自分で鉛筆で記入していた。
 当時は今のようにゲームセンターもカラオケもなく、田舎の中・高生が友だちと行けるのは、ボウリングとバッティングセンターとスケートリンク(冬のみ)くらいだった。

 学生時代や司法試験受験時代も時々は行ったが、弁護士になると、事務所内のレクリエーションや会派の懇親などで、結構ボウリングをやることが多くなった。

 しかし、私の中で一番ボウリングにはまったのは、2人の子どもたちが小学校高学年から中学生くらいのころであった。特に、負けず嫌いの長男とは、よく2人で「勝負」に出かけた。お互いに意地になって、1日に15~20ゲームくらいやることも多かった。親指に豆ができてつぶれ、血まみれになりながら(笑)やったこともあった。
 そんな中で長男は235という驚異的なスコアを出し、私は210台が限度で、これを超えられなかった。
 下記は、あべの総合法律事務所のニュース「いずみ」11号(2000年9月発行)の「所員随想」に掲載された、私の一文である。
 また、写真は、当時「ラウンドワン大仙店」で撮ってくれた写真である。当時ラウンドワンでは「ムーンライト・ストライク・ゲーム」というイベントがあった。突然館内の照明が消えて暗くなり、その時2投目の人が投げ終えた後、全レーンで一斉に投げ、ストライクが出ると記念品と写真撮影のプレゼントがあるのである。このボウリングのピンの「かぶりもの」の写真は、大変ウケた。
 今となっては、懐かしい思い出である。

     ただいま、ボウリングにはまってます。

                     弁護士 岩城 穣

 今年の6月ころから、日曜日は2人の息子たち(中3と小6)を連れて、近くのボウリング場によく行くようになった。
 ボウリングはもともと嫌いではなかったが、結構な運動量になるし(あの重い球を1ゲームで約20球投げることになり、5ゲームで約100球になる)、かなりのストレス解消になる。特にスポットに入って一瞬で全部のピンが吹っ飛んだり、難しいスプリットを狙ってスペアが取れたりすると、何ともいえない爽快感がある。
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 上手な人のようにフックボール(ピンの直前で曲がるボール)が投げられないので、あまり点数は伸びないが、それでもアベレージで150台になり、まれにスコアが200を超えることもある。8月初めにあった弁護士会の所属会派のボウリング大会には長男と2人で参加し、私は珍しく3位に滑り込んだ。
 最初のころは5ゲームもすると親指に豆ができてつぶれるし、翌日は体じゅうが痛かったりしたが、最近はずいぶん体も慣れてきた。
 子どもたちは私に追いつこうと一生懸命で、長男には時々負けるようになってきた。先日は長男は235という驚異的な(?)スコアを出した。次男も最近は時々ストライクが出るようになってきた。
 弁護士には休日はゴルフをする人が多い。ゴルフをやらない私はちょっと寂しい気もするが、体を動かし、ストレスを解消し、平日はできない家族サービスができ、自分も結構楽しい、そんなボウリングに、今のところもう少し「はまって」いようと思う。


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2013年5月26日 (日)

No.119 プラモデルの思い出

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 小学生の頃、私はプラモデル(略称して「プラモ」といった)を作るのが好きだった。今のようにTVゲームもインターネットゲームのなかった時代、プラモに凝っていた男の子は多かったと思う。

 現在の「ガンダム」のように合体したり解体したりできる玩具ではなく、たくさんの部品をフレームからニッパーやカッターで上手にフレームから切り離し、接着剤(セメダイン)で1つずつ組み立てていくのである。相当な根気と時間を要するが、無心で作っていた。

 私がよく作ったプラモのジャンルは、次のようなものだった。
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【怪獣】 ゴジラ、モスラ、恐竜など。電池で動くものが好きだった。
【お城】 和歌山城、姫路城、熊本城など、本物のミニチュアである。
【戦車】 日本のだけでなく、アメリカのものもよくあった。
【戦闘機】 零戦や紫電改など、日本のものが好きだった。
【軍艦】 「大和」をはじめ、日本のかつての軍艦が多かった。
【帆船】 帆は布で、ロープはたこ糸で本物のように作っていた。

 このうちお城や軍艦、帆船は、かなり精巧で、部品の数も多かったが、ていねいに時間をかけて作るのが好きだったし、出来上がったプラモデルを眺めていると飽きなかった。

 1つ1つのプラモデルは数百円から1000円台だったと思うが、相当な数だから、ずいぶんお金も使ったことになる。当時の実家は裕福ではなかったが、母親に頼み込んで買ってもらっていた。今から思えば結構無理をして買ってくれていたのではないかと思う。

 戦車や戦闘機、軍艦はいずれも戦争で実際に使われたものである。ある時私が母に、自分の作った戦車のプラモデルを見せて「これカッコいいやろ」と自慢したところ、母が「作るのはいいけど、それは人殺しの武器なんやで。私は嫌いや」と言われたことがあった。それからは沖縄戦や特攻隊などを意識するようになり、「戦争モノ」は作らなくなった。

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 プラモデルではないが、「ライトプレーン」もよく作った。竹ひごを火であぶるなどして曲げて骨組みを作り、主翼・水平翼・尾翼のフレームにに半紙を貼り、霧を吹きつけて乾かしてピンと張らせ、胴体に取り付けたゴムを動力として飛ぶものである。自分が作った紙飛行機が大空を飛ぶ瞬間は、何とも言えない爽快感、感動があった。

 小学校の中学年ころになると、「レーシングカー」(走行スピードを変えられる電動スポーツカーをコースを走らせて競走させるもの)が流行ったが、数千円する高価な玩具だったので、うちではさすがに買ってもらえず、買ってもらった子の家に行って一緒に遊ばせてもらっていた。

 これらに限らず、私はモノを作るのがとても好きだった。自宅にある大工道具を使って、トントンカチカチしていた。そのため大工道具がどこかに行ってしまい、父によく叱られた(ずいぶん経ってから赤錆びて出てきたりした)。
 小学生の頃は、「大きくなったら何になりたい?」の質問に対する答えは、「大工さん!」であった。

 ※写真は上から、姫路城、戦艦大和、ライトプレーン。ネットから借用させていただいた。

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2013年1月30日 (水)

No.107 ユニークな学生寮で、自由な学生生活を謳歌──「第二進修学舎」での4年間

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 京都駿台予備校に「上賀茂寮」から通うという、苦しかった浪人生活を抜け出し、晴れて京大法学部に合格した私は、どこに住もうかと考える中で、偶然に「第二進修学舎」のことを知った。

 「第二進修学舎」は、左京区一乗寺里ノ西町にあった、定員わずか16人の小さな学生寮である。私は4年間(1976~1979年)を、この寮で過ごした。

 ここは、実にユニークであった。
 ① 和歌山県出身であれば、どの大学に通っていても入寮の資格があった。
 ② 住み込みの寮母さん(当時は、山口らいさんというおばさんがいた)が、食事の世話などをしてくれていた。
 ③ 運営は寮生自身による完全な自治で行っていた。「寮委員会」が執行機関、寮生全員による月1回の「舎生会議」が最高議決機関であった。

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 私の年は、2人の募集に対して、26人もの応募があり、課題作文と、寮生自身による面接が行われた。緊張して合格する気がしなかったが、なぜか奇跡的に合格した。
 入ってから知ったが、ここはすごい歴史のある寮であった。文明開化が叫ばれた明治の終わりの明治44年、旧紀州藩主の徳川頼倫公が「南葵育英会」を設立し、みずから数十万円(当時の時価にして約7億円という)を拠出して賛助者を募り、学資不足で進学を断念しようとした旧紀州藩出身の子弟の育英に尽くそうと、自分の江戸屋敷の一角に進修学舎(第一進修学舎)、京都に第二進修学舎、北海道に第三進修学舎を作ったとのことである(平成元年2月和歌山県議会で質疑がなされている)。
 つまり、紀州藩の末裔が、紀州出身の学生を支援して立身出世できるよう図ったのである。その後、東京の「第一」、札幌の「第三」はなくなり、京都のこの「第二」だけが残っていたという。

1977


 そんな難しい話とは関係なく、進修学舎での生活は本当に楽しかった。
 京大のほか、同志社、立命、京都工繊大、京都府立大、京産大、龍谷大など所属大学も学部も多彩で、同郷という親近感と、16人という少人数で、寮生は本当に仲がよかった。寮内では、和歌山弁が「共通語」であった。

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 毎年春には女子大との「合ハイ」(合同ハイキング)があり、秋には「寮祭」があった。
 寮祭には、たった16人の寮に200人くらいの女子学生が来てくれ、木造建物の床が抜けなかったのが不思議なくらいであった。あちこちの部屋で、いろんな出し物や出店が行われた。女子学生をたくさん迎えて、嬉し恥ずかしの高揚した一日であった。


 また、日常的にも、それぞれ自分の勉強もする一方で、毎晩必ずあちこちの部屋で、酒を酌み交わしながら議論したり、麻雀をしたりしていた。本当に、楽しい日々であった。

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 ただ、この寮は4年間を超えて在籍することは認められず、これから本格的に司法試験の勉強を始めようという私は。4回生の終わりにここを出ざるを得なかった。

 その後、毎年、卒寮生と在寮生が一緒になった同窓会総会が行われていたが、超低金利時代が続き、財団法人による財政的な維持が困難になったとのことで、80余年の歴史を閉じ、2004年(平成16年)3月27日、同窓会の解散総会が行われた(私が参加したのはこの解散総会が最初で最後だった)。

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 子どもから大人へ、親の庇護のもとから一人立ちした社会人へ──そのちょうど真ん中の学生時代。楽しさ、不安、友情、連帯、仲間。そんな「青い」学生時代を、この寮で過ごせたことは、本当に幸せだった。
 ワンルームマンションに住み高い家賃を払い、帰ったら一人ぼっち、また、入学してもアルバイトとすぐさま就職活動に突入する、今の学生たちのことを思うと、本当に恵まれていたと思う。
 そんなすばらしいものを、若い世代に残してあげられなかったことに、一抹の責任も感じてしまう(もっとも私がどうかできるようなものではなかったが)。

 寮でのイベントがあれば必ず歌った「進修学舎小唄」。この歌を口ずさめば、いつもこころはあの頃にワープする。みんな今、どうしているだろうか。

 ※写真の説明(上から順)
  ① 入寮した年の同窓会(私は後列右から4番目)
  ② 入寮してすぐにあった保津川での「合ハイ」(私は左から2番目)
  ③ 2回生の時の寮祭(私はちょうど真ん中)
  ④ 4回生の時の寮祭(コーヒー豆を挽いている模様。今の長男に実に似ている)
  ⑤ 4回生の終わりの「追い出し旅行」(私は前列右から2番目)
  ⑥ 進修学舎小唄

  ①と⑥は、第二進修学舎のブログから借用させていただきました。


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2012年12月27日 (木)

No.101 「幸福な王子」に号泣──小学生のころ

 弁護士になって25年経った今でも、ふと思い出す童話がある。
 なぜ、あんなに泣いたのかわからない。涙と嗚咽が止まらないことに自分でも驚いていた。小学校4,5年生のころ、オスカー・ワイルドの童話「幸福な王子」(私が読んだ本は「幸福の王子」というタイトルだったような気がする。)を読んだ時のことである。
 ストーリーは、おおよそ次のようなものだった。

 ある街の柱の上に自我を持った幸福な王子の像が立っていた。両目には青いサファイア、腰の剣の装飾には真っ赤なルビーが輝き、体は金箔に包まれていて、心臓は鉛で作られていた。とても美しい王子は街の人々の自慢だった。 121227happy_prince_2


 渡り鳥であるが故にエジプトに旅に出ようとしていたツバメが寝床を探し、王子の像の足元で寝ようとすると突然上から大粒の涙が降ってくる。
 王子はこの場所から見える不幸な人々に自分の宝石をあげてきて欲しいとツバメに頼む。
 ツバメは言われた通り王子の剣の装飾に使われていたルビーを病気の子供がいる貧しい母親に、両目のサファイアを飢えた若い劇作家と幼いマッチ売りの少女に持っていく。エジプトに渡る事を中止し、街に残る事を決意したツバメは街中を飛び回り、両目をなくし目の見えなくなった王子に色々な話を聞かせる。王子はツバメの話を聞き、まだたくさんの不幸な人々に自分の体の金箔を剥がし分け与えて欲しいと頼む。

 やがて冬が訪れ、王子はみすぼらしい姿になり、南の国へ渡り損ねたツバメも次第に弱っていく。 死を悟ったツバメは最後の力を振り絞って飛び上がり王子にキスをして彼の足元で力尽きる。その瞬間、王子の鉛の心臓は音を立て二つに割れてしまった。
 みすぼらしい姿になった王子の像は心無い人々によって柱から取り外され、溶鉱炉で溶かされたが鉛の心臓だけは溶けず、ツバメと一緒にゴミ溜めに捨てられた。

 時を同じく天国では、下界の様子を見ていた神が天使に「この街で最も尊きものを二つ持ってきなさい」と命じ、天使はゴミ溜めに捨てられた王子の鉛の心臓と死んだツバメを持ってくる。神は天使を褒め、そして王子とツバメは楽園で永遠に幸福になった。
(ウィキペディアより転載。画像は、ウォルター・クレインによる挿絵)

 貧しい人、困っている人のために、自分にとってかけがえのないものを次々と与えていく。ついには、その世界を見るための目までも・・・。ツバメも、生きるための越冬の旅を断念して王子のもとに残る決心をし、王子の目の代わりと届け手を続け、最後には王子に寄り添って死んでいく。

 これほど悲しい自己犠牲、利他行為がほかにあるだろうか。最後の、みすぼらしくなった王子の像が焼かれた後に、鉛の心臓だけが溶けずに残り、ツバメの遺体と一緒にゴミ溜めに捨てられたというところで、涙が止まらなかったのだろうと思う。

 ただ、他方で、「こんな風に自分の体の一部をあげていったら、ほんの数人しか助けてあげられないし、最後は世界が見えなくなってしまうではないか。貧しい人や困っている人は世の中にたくさんいるのに、自分が死んでしまったら、そんな人たちを助けられなくなるではないか」──そんな自問自答をし、やり場のない悔しさを感じたことも覚えている。

 その後、中学2年の歴史で古代ローマの「護民官」に自分の中で反応するものがあり、中学3年の公民で「国選弁護人」について知り、弁護士がいいなあと漠然と思ったのが、弁護士をめざしたきっかけであるが、今思えば、その源流にこの「幸福の王子」を読んだ時の涙と悔しさがあるような気がするのである。

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